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「一貫して連続した"非合理的"決定」が「次の時代の合理性の中心」を作るという話と、「案外後輩キャラ」の重要性について。 (前編)

なんか凄い長いブログになりそうです。

ブログであまりに長文書くのってどうなんだってとこもあるんですが、しかし、言い訳するけど、普段は全然関係ないように分節化されて語られているものごと同士も、特に経済と我々の生身の人生というものは密接にお互い絡まり合って生きているので、バラバラに「よくある形」で語ってても決して真実はつかめないという時もあるのだよワトソンくん。

というわけで、あっちこっち話が飛ぶように感じるかもしれないけど、最終的には一つの軸に沿ったお話みたいに読めるように書いていこうと思うんで、呆れずについてきていただきたいんですけど。





実は、今母方の祖父が先短いだろうと言われていてですね。

年始に、「いや、本が出るころには元気になってるよ!」とか本人が弱々しい声で言ってましたけど、その前日にはお医者さんにあと数日とか言われたとか、でも本人は本気で僕の本が出るまで生きてるつもりっぽいんで、期待したいなと思ってるんですけどね。

彼は、大正生まれの90代前半で、淡路島から単身出てきて大阪で働いてる時に、高野山近辺の山村から出てきた祖母と出会って結婚して神戸に住み着いた人なんですが。

職場結婚だったらしく、祖母は3人から言い寄られてたけどこの人がいい!と思って結婚したとか自分で言うから、「結婚してもらえて良かったなあお爺ちゃん」って言ったら「・・・・うん!」って病床で意識朦朧としながらもハッキリ言うような、そういう老夫婦なんですがね。

職場は大阪の肥後橋だか江戸橋だかにあったらしく、「よく若いころは二人でシンブラ(心斎橋をブラブラするデートのこと?)したよねーまた元気になったら行こうね!」とか祖母が言ってたんで、僕がやたら本町周辺の空気が好きなのも、このへんの薫陶があるんかなと思ったりしたんですけど。

以前は普段から口開いたら「ワシはおばあちゃんと100まで生きなアカンから元気にしとかな」って言う爺さんで、ほんの数年前までとにかくムチャクチャ量を食べるし大声で歌うしっていうタイプだったんですけど。最近弱ってきてね。

昔は大食で有名で、軍隊時代にも部隊全員が「あいつは大食いだ」って理解してるから、もしちょっとでも食料が余ったらあいつが食うだろ的に回してもらえるみたいなキャラだったらしいぐらいなんですが、もう最近は流動食とアイスしか食べれなくなっちゃってね。

あと、どこの合唱団でもこんな大声聞いたことないってぐらい凄い大声で歌を歌うんで、昔酔っ払って帰ってくるときは家族全員がかなり遠い位置から存在を認知できたとかいうレベルだったんですけど、今日行って「お爺ちゃんといえば”ここはお国を何百里ー”って歌(”戦友”という当時禁止になった軍歌)やな」って彼の十八番を僕が半分歌ったら、彼も一緒に歌ってくれたんですけど、もう物凄いか細い声しか出なくなっててね。

でも、男の人は女の人と違って弱くなったらすぐシモの世話を他人に頼るというか、オムツをしてトイレに行かなくなる人が多いらしいんですけど、「もう数日かも」と言われるようになった今でも頑張って自力でトイレ行ってましたね。

「這ってでも意地で●●する」って言葉があるけど文字通り「這いつくばりながら自力でトイレまで」行こうとするのは偉いなあと思ったんですけど。

僕が行ったら、「圭造が来てくれたのに寝たままなのは恥ずかしい」とか言って無理に起き上がろうとしてたし、病院がとにかく嫌いなんで、入院してても「もう治った!私は元気だから帰ります!」ってすぐ言い出して勝手に帰ってきちゃうタイプで。

まあ、そういうのって、カッコイイし他人に迷惑かけない高潔さのようで、でも一番他人に迷惑かけないのは「ピンピンコロリ」で、その次には「おとなしく入院してくれて病院の仕切りに従ってくれる患者さん」ってことだと思うんで、結構家族には苦労かけてるなって思う部分あるんですけど。

でも、意識朦朧として寝たきりになってるのに、介護してる家族に「寒くないか?」とか「お茶足りてるか?」とかしょっちゅう聞いたりするらしく、そのへん、家族側もそういう存在を納得して受け入れて、一種の誇りと思っている部分があるみたいだから、まあ、これはこれで「正しい形」といって良いんだろうなとは思うんですけど。

・・・って僕は近所に住んでる彼にかなり影響を受けて育ったんで、思い出話的なことをするとどこまでも行ってしまうんでこのへんにしておいて、本題に関わる部分に行きたいんですが、つまりは祖父も祖母も、その一代前は神戸とは関係ない人なんですよね。で、当時としては珍しい?かもしれないけど、共働き家庭なんですよ。

爺さんは火薬の営業マンで、全国のダム現場に売り歩く仕事をしてるサラリーマンだったんですが、祖母が、自分の家で生活雑貨店みたいなのをやってたんですよ。

祖母の実家は高野山近辺の山奥で、職人を物凄くたくさん抱えた高野豆腐づくりの大店だったみたいで、兄弟もやたら多かったこともあって、旅館みたいな大広間で物凄い人数集まって毎日ご飯食べてたような、そういうところの末っ子のお嬢さんだったらしいんで。

都会に出てきて、近所に親戚もいない核家族状態で生きるのがちょっと嫌だったみたいで、なんかワイワイやれる仕事が欲しかったみたいなんですよね。だから、一時期は住み込みで働いてくれてる人もいたらしい、それなりの大きさの雑貨店だったらしいんですよ。

イメージ的には、最近出てきた大型スーパーに押されて苦しくなりかけてる「地域の小規模スーパー」が、最初に出てきたころに競合してだんだん役目を終えていった・・・・というタイプの生活雑貨屋さんで。

規模的にはコンビニに転換するにはちょっと小さいかな?無理したらいけるかな?ぐらいの規模のね。

でも、近所に中学があるんですが、そこ出身のヤツに高校時代聞いたら「ああ!あそこ毎日帰りにアイス買って食ってたで」みたいな感じで浸透している感じの店で。あんまりアイスを売るんで、雪印本社に表彰されたことがあるとか聞いたし。

そもそも土地を買った時点ではあんまり良い場所じゃなかったんですけど、その高野山の大店を仕切ってるオッチャン(僕の曾祖父ってことになるのか)が神戸までやってきて、地図を片手に周りをくまなく見て回って、「今はまだ安く買えるけど、この土地買っといたらあと数十年はうまいこといくわ。その先はわからんけど」って言った場所を買ったら、後々駅から山手の住宅地へのメインルートみたいになってって成功したとかいう話で。

こういう話ってなんかいいなあって僕は本能的に思ってしまうんでよく覚えてるんですが、駅の位置から真っ直ぐ山手の高級住宅地へ抜ける道の位置で、でもまだ当時は”裏通り扱いの路地”だった場所だったっていうのが判断のキモだったんじゃないかと僕は思ってるんですけどね。狙い通りその後拡幅工事されてその地区のメインストリート的大通りになったし。

山手から商業地区に降りてくると一番最初にある商店ってことになるし、で、そこから山手の住民層への芋づる式の浸透で、生活雑貨だけじゃなくて、一時期は贈答品とかの需要とかも御用聞き的に広く取り込む形になってたらしいんですよね。

・・・・と、ここまでがイメージを掴んでもらうための前情報で、ここからが本題なんですけど。



この夫婦は祖父の収入だけで生活できてたらしいんで、まあ、どっちの収入で暮らしてたとかは知らないけど、それなりに大きくなってた雑貨屋さんからの収入も合算したらね、結構余ってたらしいんですよね。

もともと身一つで田舎から出てきて都会で出会った二人なんで、大資産家になったとかいうほどじゃないけどね。

でも、生活に全然贅沢をするタイプじゃなくて、むしろ「高級品でも安いもんでも、私は納得してこれは美味しいなあって食べてしまうからカネの使い場所がない」とか公言するタイプだったんで、そのお金はどうなったかというと、「土地」を買ってたんですよ。

その祖母が、土地買うのがやたら好きなんですよ。いやもう、ほんと大好きってぐらい好きなんですよね。

しかも、その土地の値段が上がるかどうかとか、資産価値がどうとか、使い道がどうとか、そんなんじゃないんですよ。


自分の住んでる家(震災まで店舗をやってた場所でもある)の近所の土地をとにかく買いたい


んですよね。で、それを貸して住んでる人たちともなんとなくワイワイ言う感じの関係のまま生きてたいんですよ。

で、以前は僕が行ったらいつも差し向かいにある馴染みのうどん屋さんから親子丼の出前とってくれてたんですけど、なんかそれも、「圭造が来たらそれ取ったら喜ぶ」的に脳に刷り込まれてる感じだったんですよね。

こういう小金持ちなご老人が窓口に来た時に、「リスクヘッジのためのポートフォリオ」的な分散投資理論(同じカゴに卵を沢山いれたらカゴごと落とした時に全部ダメになっちゃいがちだから気をつけなさいよ的な理論)だとか、将来資産の期待リターンの割引現在価値がどうだとか、だとかだとかだとかを説明して投信みたいに抽象的なものを買ってもらわなきゃならないフィナンシャルプランナーさんの苦労って凄い大変だろうな(笑)って思うんですけど。



でもね、こういうの、「島国根性のニッポンジンは愚かだなあ」で済まされない問題があるんですよね。

いやそりゃ1990年代後半なら、「ニッポンジンは愚かだなあ」で済みますけど、サブプライムバブルがここまで世界中に波及した今ならね、「この人間の”土地ってものへの粘りつくような執着心”とはいったいなんだろうか」みたいな普遍的な話になるじゃないですか。

過去の日本人だけがアホだったというわけじゃないですよみたいな。

それにね、よく将来の期待リターンの割引現在価値がどうこうとかいう話をして、庶民の行動を「非合理的だ」とか言う人いるけどね、うちの婆ちゃんとか全然人生後悔してないし毎日爺ちゃんに愛をささやいてニコニコと生きてるわけでね、その「毎日の心理的余裕」というリターンがそれ(自分の家の周りの土地にだけ集中投資する戦略)によって得られたんなら、その投資決定は「完全に合理的」だと言っていいと思うんですよ。

「そんなのは主観にすぎない」とも言えるけれども、「じゃあいったいあんたの人生における”主観じゃない効用”っつーのはなんなんだ?」って話になるじゃないですか。

「俺は客観的合理的に生きてるクレバーな人間だけど、世の中の奴らは脳が腐ってて目先のことしか考えない愚物ぞろいだぜほんと嫌んなるよねー!と自己満足して悦に入れる権利」を得るためにあんたは生きているのか?って話じゃないですか。

いや、僕はそんなに祖母の決定を心底擁護したいと思ってるわけでもない(ましてや自分自身がそうしたいと思ってるわけでは決して無い)んですけど、ある人が「そうしたいと強く思っている、それが自然だと思っていて疑念を持ちすらしないこと」を、無理矢理に覆して別の決定をさせて、不自然で不本意な人生を何十年も送らせたあげくに、結果数%ー数十%の金銭的リターンが増加したから合理的でしたよねこっちの方が・・・・ってなるような決定なんて、人間の生身の人生の意図決定からすりゃ「そっちの方が圧倒的に非合理」ってところがあるはずなんですよね。

だから、「そういう価値観で生きていたかったのなら、それに従った決定をするのが合理性」と言っていいはずなんですよ。

それに、「その生身の個人にとって本意で自然な人生」を送って仕事を頑張ったよ!っていう方向の方が、そういう金融技術的なもので数%~数十%のゲインを得るよりも、主観的にはもちろん、「純粋な金額面だけ」で見ても最終的に富裕になる可能性が高いと思うしね。

特に祖母の場合は商売の性質的にも、そこの土地を買って住んで人間関係を分厚く作っていってるっていうこと自体が当時はマーケティング的効果が凄くある商売だったと思うし(ってこんな言い方すると非人間的な感じですけど、まあ”あえて言うなら”ってことですよ 笑)

そもそもここ最近の全世界的なあらゆる資産バブル崩壊と円の独歩高を考えると、「お金は銀行に預けるな」どころか、結局実業への影響とかをも排除した”純粋な金融レベル”だけで言った話でも、2000~2010年代に世界で一番合理的だったのは円でタンス預金(まあ銀行の普通口座でしょうけど)してた日本の老人ってとこあるしね(笑)



といっても、ここまでの話は、「今の世の中の風潮は間違っとる!」って感じに「異論反論」を掲げたいわけじゃないんですよ。

そうじゃなくて、「どっちにもどっちもの”合理性”があるよね」ぐらいに「フェアでイーブンで、(本当の意味で)客観的」な立場を確認しておいてからしか少しでも意味ある話なんか絶対できないから言ってるんですよね。

実際には、そもそも「惰性」という部分以外においてはあらゆる点で見ても何の合理性もない損だけしてるスキームのままずっと生き続けて結局誰も幸せになってないってケースの方が多いでしょうしね。

結局何が言いたいかというとですね、一つ前の記事で書いたような、「全世界的なグローバリズムシステムの浸透による、それぞれの地域の人間集団の”自然な広域的連携力”の破壊」っていう問題が起きた時に、それを補完するために「よりしろ」というか「神輿」として乱発されるのが「国のサイン」と「土地への信仰」なんだと思うんですよ。

「共通了解」を広い範囲の人間の間に繋ぎとめて「事業」にして、いろんな人の「食い扶持」に転換していくムーブメントを起こすときに、とりあえず「国」と「土地」を「神輿」にしておけば文句つけづらいんで「それなり」には通用する。

ただ、その時の一番の問題は、そういうのは


「文句をつけづらい神輿」ではあるけど、「人々が本当に望んでいる神輿」ではない(ことが多い)


ってことなんですよ。

いやもちろん、どんな神輿だろうと祭が楽しくなればそれでいいじゃんって話なんですが、「神輿の種類」が「祭の参加者の本当の思い」とうまく合致しないから、なんか、なんか、いや、一応俺だって盛り上がりたいって気持ちはあるんだけどさ、なんかなあ・・・・っていう「乗り切れない層」ができるんですよね。

そうすると、


「俺だって心底これやりたいって思って担いでる神輿じゃないけどさ、やっぱ、ある程度経済の規模保ってないとヤバいじゃん!だからこれ、みんな欲しがってる神輿だってことにしとこうぜ!」


っていう人と、


「そうは言ってもなあ・・・・お前ほんとにその神輿がいいと思って担いでんの?なあ?正直なこと言ってみ?なあ?」


っていう対立が生まれるんですよね。

で、「売りだす新しい製品」は、「人間社会の集合的無意識の全体像」からすると、かなり「無理して盛り上げてる」って感じになっちゃうんで、その結果がデフレだと思うんですよ。



本当は、「みんなが本当に必要としているもの」を、ちゃんと「これが必要だよな?な?」って感じで「共通了解」にまで持っていければ、みんな「おお!そうだよ!てめースゲーわかってんじゃん!俺だってそういう神輿担ぎたかったんだよ!」ってなるはずなんですよね。

ただ、


「国家」や「土地」の形式を取った「神輿」っていうのは、そういう「今を生きる個人」の「本当の思い」を載せられるようにはできてない


んですよ。

だから、「国」や「土地」の旗印だけで経済活動をやっていくと、だんだん「これ、みんな盛り上がってやってるけど、そこまでして欲しいもんでもないよな」って思っちゃう層が分厚く増えてきちゃうんですよね。

で、そこが問題なんです。

別にね、僕は「国」っていうシステムが良いとか悪いとか、そういうことはどうでもいいんですよ。それがみんなを幸せにするんなら是非とも採用するべきだし、それがみんなを不幸にしてるんなら明日にでもネコソギ全部廃棄するべきだと思ってるんですよ。

で、まだまだ「国」というシステムは、脳天気な”サヨクさん”が思うよりも圧倒的に「必要」だと思うけれども、ただ現実の「経済の現場」レベルの話で言って、あまりに「国」とか「土地」とかベースでだけで動かしていくと、「本当に今生きてる自分たち」が必要としているような事業が「具現化」しにくいんですよね。

そこが問題なんですよ。

要するに、


「国」と「土地」にやたら頼って経済を起動させていくと、「今を生きているみんなの本当のニーズ」じゃなくて、「こう言っておけば通りが良くて関係者を納得させやすいよね」っていうようなことばっかり「実現」する


ことになるんですよね。

で、


「作ってしまって」から、無理矢理「最終消費者」にゴリ押しで売ることに物凄くエネルギーを使ってしまう


という。

そういうのが、結果としていろんな人の「鬱」や「無気力」や「引きこもり」にも繋がってると思うしね。「そもそも本当にはやりたいと思ってないことを無理して嬉しがってやってるフリをしてないといけないって結構辛い」ですからね。

あるいはマクロに見た「デフレ」や「ほとんどの先進国の国債の信用力の危機」にも、資産バブル崩壊にも全て繋がってくる根本原因だと思いますし。

つまり「今ある経済のあり方」に対する「異議申立てのための認証された制度」が、そういう「消極的反対」しか残されてないので、「なんか・・・・なんか・・・・本当に欲しいものってこういうのじゃない気がするんだけどなあ・・・・」という人間の集合無意識的な違和感の表出手段がそれしかないってことになっちゃってるんじゃないかと思うんですよ。

そうじゃなくて、「本当にマジでこれこそみんなが望んだ存在だ!」っていうような商品を、「国や土地」を旗印として利用せずに、「アメリカンな基準」よりも「さらに目覚めた個人(新しい日本人ならではの”勇気”)」によって立ち上げていけるかどうかが問われてるんですよね。







あ、すいません・・・今実家から連絡あって、冒頭に書いた祖父は永眠したそうです。

昨日帰ってきたのにまた神戸帰らなあかんな。

なんか・・・・まだ全然本題じゃないんですけど、どうしよう?この時点でアップしちゃうか。

だいたい「件名」のとおり、


「一貫して連続した"非合理的"決定」が「次の時代の合理性の中心」を作るという話と、「案外後輩キャラ」の重要性について。



ていう内容のはずなんですけど、まだまだ「後輩キャラ」って話はいつ出てくるねん?って感じなんだよな。

だいたい、前回も「後輩キャラの活用法」が、「薩長同盟」を組織内の人間関係レベルでうまくいかせるキーになるって話を書こうとして、その「導入のマクラ」で終わっちゃったんだし。

今回も、まだその「導入のマクラ」なんですけど・・・・

なんかちょっと今アタマ混乱してますんで、読み返すとちょっとアレな文章になってるかもしれないですけどとりあえずアップします。

いずれ続きを書きます。ちゃんと「件名」どおりのオチまでたどり着けますかどうか、乞うご期待!という感じで・・・・

いや、でもまだ実感ないからかもしれないですけど、でも悲しいとかショックだとかそういうのはないな・・・ぼーっとしてる。運命なら受け入れなあかんな、ってここ最近ずっと彼については思ってたからかもしれないな。

今回書いてた発見したのは、僕って母親も父親も、両方のジジババも、普段は基本的に「下の名前・・さんづけ」で呼びたい派なんですよね。いわゆるグッドアメリカン的理想っていうか。

でも、この母方の祖父だけは、「爺ちゃん」と呼びたい気分が残ってるなーと思いました。なんか。自分の中の「家父長システム」の最後の残滓的な?

ってわけわからんこと言ってるな。ここの数行はそのうち消すかもしれないですけど。

近いうちに続きを書きます。はい。

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今更ですけど自己紹介を・・・その1.副題『原生林のような豊かでタフな経済を目指して』

このページはよほど倉本圭造に興味がある人のためのありえないほど長い自己紹介エッセイなので、サクッとコイツ誰なんだ?ってことが知りたい場合は、私のホームページの「Who?」欄をお読みください。(向こうにしかないコンテンツもありますし、とりあえずコンパクトに全体像がご理解いただけると思うので、かなりご興味を持ってくださっている方も、先に向こうをお読みいただけるとご理解しやすいように思います。その後以下の”長文”へと戻ってきていただければと)







最近出版の依頼を下さった人がいて、”出版社の女性社長さん兼編集者”としてギョーカイでは結構有名な人らしいんですが、「21世紀の薩長同盟を結べ」本体を読むまで、プロフィール欄を読んでも「???」って感じだったと言われたんですよね。

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1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
で、「なるほど、意味わからない・・・かもしれないな」と思ったんで、それについて、一度まとめた文章を書いておいたほうがいいのかな・・・と思って、これから書きます。

『逃げ恥』が教える「自分らしく生きる」の本当の意味

あけましておめでとうございます。昨年の私は普段の仕事的にはそれなりに一歩ずつ経験積んで進歩してこれた感あるんですが、いかんせん本出したりネットに上げた文章が広く読まれて・・・という方向での活動としてはなんだか何もやってないも等しいような印象になりそうで、正直ちょっと焦ってもいます。

ただ今は、焦って本やブログを書いても、よくある「右や左の紋切り型」にしかならない難しい状況に世界がどんどんなっていくなあと感じていて、そうじゃなくて「個別の事例」と仕事で向かいあう中から立ち上がってくる何かを信じて積んでいきたい気分だというか・・・ま、もうこの歳になると自分はマイペースにしか生きていけない人間だってところは骨身にしみてわかっているので(笑)、相変わらずそういうペースで今後もやっていきますので見捨てないでたまに気にかけてやって下さい。

ちなみに、ブログ再移転しました。ブックマークされてる方は変更をお願いします。

新ブログトップページ↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp



で、久しぶりのブログ更新、しかもブログ移転一回目・・・がテレビドラマの話題ってなんてミーハーなって感じもしますが、2016年最大の(たぶん)ヒット作となった『逃げ恥』が超よかったので、年末だしそれについて書きます。

全体的に言って、「自分らしく生きる」っていう現代的に超超超言い古されたことについて、ちゃんと一歩ずつ考えて一歩ずつ実現していかなくちゃね!っていう気持ちになったところが凄く良いドラマだったと思ってます。夫婦で見てて毎週二回は泣いてました。

このブログはそういう方向で、

・『逃げ恥』のどこにこんな感動するのかって話
と、
・それはある種「運命へのニーチェ的向き合い方」なんじゃないかって話(より正確には”一連の実存主義哲学”)
と、
・「他人の人生を生きないで、自分の個別性(自分らしさ)を生きること」っていう「言い古されたこと」を私達が本当にちゃんとやりきるにはどうしたいいのか?
というような話に広がっていく予定です。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。