謹賀新年に寄せて・・・・勝間和代さんと実家の近所のオッサンの話。

あけましておめでとうございます。今年も・・・というか今年はほんとマジで色々とご協力をよろしくお願いいたします。

今、実家の神戸に帰ってきてるんですが、今さっき紅白でレディガガのステージやってて、いやーよかったなあーと思いました。

うちの母親はあんまりこういう新しい音楽に詳しくない方だと思うんですが、「レディガガっていう人はすごいよ!聞かなあかんで圭造!あれはただの変な格好してる人ちゃうで!言ってることやってることに魂があるわ!!」とか言ってた(笑)うんうん、いや別にあんたに言われんでもファンやで。

うちの母親は、色々問題ある人だと思うんですけど、ことなんか「やたらポジティブでめげない」ところだけはかなり凄いレベル(妻があんな人見たことないとびっくりするぐらい)の人なんですよね。

そういうのって普段は結構疲れる部分があると思うんですが、今年みたいに「来年はマジで勝負の年やで!」ってなってる時には、あの暑苦しいポジティブさも、まあまあ受け流せる感じで。

「出版おめでとう!」ってわざわざ書いてあるケーキの蝋燭を吹き消させてもらったりしてたんですけど(笑)

近所のオバチャンネットワークに宣伝しまくってくれてるそうで、まあ、それも昔なら暑苦しすぎると思ってたと思うけど、まあ、今年はええかなという感じです。




困るのが、毎年帰るたびに勝間和代さんの本を薦めてくるんですよね。

勝間さんはマッキンゼーの先輩なんですが(在職期間がかぶってないんで、個人的にお会いしたことは無いんですけど)、うちの母親の中では、息子が勤めてた会社に居た人なんだから、「近い立場の人に違いない」的な?なんかそういう単純な連想があるような・・・感じで。

毎年毎年律儀に薦めてくるんですよ。「なあ圭造、これ読んだ?」みたいな。うん・・・まあ・・・・みたいな(笑)

勝間さんって、ファンとアンチに凄い分かれる部分あると思うんですが、勝間さんも物凄く物凄くポジティブな方なんで、こっちの準備が整ってないときには暑苦しすぎて困っちゃうってところがあるんだと思います。

うちの母親と始終一緒にいたら疲れてたまらんみたいな感じで。

でも、今年は、「起きていることはすべて正しい」って本だったんですが、案外素直に読めてる自分がいたりして・・・・いや、凄い面白かったし共感できる部分もたくさんありました。これからこうしようみたいな実例的なヒントもかなりたくさんあったし。

まあ、そんなこと言ったら「ニッポンダンジとして裏切り者だ!」って怒る人もいると思うんですが、まあ、でも、ポジティブな人はそれ自体で別に悪いことはないと思うんで、まあ、いいじゃないですか。

ていうかもう、みんなのことばっかりを考えすぎるのは限界ってとこあるし、みんなのことを考えてただ自分が我慢してるだけだと結局どこにも希望がないわけなんでね。



なんで勝間さんにアンチがたくさんいるかっていう問題は(これは本の中で勝間さんが紹介していた神田昌典さんにも似たような問題があると思うんですが)、ある種「薩長同盟」的な話題だと思うんで、ちょっと深く考えてみたいんですがね。

単純に言うと、「今の世界の文脈として光が当たりやすい人」以外にとったら、「そんなこと言われても困る」っていうことなんだと思うんですよね。

要するに、彼女の存在のあり方、成功の仕方が、一種のグローバリズム的なシステムを前提としたものの上に成り立ってるんで、「あたしはこうして成功したんだからあなたもすれば?」って言われて、それを取り入れられる人と、取り入れられない人がいるんですよね。

で、それは、一種「グローバリズム的」「客観的に認知されやすいもの」・・・・そういう「システム的な網目」の中にキチンと納まる位置に生まれ育った人と、そうじゃない人の違い・・・だし、で、その「システム」自体が、現状はやはり「人間の集団のリアリティそのもの」から見ると大分手前の大雑把な認識しかできてないものなんで、「現地現物のリアリティ」からすると、そういう「わかりやすい話」にまとめて自分を売っていくわけにはいかない人(言ってみれば”和の国日本”的な、”薩摩藩的”な人生を歩んでいる人)・・・・と、「なんでポジティブにアピールしていかないの?」という人たち(グローバリズムを利用してシンプルな個人主義的に生きている人)とのギャップ・・・・みたいな感じなんだと思うんですよ。

ちょっと考えてみてほしいんですが、アメリカって、「筋目の学歴的に光があたってる人」と、「アーティストやスポーツ選手で物凄い才能を発揮した人」は世界最高レベルの活躍をしてますけど、一方で「普通の普通の人」の領域に光があたらなすぎてかなりヤバイことになってる国でもあるじゃないですか。

ある種の常識的秩序が崩壊しちゃった領域において、どうやって立ち直っていったらいいのかわからないようなヤバい状況になってる階層もある国になってしまってる。

その辺、日本のほうがよっぽど平均レベル高いし、よっぽどヤバイことになってる地域・人の集団でも、それなりに「日本人だからこれぐらいはね」っていうレベルが維持されてたりするじゃないですか。その差はどこにあるんだろうか?っていうとこありますよね。

その違いは、アメリカでは、全世界に「IQ的秩序」というか「客観性によって構築されたシステム」をいきわたらせておく、そういう「とりあえず人類をつなぎとめておくための大雑把な共通了解の普及役」みたいな使命ゆえに、過剰なまでに「客観化されたシステム」に「権限」を与えている社会なんで、だからつまりは「そのシステムが取りこぼしているリアリティを代表している人」から自尊心をネコソギに奪って、「12歳で大学を卒業して物理の論文を書く才能」に振り向けている「社会の構造」をしてるからなんですよね。

で、別にそれが駄目ってわけじゃなくて、むしろそんな無理をしてでも全人類をバラバラにならないように繋ぎ止める「とりあえずの共通了解」をシステムとしてガッチリ維持してくれてて、ほんと感謝せなあかんなって思うんですけど、でも、日本のよさって、その「180度逆」みたいなところにあるじゃないですか。

で、そういう「アメリカとは真逆な構造」をしていることが、「日本のものづくり」とか、「行き届いたサービス業」とかの、「強みの源泉」になってるんですよね。

だから、勝間さん的なモードでもし日本人1億数千万人全員の「個人」がアメリカンに大雑把な形で覚醒しすぎると、日本人が寄り集まって密度感を持って存在していることから来る「一番の長所的価値」みたいなのが、崩壊してしてしまうという「一周回ってくる論理」があるんですよ。いわゆる「合成の誤謬」と言ってもいい。

って、これは別に勝間さんご本人やカツマファンさんを批判してるんじゃなくて、一個前・二つ前の記事で書いたように、とりあえずそういう人には、「屍を超えていけ」じゃないけど、とにかく一回突き抜けてもらわんと、日本社会を本当の意味で「前」に進ませることができないんで、遠慮なく「リジョイスアンラブユアセルフトゥデイ、コーズベイビーユーワーボーンディスウェイ」でガンガンそのまま行っていただきたいんですけど。

でも、そういうあなたも、僕の本とかこのブログを読んでいただけると、あなたがたが今どうしても理解できない(と思っておられると思われる)あなた以外の日本人の「端的にはポジティブになれない人たち」に、それなりの理由があるってこともご理解いただけて、その上でお互いの良さを活かしあう「薩長同盟的関係」に持ち込むにはどうしたらいいか・・・・を一緒に考え始めることができるんじゃないかと思います。



まあ、こんなことを考えるのは、やっぱ一個前・二つ前で書いたような合唱団の指揮者体験みたいなんが大きいんですけどね。普通はもっと単純に個人主義的に生きれてる世の中だと思うんで。

なんかこう、一種の「概念的一貫性」みたいなのを「組織」にごり押しに導入すると、「目新しさの興奮剤」が生きてる間はいいんですけど、そのあとだんだん齟齬が起きてきたりするんですよね。

これはまあ、経営コンサル体験としてもそう思ったし、一義的には、やっぱね、合唱団でそういうことをすると、「声がやせてくる」んですよね。

仕事だと「これが必要ですよね、仕事だからやってください」で押し通してればとりあえずはいいんで、超長期的に生起する体質的問題なんかは無視していることが(特に”押し通す側”の役割の人には)可能なんですがね。

アマチュアで、合唱団の指揮とかやってると、2時間の練習の後半になったらもう「おまえのリーダーシップは無理強いなんだよカス!”自然そのものの波”を見習って出なおしてこい!」みたいなメッセージを強烈に受け取る(いやそんなこと言われたりしないけど声の感じがそうなってくるんですよ)ことになるんで、ほんと「骨身にしみて」、無理強いしたらアカンなーって思ってしまったところがあって。

ある種の「自然の波」の「感じ」から外れたことしたら、一瞬だけキャッチーなことできるけど、長期的(合唱団だとほんと1時間どころか30分程度で)に見たらほんとガチガチのパサパサなものになってきてしまうもんやなーって感じなんですよ。

これはもうトラウマレベルのことなんですよね僕にとっては。そうでなければもっとクリアーでオシャレな領域でデキル人風の仕事だけをして生きてこれたんですけど、なんか道を踏み外してしまって(笑)あらゆる友人に「おまえなにやってんねん」と呆れられるような道になってしまったんですけど。

無理やりな息の吸わせ方して声を出させると、一瞬強い声はでてくるんですけど、だんだん硬くなってくるんで、だから、「概念的一貫性・大域的合理性」を「組織」に導入するには、やっぱ物凄くあれこれ考えなくちゃいけない問題が多くて、それをやってないと、結局最終的に、「一部の光があたる存在」と、「そうでない存在」との差が開いてきちゃうし、組織の「密度感」みたいなのが薄れてきて、やさぐれて治安が悪くなったり色々問題起こすやつがでてきたり、考えられないミスをする体質になったりね、色々するんですよね。

そういうのがもっとマクロに大きな形で出てきてるのがね、例えば最近の先進国のどこでもヤバくなってきてる国債の問題だと思うんですよ。

「グローバリズムシステム的なものの全世界的普及」によって、あらゆる先進国で「本来的な集団の連動性確保のための文化的・社会的了解」を破壊しちゃった結果、「大域的に見たときの人間集団の本来的チームワーク」を発揮するには「国のサイン」でやるしかなくなっちゃう・・・・ってなってしまってることが、先進各国の国債がかなりヤバイ水準になってきつつあることの根源的なレベルでの理由なんですよね。

まあ、僕の本はそういうことに関しても、解決の一つの道筋を提示したいと思ってはいるんですが。

でもね、繰り返すようですけど、こういう話をすると誤解を受けやすいんですが、勝間さんは勝間さんの道を行くことがいろんな人への希望になると思うし、カツマーファンのかたがたを含めて、そういう人が自分の道に疑念を抱いて突き進むのをやめてしまったら、ほんと元も子もないんで、「屍を超えていく」つもりでがんがん行ってくれていいんですよ。これはほんとに。

いくらうっとおしいとはいえ、うちの母親がやたらネガティブなこと言いはじめたら、それはそれで、なんか、僕としても寂しいところがあるしね。

僕が結局「両者の発展的結合」をうまくやっていくための「方策」について人生かけて探求してこれた、その「めげなさ」も、母親がアホみたいに「ぜんぜんめげない」人なんで、その影響を毎年帰るたびに受けてここまで来れたってとこありますしね。

大事なのは、「これから」、両者の発展的なシナジーに持っていく「薩長同盟の気運」をどうやってみんなで高めていくかっていうことを、みんなで考えていくことなんでね。

それに、いざ「システム外のリアリティ」を「システム上に乗せる」ところまで「PQ的大道楽」が進んだら、そこからは神田昌典さんの方法論とか、勝間さんのポジティブさみたいなんが凄い必要になってくる領域がありますからね。

だからこそ、ちゃんと「リレー」することが今後必要になってくるんですよね。それでこそ「薩長同盟」ですからね。どっちかが我慢することなく、どっちもの良さをシステム上に乗せていかないといけないわけなんで。

「今まで」は必然なんですよ。まさに「起きていることはすべて正しい」by勝間和代さん(笑)



で、まあ僕個人としてもね、いつまでもその両者のハザマでただ苦しみ続けてても誰のためにもならないし、僕と結婚してくれた妻にも苦労させることになるんで、どっかで見切ってしまわなあかんなって部分あるんですけど。

で、そのための「アタマで納得できる理由」で言うとね、ちゃんと、その「システムがはじき出しているもの」を「システム内に入れ込んでしまう方策の普及」”自体”を、僕の今後の仕事の中心にしていこうとしてるから、だからOKだろって部分があるんですよね。

本の中にちゃんと、「システムの外側の生身のリアリティ」を代表する人が、「アメリカンなシステムに乗っけられる事業」を、会員さんたちと時間かけて作っていった事例をいくつか載せたし、そのムーブメント自体を今後仕掛けていくのを「仕事」にしていこうとしてるしね。

だから、それで勘弁したってやってとこなんですけどね。

結局、「アメリカンなシステム」で「わかりやすい」事業は、神田昌典さんや勝間さん方式でがんがん売っていけばいいんですよ。

でも、それだけだと、人間の存在の本当のリアリティからすると、はるか手前の、「今売りやすいもの」だけで世界が埋め尽くされるんで、次々発売される「まったく新しい●●!!」っていうののどれ見てもあんまり「本当にほしいもの」がない・・・・っていうような、なんかそういう感じになってきて、「経済システム」が「生きている人間の本当のリアリティ的欲求」からするとどんどん遠くなっちゃうんですよね。(根本的な意味でのデフレの原因ってコレだと私は考えているんですが・・・・”なぜ?を五回以上繰り返す”とか言うレベルで言えば)

でも、「本当はこういうのが必要だと思うんだけどなあ・・・」ってあいまいな段階の、「今の世の中的に理解されづらい段階」からジックリ時間をかけてはじめて、初めて、5年ネチネチと準備をしたあげく、やっと「アメリカンなシステム」に乗っけられるものに仕上げた事例を、会員さんの「普通のおじさん(あんまりアッパーにバリバリカツマー的な仕事をするタイプじゃない)」をけしかけて作ることができたんですよね。まあ、それだけじゃなくていくつか事例があるんですが。

そういうのを僕は「PQ的大道楽」と呼んでいるんですが、そういう「道楽」レベルで時間かけて、「あやふやなもの」から、「システムに乗せられるもの」に転換していくプロセスさえちゃんと分厚く存在する世の中になったら、そこから先は神田さんとか勝間さんとか、それこそ「グローバリズムの奥底の希望」の部分で完全にポジティブにノリノリにやっていけばいい世界になるんですよ。

「IQ的システム」が取りこぼしている「フィジカル・フィロソフィシャル・パーソナル」な領域を、ジックリジットリネチネチと「個人」の中で熟成させて、時間をかけて結晶化させていって、「アメリカンに大雑把なシステム」にもちゃんと「乗せられる」形に準備する・・・・そういうフローをちゃんと社会の中にビルトインできれば、「グローバリズムvsアンチグローバリズム」みたいにどっちの立場にもどっちにもの必然性がある議論を延々と平行線にやり続ける必要がなくなるじゃないですか。

まあ、そのプロセスのことについては、来年・・・じゃなかった、もう今年やん!の2012年2月にでる新書を期待していただきたいんですけどね。



まあ、だからね、ただ「俺はこう成功したからお前もやれ」で終わってる本じゃないわけなんで、僕の本を売っていくっていうことが、グローバリズムが「取りこぼしてしまう位置の使命を持ってる人」を引き上げることに繋がるように持って行ったんで、だから僕が一緒に不幸になってるだけやったら誰のためにもなってへんやん?俺そろそろセルアウト(ヒップホップアーティストがマスに売れていくことを批判するときに使う言葉)してっても良くね?・・・・みたいな、そういう「頭での納得」っていうのはすでに出来てたんですけどね。

でもなんか、やっぱ染み付いた「ニッポンジンとしての義理」みたいなのから、あと一歩抜け出しづらい部分があったんですけど。

でも、今日、凄い「本能的なレベル」で、自分を自由にしてくれるような話を聞いたんですよね。

母親が話してた、近所のちょっと変なオッサンの話が、「いいなあ!」って思ったんですよ。



実は、実家の近所にちょっと変なオッサンがいてですね、その人、独り身らしいんですけど、家の前にやたら鳥のエサを撒くんですよね。趣味?なのか、寂しさを紛らわせてるのか、それはわからないんですが。

で、それが、ちょっとやそっとの量じゃないんですよ。もう尋常じゃない量鳥のエサを撒くんですよ。で、鳥がグワアアアアアって集まってくるんで、隣にあるうちの実家のエントランスも鳥の糞だらけになってたんですよね。もうかれこれ5年ー10年ぐらいはそれが続いてたと思うんですけど。

で、それの苦情言いに行っても辞めないんですよね。ちょっとの時期辞めててもそれすぐ再開するんですよ。で、半分あきらめてたんですけど。

でも、なんでも決してあきらめないうちの母親はですね、地区の婦人会?かなんかに相談したらしんですよね。で、そしたら婦人会の方が、定期的にその「鳥男さん」を訪問してくれることになったらしいんですよ。

で、それから長い間訪問を続けてたらね、なんか鳥男さん結構カタクナな心が溶けてきたみたいで、ついに「もう撒くのやめます」って言ってくれたらしいんですよね。

しかも、婦人会のみなさんがどこかの役所から高圧洗浄機を借りてきてくれて、それでみんなでその歩道を掃除したらしいんですよ。その鳥男さんと、そのお隣の、これまた奥さんに去られて今は独り身の寂しいオジサンも含めてみんなでね。

その鳥男さんとは違うもう一人のオジサンの家も、奥さんに逃げられてから家の前の雑草がボウボウになってたらしいんですけど、「あたし刈ってあげるわよ」みたいな感じで、婦人会の人が一緒に刈り取ってくれたらしくて(笑)

さっき実家帰ってきた時に見たんですけど、歩道も凄いきれいになってるし、そのお隣のオジサンの家の雑草も超綺麗に刈りそろえられてたりね(笑)

しかも、その高圧洗浄機を役所に返しにいくのも、「鳥男さん」ともう一人のオジサンが、「迷惑かけたし、重いんで二人で行きますわ」って言ってくれたらしくてですね。

なんか・・・・よくわからんけど妙に「大団円だなあ!」って思ったというか。

いや、そんな大した問題ではないっちゃそうなんですけど、でもうちの近所じゃあ、ここ10年ずっと大問題だったことが、こんなにダイナミックに色んな人達が集まってきて解決に至ったって、やっぱそれなりに凄いことだと思うんですよ。

で、そのオッサン一人がどうこうってだけじゃなくて、それがシンボリックに表す日本社会の「今」の感覚としても・・・なんか、凄く希望が持てたんですよね。



要するに、僕の中で何が自分をここまで潜伏させて、世に出て行くことができていなかったかっていうと、ある意味言ってみればそういうオッサンのことを常に気にかけてたからなんですよね。

いや、こんなことを言うと、なんでお前がそんな変なオッサンのことまで気にかけとかなアカンねんな?ってみんなに言われるんですけど。まあ、合唱団体験のトラウマ?なのかな?

べ、別に、俺はそんなオッサンがどーなろうと知ったこっちゃないんだけどね!ただ俺がジョンレノンみたいに有名になったときに、俺が生み出したムーブメントでそういうオッサンが「さらに生きにくい」世の中になってってたら、常にマークチャップマンみたいなのに怯えて生きなくちゃいけなくなるから、それが嫌だってだけなんだからね!べつにそのオッサンのこと気にかけてるってわけじゃないんだからね!勘違いしないでよ!!!

・・・・っていう半分冗談半分本気(笑)な話はともかく、まあ、僕もどう考えてそう思ってるのかよくわからないですけど、なんやろね?

でも関西人はなかなかそういうところで「ダメなオッサン」に対してやたらと寛容でいすぎてしまう部分があって、それは良い部分も悪い部分もあるな・・・って思うんですけど。

なんか、その「文化」ゆえに、もっと普通に輝ける存在やった人間まで無理矢理「ダメ人間ぶらせてる」部分もあるなーというのは、関西人歴30年を超える私が体感としてヒジョーに感じることであります。僕自身も、なんかついつい自分を低めて低めて言う感じになって、それが良くない効果を持つことがかなりありますしね。

橋下大阪市長が誕生して、いろんな意味で締め付けを厳しくしていくみたいな流れですけど、まあ民意なんでそれがダメとか良いとか言ってても仕方なく「そう選んだ」ってことなんで、もしそうしていくんだとしたら、案外「今までの大阪のあり方」が、それぞれの構成員のプライドまで根こそぎにして「わざわざダメ人間ぶらせる」方向に関西人を導き過ぎてたんちゃうかな?っていう反省の契機にすると有意義なんじゃなかろうかと思いますね。

戦前の大阪って、ましてや江戸時代の”大坂”って、もっとパリッとしたプライドのある関西人文化があったように思うんですよね。

なんせ人類史上初のデリバティブ(先物取引)を実現した町ってぐらいですしね。なんか、「ニューヨーク的な町」と言っていいような何かがあったはずなんですよ。どっちにもタテジマのユニフォームの野球チームがあるしね(笑)

大阪の本町っていう(多分江戸時代から続いてる)ビジネス街が僕は結構好きなんですが、船井総研時代にいくつか取引先があってよく行ってたんですけど、なんか、凄く「商都大阪のプライド」みたいなんを、今だに感じる気分が漂ってて良いなあ!って思うんですよ。

今もあるかはわかりませんけど当時、雑居ビルの入り口に、超ビカビカに磨かれたフェアレディZがいつも置いてあるところがあって、そこ通り抜けるたびに、そこの社長(たぶん)の「心意気」みたいなん感じて「いいなあ!」って思ってたんですよね。

あと、大阪国際ビルの一階の本屋さんとか、なんか棚の感じがね、例えばビジネス書の並びが、「ハーバードビジネスレビューと神田昌典さんの本と”かんき出版の営業本”が、どれが上ってこともなく並列に並んでる」ような感じが、他のちょっと「カッコ付けた地域の書店」とは違う「商都大阪の良心」て感じで、なんかいいなあと思ったし、ビジネス街のど真ん中なのにビジネス書に偏らない、なんつーか「文化のかほり」的な品揃えも充実してるところとかがね、その総体としてのバランスが、なんかとにかく、いいなあって思ってたんですよね当時。

そんな感じで「本町っていいなあ!」って凄く思って、だから(今はもう僕あんまり普段スーツ着ないですけど)いわゆる「一張羅」的なスーツは、小学校の同級生の両親の宝石店の店主がツテで教えてくれた本町船場の昔ながらのオーダーメイドの店で作ったってぐらいなんですよ。

なんか・・・・いいんですよね。僕は好きなんですよ、あの「感じ」が。

だからね、なんか、「わざわざダメ人間ぶる関西人」から、「商都大阪の誇り」みたいな関西人への「文化的転換」みたいなもんやと思ったら、橋下改革も悪くないんじゃないかと思います。というか、せっかくやるんやったら雰囲気悪くなるようなやり方でやってもしゃあないしね。やるんやったらそういう「メンタルの転換」が起きるような流れを目指したらええんちゃうかなと。

「大阪都」構想とかね、まあ、実現するにはかなり頑張らないといけないと思いますけど、でもその成果は、行政の簡素化とか、コストダウンとか、そういうレベルの話だけじゃなくて、大きな「転換のキッカケになるイベント」的なものにできるはずだというか、


「新しい関西イズム」=「ダメ人間化しない(特にオッサンを)関西イズム」


を打ち出していく、そういう「号砲」にするんだと思ってやるんなら、結構やってみてもええんちゃうかなと僕は思ってます。

まあ僕はもう関西に住んでないし、実家は神戸だし、大阪にあった父方の祖父母家はもう15年以上前に一回茨城県に移ったあと、数年前からまた神戸に移って来たんで、もう大阪に縁はないっちゃないんですけど。

でも、京都大阪神戸はお互い張り合いながら文化を作っていってるんで、大阪がある方向に踏み出すと、関西全体にも波及効果があると思いますしね。府民さん&橋下市長、頑張ってください。

・・・と、関西人以外にはどうでもいい話はさておき。



ともあれ、僕がなんでこの『変なオッサン問題』にこだわってたかというとですね。

まあ、何か自分が信じるムーブメントを起こしていくなら、過去の共産主義のアホみたいな無責任さを考えたらね、「行く先々の先」ぐらいまでは考えて、「破綻しないだろうな」っていう自分なりの確信をまず先に得てから、責任を持って動かしていきたいな、て思ってたんですよね。

いや、もちろんね、過去のそういう無鉄砲な運動が「ただ盲目的な資本主義否定イデオロギーじゃだめだ」っていうレッスンを人類に与えてくれたんで、過去にそれをやってた人たちには敬意を凄く払った上で、でもやっぱ愚かしいことをしたってことは反省せなあかんじゃないですか。

で、だから、そういう


「21世紀の、まだ世界のどこにもない最新型の左翼思想を体現していきたいという僕の野望」


からすると、その


「隣の変なオッサン問題」


っていうのは、


致命的に大事なファクターだった


ってことなんですよ。それが


「どっちに倒れるだろうか」


っていうのが凄く気にかかってた。

もし、僕の起こそうとしている「薩長同盟的ムーブメント」が動き出して、大きく広げていけたら、そのオッサンが寂しいからといって鳥のエサを大量にばら撒いて周りに迷惑をかけても、誰も拒否できずに黙認されてる・・・っていうような、なんかそういう回路は途絶されていくと思うんで、ある種そういう「変なオッサン」が生きづらい世の中にはなると思うんですよ。

まあ、別に鳥の餌を撒きまくるオッサンが生きづらくなるってだけの話じゃなくて、大枠で行って、「システム的なわかりやすさ」から外れやすいタイプの人間に対する、「無理矢理なイレギュラーなこと」をやっても「しかたないな」で済まされる余地は減っていくだろうってことですよ。

これは今まで5回ほどのブログで書いてきたような、「ジョブズ型リーダー」や「カラヤン的存在」が消えて行くような、そういう「システムと豪傑的存在との矛盾」ていう問題と同根のものとしてね。

少なくとも「今の形」ではいられなくなるはずなんですよ。本当に僕の仕掛けていくムーブメントが、もしちゃんと広がっていったらね。(ていうか、別に僕が何もしなくったって、グローバリズム的世界の展開がこのまま続けば彼らの居場所はガンガン削られていくんで、だから何そんなとこで変な責任感じてるの?っていう問題ではあるんですがね)

でも、なんか、


「それでもそういう変なオッサンをちゃんと吸収してくれる余地ってのは日本社会に生まれるだろうな」・・・・って、今回の婦人会の大活躍を見てたら思った


んですよね。むしろ、


「完全にシステムを受け入れきった」先に、ある種の「共同体的幻想」をよみがえらせることができたら、ああいう婦人会的な「あら?あたしやったげるわよ」的な女の人の余裕みたいなのも増進するんで、そしたら、「今とは違う回路」によって、その「変なオッサン」の居場所がちゃんと新しく世の中に作られていくだろうな


・・・・・って思えた。


どっちつかずの状態でみんながギスギスしてる社会よりも、そういう「変なオッサン」にとってもすみやすい社会になるだろうっていう確信が持てた


っていうかね。


で、


それが、なんか、凄く良かった・・・・”救い”を感じたし、俺は生きていてもいいんだな、日本社会に俺が生きていても迷惑じゃないんだな・・・・って思えた・・・・



って大げさやな!!!って思うけど・・・・まあ、でも、本気でそれぐらい思えたんで、ちゃんと僕の本を、売っていって、「新しい共同体」をグローバリズムの上に立ち上げていく「世界最先端の左翼ムーブメント」に全力を尽くすのに、心残りはもう一切ないです。

この倉本圭造、容赦せんッ!!



というわけで、今年からはどんどん「公開的活動」をやっていきたいと思っているんで、よろしくお願い申し上げます。

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