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コブクロと馬場俊英の間・高杉晋作と西郷隆盛の間に真っ直ぐ伸びる、「純愛と経済合理性が一致する特異点」を狙え。

こんな話、日本の音楽全然聞かない人には全然伝わらないじゃないかという話なんで、こういうのはクラシック以上に例に出すとき難しい問題があるように思うんですが、最近「馬場俊英」さんっていう人の歌が好きなんですよ。

「人生という名の列車」「ボーイズ・オン・ザ・ラン」とかが有名ですけど、他にも「男たちへ・女たちへ」「旅人たちのうた」とかいいなあ!って思ったりして。

とはいっても、「人生という名の列車」っていう昔買ったアルバム(初回版だったんでオマケで”男たちへ女たちへ”その他ライブ4曲が入ってたんですよ)しか持ってないんですけどね。

曲調は、まあ一応ロックの体裁にぎりぎり載せつつも(でもこれがロックだとか言ったら普通の洋楽ロックファンとかは怒るかもしれない)、もう、なんつーか、フォークと言っていいぐらいまで、あるいは「男版・中島みゆきさん」ってぐらいな感じなんですけどね。

っていうか、僕の実家では、弟も、で、多分父親も好きなんですよね馬場俊英。僕が買ったCDを家の本棚においてたら、いつの間にかみんなのMP3プレイヤーに入ってたっていう(笑)

去年の夏に実家帰った時に、こないだ死んだ祖父のためにお守りを買いに能勢妙見山まで(祖父の家は高野山出身の倉本家や母方の祖母と違って日蓮宗なんで・・・余談ですけどでも確かに考えてみりゃ日蓮宗的にポジティブでキッチリ折り目つけるタイプの人やったなと思うんで、そういう宗旨的なものって案外キャラクターに反映されてるかもなと思ってしまうんですけど)弟とクルマで行ったんですけどね。

道中に彼のウォークマン(アイポッドでなく!)流してたらこのアルバムが出てきて、あまりにベタなんで凄い二人で爆笑してたんですけど。

「君の中の少年」っていう曲の最後のリフレインとかね、もうほんと、「そこまでやる?」って感じなんですよね。こっちが照れるわみたいな。

「この街のー(こーのーまっちのーおー)」「暗闇のー(くーらーやっみのーおー)」とかの掛け合いとかが、もうベタベタやな!って感じで。

なんというかもうフォークどころか、中学校のクラス対抗合唱で使うような曲の感じなんですよ。

でも、そこがいいなあ!って思ったりして。

普通のロックミュージシャンならそこまでやらない。というかやれない。3歩ぐらい手前まででせいぜいじゃないかと思う。そうしないと、彼らのウリである「かっこ良さ」が維持できなくなるんですよね。

そのへんのトレードオフ(どっちかが立つとどっちかが引っ込んでしまうという両バサミのメカニズムを表す言葉)関係って、かなり明確にある感じがするんで、だから馬場俊英ファンの女の子って(全然いないわけじゃないだろうけど)少数派だろうなとも思ったりする。

そこが人間社会の難しいところだなあとか。

中島みゆきファンも多分男性比率ものすごい高いと思うし。



なんで馬場俊英さんのことを最近思い出したかというと、「凄く似てるしお互い仲良い感じらしいけど凄く対照的だなあ」って思う、コブクロの話をする機会があったからなんですよね。

年始に高校の時の部活の同窓会に行ったときに、たまたまコブクロっていいよね!って言う話になったんですよ。

でも、僕コブクロって苦手なんですよね。いや良い曲だとは思うんだけど、あれを鼻歌で歌ってるところを通りすがりの人に見られたら物凄い恥ずかしいだろうなって思うところがある。

で、いやー俺ああいうのは、好きじゃないというか、一番恥ずかしいというか、「自分だけカッコつけんな」的な感じがしたりするんだよな・・・って言ったら、その場にいたの僕以外全員女の子だったんで、かなり孤立無援にヒンシュクを買ったというか、「ええーーー!!」って言われたんですよね。

なんか・・・・いや、でもその気持ち、男のあなたならわかってくれるんじゃないかと思うんですけど。

コブクロは、ミスチル以上に苦手なんですよ。なんか。

もちろん、何にでもすぐ影響受ける僕としては、そのあと一過性の超コブクロマイブームみたいなのが来て、集中的にいろいろ聞いて、物凄く「たしかに良いなあ!!」っていう気分にも一瞬なったんですけど、またすぐ・・・・「いや、でもなあ」ってなったりして。

同窓会で「いわゆるアラサー女子(コブクロ本人たちの一個下)」さんたちが、こぞって「小淵くんて凄く純粋で」とか言ってたんですよね。ライブとかで自分の歌で泣いたりするんよみたいな。

で、僕としては「ライブで泣いたら純粋かよ!!」とかなんとか思ったりして(笑)

うちの弟とか、「コブクロなんか、こう言っておけば純粋やと思われるんやろ?ほなやってやるでー涙も見せたるでーって感じでやってる人らと違うの?」とか言ってたし。(いやいやいやいや、俺はそぉーこぉーまで言うてへんでぇー俺の意見と違うでー弟がそう言ってたんやでー。俺は純真無垢な人間やからコブクロの良さだってスゲーわかるんやでー。)

でも確かに、弟ほどコブクロに批判的じゃないものの、僕も個人的な意見としては、コブクロよりも圧倒的に馬場俊英の方に「純粋だなあ!!」てものを感じるんですよ。なんか。「いわゆるひとつのピュ・アというのはこの人のための言葉やで!」って思うんですよ。

でも、たいていの女の子から見ると、コブクロの方が圧倒的に「純粋」に見えるんだろうなというのも凄いわかったりして。

大げさに言うとこの断絶って凄く、人間社会の根底的な問題だなあって思うんですけど。

って、こういう風に構図化すると、コブクロも馬場さんも知らない人にも、ある程度どういう方向性の違いなんかがわかってもらえて来たんじゃないかと思うんですけどね。

他の世代の方にわかりやすいかなっていう例で言うと、「コブクロ=矢沢=ビートルズ」「馬場俊英=長渕=エルビス・プレスリー」ぐらいの感じでしょうかね。

前者にセックスピストルズ、後者にニルヴァーナを追加してもいいかもしれない。

もちろん、それぞれのキャラクターは全然違うんで、=で結んだら異様な感じですけど、「類型」としての方向性の問題ですよ。



「知性や概念的思考を信頼する個人主義者の長州藩士」「集団の和と現場的密度感を重視する薩摩藩士」との間の21世紀の薩長同盟って言った時に、両者の間の「価値観の違い」って、結構大きな障壁なんですよね。

長州藩のスターっていうのは高杉晋作みたいな存在なんですよ。でも、薩摩藩のスターっていうのは西郷隆盛みたいな存在なんですよ。

で、どっちもね、ある意味凄く「純粋」なキャラクターなんですよね。でも純粋さの方向性が2つ全然違う方向を向いているんで、お互いイケ好かない思いを持つんですよ。

高杉晋作っていうのは、超個人主義者だしね、自分が信じる概念的価値を信奉して、ガーンと単独行動していくんですよね。で、その単独行動のかっこ良さが、ごく稀にある「時流」と噛み合った時だけに、みんなが「おお、ついていこうぜ!」って感じでムーブメントを起こしていくんですよ。

だから、平時には全然役に立たないというか、あんまり信用ならないタイプなんですよね。薩摩藩的価値観の人から見たら、「あいつはただ言うことだけ調子の良い自分勝手なヤツで」みたいな感じになる。

一方で、西郷隆盛っていうのは、もう自分の人生そのものをその集団に捧げつくしてるんで、自分がやっていくことの内容とか概念的一貫性とか、そういうのは全然どうでもいいんですよ。

いや、彼は結構アタマも良い人だったから、彼個人としてはどうでもいいというわけじゃなかったんだろうけど、どうでもいいということにさせられてしまうというか、「どうでもいい」ということにならないと、その集団のボスという地位に、彼ほど純粋にはまりこむことはできないんですよね。

だから、結局最終的には、西南戦争的に、「どんどん祀り上げられて行って暴走する」って形になっちゃったじゃないですか。

信奉者の多い西郷に対してイメージの悪いことを言うと怒る人がいるかもしれないけど、リーダーシップの形がオウム真理教と一緒だからなんですよね。

彼みたいなリーダーシップの形を取ると、参加者全体の思いを引き受けて自分自身を洗脳していくことが必要なんで、どんどん歯止めが効かなくなっていって、最終的には暴走せざるを得なくなるんですよ。

それは、日本の戦前の軍部が破滅的なところまで突っ走ったのも、戦後の左翼ムーブメントがあさま山荘事件あたり以降かなりヤバイことになったのも、オウム真理教が最終的にああいう暴走の形になったのも、全部同じメカニズムなんですよね。

国家主義的というか右翼的な戦前の軍部と、戦後の左翼ムーブメントと、オウム的な宗教って、それぞれ「旗印」は全然違うんだけど、その奥底にある「人間関係のあり方」の本質で言うと共通したものなんですよ。

で、さっきの話とちょっと無理してつなげると、「馬場俊英=長渕=エルビス」みたいな関係性を、野放図に無理やり延長していくと、そういう「西郷隆盛的」なものになるんですよね。

でも、今の時代、そういう西郷的存在は、ある程度以上の規模感を持てないことになってるんですよ。

なんで持てないかというと、それは過去の独裁的政権やカルト宗教団が産み出した悲劇たちの記憶のせいだし、より直接的にはグローバリズムのせいだし、物凄く本質的にはキリスト教のせいとも言えるんですよね。



キリスト教と仏教の、「この人は凄いお人なんやで」っていうロジックの作り方は、かなり対照的なんですよ。

仏教のロジックは、「お釈迦さまっていう人は物凄く物凄くエラい人やねん。だから信じといたらご利益あるで」っていう形式なんですよね。

一方で、キリスト教のロジックは、「キリストさまは、人類がもともと持っていた罪ゆえに、身代わりに死んでくれたんやで。だから、我々は彼に借りがあるねん。」っていう展開なんですよ。

いや、純粋なクリスチャンからするとこういう「当たり屋のヤクザ」みたいな言い方は受け入れられないかもしれないし、僕も本質はそうではないと思ってるんですが、少なくともキリスト教団の布教のロジックはこうなってるんですよ。(より正確に言うと、キリスト教団が言ってることを”言葉尻だけ聞くと、信者以外にはそういう風に言ってるように聞こえがちだ”ってことなんですけど)

ってほんとこんな微妙な話題に踏み込むのは怖いな。ディスクレーマー(誤解を先取りして言い訳しておくような注意書きのこと)みたいなこと書いておいたほうがいいのかな。

あのですね。

僕個人の信条としては、「この世にあることは基本的にムダのない自然の顕現だから、グローバリズムがこれだけ確固としたムーブメントになっている以上、その延長線上に人類の幸福は実現可能である(というかもうこうなったらそう思って動かしていくしか道がないと思っている・それを起点として考えないと21世紀に実効性のある”思想”とは言えないと思っている)」というのが唯一の「信仰」といっていい感じで、それって一種のキリスト教だと個人的に思っているんですけどね。

欧米由来の演繹的なムーブメントの本質を、アジア的な「現地現物」からの帰納的手順で再構成することが、思想レベルで言って僕自身の、そして具体的な社会・経済的レベルで言うとこれからの日本の役割じゃないかと思ってるし。

だから、どれだけ冒涜的な言葉遣いに感じたとしても、これはかなりマジにキリストの意志を汲もうとしてる真意からの発言なんだってことを、伝統的な良心派の信者の方にはご理解いただきたいと思って以下を書くんですけどね。



キリストって、「死に方が完璧」なんですよね。ある意味。最後は「一人で死んだ」んですよ。

弟子が色々いたけど、最終的にみんな裏切ったしね。で、一人で死んだ。

そうするとね、「なんか凄く大事そうなことを言ってた人がいて、自分自身としてもほんと凄いなあ!って思って一時期は信じてたのに、最後には世の中に殺されてしまった。しかもその最後の瞬間自分たちは裏切って見殺しにしてしまった」ってなったら、結構地味に心理的に困る部分があるじゃないですか。

人間って、誰しも世界の本当のことを全部知って生きてるわけじゃないんでね。

その「外側」の「見えざる真実があるんじゃないか?」っていう疑念を常につきつけられることになる。

17世紀のフェルマーっていう数学者が、自分の持ってる本の余白に、「俺この問題のスゲー証明思いついてしまったけど、ここ狭いから書かれへんわ」って落書き残して死んだのを他の数学者が見つけて、「ほんまかいな」って360年間寄ってたかってつっつきまわして、1990年代半ばにやっと証明されたっていう話があるんですけどね、ああいう感じなんですよ。

個人レベルで見てもね、「俺は裏山に凄い宝を隠したんだ・・・もう俺は動けないから掘り出しにいってくれ」って言ってた半分ボケた爺さんのこと誰も真に受けずにいて、でも最後にそれっぽい地図だけ残して死んだりしたらね、ちょっと・・・・「あれ?俺たちとんでもない思い違いをしてないか?」ってなるじゃないですか。

もちろん、そんなこと言う奴は山ほどいるんで、普段は、「変なやつがいたわ」で終わるんですよ。普通はね。

でもキリストの場合、「あらゆる仲間が裏切っても撤回せずに公衆監視の中で死んだ」からね。謎の地図を残して死んだホラ吹き老人とは説得力が全然違うんですよ。

「そこまでする人がいるんやったらそこになにかあるんじゃないか」っていう心理的インパクト

があるんですよ。それがキリスト教の、(少なくとも社会的・歴史的ムーブメントにおける)本質なんですよね。

って、またディスクレーマー的なことを追加しておくと、もちろん、神様とか救いの日だとか魂だとか、そういう道具立てのことについて、僕は不可知論者的に判断を留保してるんで、それを含めて信じておられる方の世界観を否定したいわけじゃないんですよ。むしろそういう方の人生には凄く敬意を払いたいと思ってるんですよ。ただ、歴史的にこれだけのムーブメントが広がっていったこと自体の本質を言葉で言うとこうなるってだけの話ですよ。



釈迦に対して人類は、そんな「負い目」はないんですよね。

だから、「彼はエラい人だ」という価値観に共鳴する人だけが信じればいい的な、そういう多少オープンな部分がある(まあ宗派によるけど)んで、仏教はキリスト教ほど無茶な流血を歴史の中に巻き起こさずに済んでるんですよ。

でもキリストの価値を信じるとしたら、「彼は物凄くエラい」ってだけじゃなくて、「彼に負い目がある」ってことになるんですよね。

もちろん、彼の存在によってそういう問題は消せる可能性が生まれたんだから、あとは彼のメッセージを敷衍していったところに希望を探して具現化する人生にすれば良いことあるよっていうのが本当のロジックなんで、「負い目」じゃあないんだよっていうのが本質なんですけど、でも「普通の人間の意識」からすると、いきなりはそこまで到底信じ切れないですからね。



で、こういうキリスト教のロジックは物凄く論破しにくい”最強の防御力”があるんだけど、全然即効性がないんですよ。

東洋的な、

「エラい人がいた。その人がこう言っていた。だからそうだ。」

の方が、歴史の初期段階においては直接的な影響力があるんですよね。

キリスト教みたいに持って回った言い方で、「張り付けにされて殺された無名の兄ちゃん」を「至高の輝ける存在」にまで引き上げていくような革命のプロセスが不要ですからね。

単純明快な生身の存在感からの帰納的ロジックで、「凄い人だ」ってなった存在を押し出していけば、みんなが信心深くて謙虚で「畏れ」を知っている時代には、「そらそんなにもエラい人が言うんやったらそうなんやろうな」って納得してもらえるんで。

それに、やっぱり釈迦の言ってることっていうのは、「真実に至る文脈を示す」というより「真実そのものを体現する」って感じだからね、「客観知の蓄積メカニズム」みたいな大仰な社会的装置が発達するまでは、そっちの方がよっぽど真実に肉薄できる社会的ソフトウェアってとこがあるんですよ。

だから東洋風にやると、そうやって「現地現物の明らかさ」ベースで、パッキリ社会全体の折り目がつくから、社会の安定性も保ちやすいし、即物的で具体的な技術研鑽とかにマンパワーを割けてたんですよね。



でも、そういう東洋風の納得の醸成メカニズムに対して、対照的にキリスト教的なロジックは、「遅効性だけどある意味最強」っていう浸透力があるんですよね。

それは、彼が「一人で死んだ」からなんですよ。あらゆる味方に裏切られて。

もし、これが結託していた人が誰かいるんだったら、その「死んだ人」があまりに祀り上げられる流れになった時に抑止力になるんですよね。

でも、キリストは「一人で」死んだんで、誰も「彼が見ていた世界」について否定的なことを完全に言い切れる人がいないんですよ。

あいつはただのアタマおかしい奴だったんだ・・・・ってとりあえず黙殺しておくことはできるんですけどね。

でも、そういう否定の仕方って、信奉できる確かな価値観が存在しているうちは「無視し続ける」ことができるんですが、あるタイミングでそこにちょっとでも疑念が湧いたりすると、途端に忍び寄ってくるんですよ。

「お前は●●歳まで生きられないだろう」っていきなり変な占い師に言われたりしたら、普段は「何言ってんねん俺むっちゃ元気やっちゅーねん」とか言って黙殺してられるけど、もしその予告された年が近づいてきて、しかもちょっと病気にでもなったりしたら、「あれ?あの人ほんとは凄い人やったんちゃうか?」ってなってきたりするじゃないですか。

そういう感じで、物凄く「遅効性」なんだけど、「物凄く否定しづらい論理」があるんですよね。

だから、欧米社会っていうのは、歴史の前半においては東洋に比べて社会の共通了解を明確に形成するのに四苦八苦していて、東洋よりも物凄く抑圧的な社会構成になってたし、具体物に対する技術的蓄積も東洋やイスラムに比べて圧倒的に遅れてたんですよ。

でも、常に「本当にこれでいいんだろうか?」っていうトラウマ的影響が社会にあるっていうことは、その「疑念を持つ力」が束ねられて一つの方向にキッチリ形成されてくると、物凄い力を持ったんですよね。

多分、その当時なりのグローバル化っていうのは常にあるんで、年代が下るにつれて、「身の回りの伝統的存在感の延長線上からの帰納的権威付け」の価値が徐々に下がってくるんで、入れ替わりにキリスト教的に、「本当にそうだろうか?という自己問答を膨大に積み重ねたことの強み」が生きる時代になってきたんだと思うんですけど。

その「自己批判」的な傾向っていうのは、とりあえず欧米社会内では、「一つの明確に定義された手続き」に結実してるんで、だから彼らは、「今の世の中の人みんなこう言ってるけど、ほんまにそれでええんかな?」っていう「キリストを殺してしまったトラウマ」が効いてきたとしても、「認証された手続きに則って異議申し立てをしてるんだから問題はないだろ」という、「とりあえずこれに従っときゃそれでええやろ的納得」を得られやすいんですよね。

一方で、グローバリズムが浸透してきてるとはいえ、まだまだ伝統的な共同体の力が強いその他の地域では、一応形としてはキリスト的ファッションが浸透してきても、人生観の根底部分では、「エラい人がこう言ってるんやしそれでええやろ」で生きれてるんですよ。

でも、困るのは今の日本みたいな国なんですよね。

「非西欧の先進国」みたいなのを何世代も続けてると、「自分の共同体のエラい人が言ってること」に対する信頼もボコボコに消えてきてるし、一方で、欧米みたいに、「これでええんかな?って思うんだったら、この正当な手続きに則って異議申立てすればいいじゃん」的なストーリーにもハマりきれない。

「っていうかその異議申立てのシステム自体が胡散臭いと思ってしまってるんですけど?」

ってなっちゃうんですよね。

だから、今の日本が、欧米社会に対して個人に対して抑圧的なのは、中世の東洋に比べて中世ヨーロッパが抑圧的だったのと似たような理由で、「社会の中心的価値観の、自然的な説得力が弱いから、みんなが自分がOKだと感じられなくなって、怖がって寄り集まって人肌で温めあうしかない」っていう状況なんですよ。

どんだけ「無意味な苦労」だとしても、とりあえず「苦労を共有」したら一応連帯感は感じられるよね的なね。

で、そうなると、何かしら「こう言っておけば否定しづらいやろ」っていうようなのを次々持ち上げてとりあえずの社会の共通了解を保つことが必要になるんですよね。

まずは、とりあえず「土地の幻想」を持ち上げまくってた時期があって、でもそういうことを無理やりやってると、みんなの集合的無意識からすると相当「無茶やなこれは」っていうような経済になってくるんで、どっかでバブルが弾けるんですよね。

次には、とりあえず「国」って言っておけば否定でけへんやろってわけで、国のサインで経済を無理やり起動させ続けてたツケが今になって効いてきて、そろそろ「国のサイン」も乱造しすぎて価値が落ちてきてヤバイことになってるんですよね。

そういう日本について、過去10年20年世界中に世界中が嘲笑ってたとこあったんですけど、でも今後他の先進国も似たルートをたどるんですよ。

結局、他の先進国っていうのは、「欧米的社会システム」っていうもの「自体」の信頼感で、日本ほど不安にならずにいられたってだけの話なんでね。

だから、世界が多極化していって、「自分たち欧米社会の内輪」以外の世界の存在感が増してくると、「キリストを殺してしまったトラウマ」が、「欧米社会の内輪の歴史的経緯だけで認証された異議申立てシステム」だけでは吸収しきれなくなってくるんですよ。

そしたらみんな不安になってきて、今までどおりの惰性的延長の権威で経済を駆動できなくなるんで、まず土地を祀り上げて、次に国家を祀り上げて、で、どんなものでも無駄に何かを祀り上げすぎると嘘くささが漂ってくるものなんで、両方の市場価値が崩壊して、結構ヤバイことになってるんですよね。



で、こういう流れってね、あんまり誰の幸せにも繋がらないんですよね。直近では特にね。

なんせキリスト本人が、「平和でなく剣をもたらすために自分は来た」って言ってるぐらいですからね。

とりあえず、近所のご老人とか自分の父親が言ってることを、心底信頼して・・・・・・とまではいかなくても「まあ色々疑念もあるけどしゃあないな」っつって生きれてたほうが気が楽じゃないですか。

ただ、当たり前の話ですけど、そうやって「自分の身の回りの自然的なもの」を、権威として信頼して生きてると、「他の土地のそういうもの」との間でぶつかる部分があるんですよね。

で、知性派はそれでいいと思って生きられるんですよ。

というか、まあぶっちゃけていうと学歴的に守られている人っていうのは、そういう「自分が生まれた共同体の個別的事情」なんか無視して、「こう言っておけばOK」とグローバルに認証されている客観知の世界の中だけで生きている方が個人レベルで気が楽なんでね。

でも、そういう風な価値観だけで世界が満ちてくると、結局「良い大学行って良い職業ついた人」には「効力感」が物凄く与えられるけど、そういう大学に行かなかった地元の小学校の友達・・・との間の距離感が物凄く開いてくるんですよね。

で、「グローバルに認証されたシステムの網目」っていうのは、やはりそれ自体の性質から言って「あらゆる生身の人間の本当のリアルそのもの」からは大分手前の大雑把なものでしかないんで、そのシステムが取りこぼしてしまう現象ってのは必ず存在するわけなんですよね。

だから、システム自体が「無誤謬なもの」扱いで世界中に広がると、その網目に乗っかれない人が大量に生まれるんですよ。いや、網目に乗れてる人個人の中でも網目に乗らない部分の「性質」が窒息するんですよね。

で、システムから外れてしまった人の自己効力感が無茶苦茶になってしまうんで、社会の安定とか治安とかも保たれなくなるし、「生きている人間全員」の自然的な活力も出てこなくなるんで、「ほんの一部の学歴的にアタマの良い人の力しか発揮されない経済」になっちゃうんですよね。

そういうのは「不自然」なんで、いずれどっかで破綻するんですよ。

システムを世界中に波及するのはいいんだが、その「リアルそのもの」に対する、「システムの網目の粗さ」の分だけ、「生きている生身の人間を、本来的必要性以上に抑圧する」ことになるんでね。

で、それを補完するムーブメントが、「西郷隆盛的なもの」なんですよね。

ネット右翼さんもそうだし、欧州風の「左翼的良心さん」もそうなんですよ。

見た感じの旗印は逆だけど、結局「システムの網目の粗さを、”細けえこたぁいいんだよ!そんなことより野球しようぜ!”で無理やり補完する」という意味では同じことをやってるんですよね。

でも、結局その「グローバリズムシステム」自体を否定するような形の西郷隆盛は、存在不可能なんですよ。

それを学ぶために20世紀の壮大な共産主義の人体実験大会はあったんですよ。

なんで不可能かっていうと、結局その西郷隆盛ムーブメントに参加する「物凄く良心的な人」だって、結局そのシステムを利用して生きてるからなんですよね。

で、そのシステムを代替しようと思ったら、この70億人が毎日生きている世界のあらゆる個別の相互作用を、物凄く賢い人が完全に把握して完全にコントロールできたりしないといけないんですけど、そんなことできるやつおらへんやろって話なんですよね。

じゃあどうすればいいのか?

グローバリズムシステム自体を進化させて(というかその利用方法を人類が習熟して)、それ自体を「巨大な西郷隆盛」にするしかないんですよ。

ラピュタを木の根が取り囲むようにね。

それが、「21世紀の薩長同盟」なんですよね。



そのためには、経済面においては、 一個前の記事 で書いたような、「アメフトのロングパス」のような連携を意識的に起こして行かないといけないんですよね。

システム部分の運用をやっていくときに、その「システム自体が持っている誤差」みたいなのをみんなで意識的に理解しつつ、でも「あえてシステム上で」やっていくことが大事なんですよ。

今みたいに、共同体側は「リアルな真実はこういうことなんだよ」というだけを主張し、グローバリズム側は「システム的にはこれが正しいということしか言えない」みたいなのを主張するだけで平行線になってたら永遠に解決しない。

でも、何があろうとシステムの延長でいくしかないという覚悟が社会の中で引き返せないレベルになってこそ、むしろ「このシステムには誤差もあるから、その誤差を調整して”本当の真実”にこのシステムを近づけていこう」っていう風になれるんですよね。

システム自体の存在価値をネコソギに否定しようとする人たちに弱みを見せるとシステム全体が崩壊するんで、だからそういう「全部を転覆したがる論者」の説得力が滅亡寸前になるまで、グローバリズムは何があろうと突き進まなくちゃいけなかったんですよ。人間の歴史の必然として。

それに、「システムを柔軟に運用して、本当のリアリティを一本釣りする」とか言う作業を社会的に安定して実行するには、かなり「高度に知的」な能力が必要になってくるんですよ。

ただ勉強ができましたってだけじゃなくて、その体系が「とりあえずの最善仮説にすぎない」ってことがちゃんとわかってるレベルにまで本当の意味で知的なタイプの人材が分厚く醸成されることが必要で。

むしろ、ある程度学歴的知性に対する信頼感が社会の中に強固にある状態になったほうが、「イレギュラーな本当の価値に対してそこからロングパスを出す」ことが容易になるような因果関係もあるんですよね。

だからこそ、今の日本ぐらいに、「共同体側の安定感が虫の息」ってなるぐらいまで「西郷隆盛側が祀り上げるネタが切れてきた」ってところまで追い込まれる必要があったんですよ。

「ええい、この紋所が目に入らぬかあ!!」ってやる元ネタを、全部試して、全部不自然なまでに祀り上げては叩き落される・・・っていうのを延々繰り返して全部潰してからじゃないと、できない連携ってのがあったんですよ。

で、今、やっと「舞台が整った」ってとこまで来てるんですよね。



で、その経済面における薩長同盟に持っていく方法について、2月に出る新書(もう出てます)では詳述してあるし、それが出るまでは、一個前のブログ記事とかを参照していただきたいんですけど。

その「表側のシステム」の、下部構造として、今回の記事の冒頭で書いたような「男女のギャップ」みたいなんがあるんですよ。

馬場俊英とコブクロの間の近くて遠い距離がね。

女の人から見て、コブクロのピュアさは凄いわかると思うんですけど、馬場俊英のピュアさって、なかなか理解できないことが多いと思うんですよね。

というか、「女の言うことの半分以上はいつだってミーニングレス(意味ないぜ)」とか言う歌詞なんて、そもそもポリティカリー・コレクト(色んな立場の人に感じ悪く響かないような配慮がしてあること)じゃないとこあるし。

だいたい、同窓会でコブクロファンの女の子に、「小淵くんはそもそも”オンナ”なんて言い方しないしぃー!」って非難されたしね(笑)

でも、その歌詞(全文ここにあります)も、なんか、いいなあって思うんですけど僕は。(言っておくけど僕自身もオンナとか言わないっすよ)

そこの部分だけ引用すると、

>>>
電話じゃダメだって呼び出されたのは、一方、亮一
両手には滲むようなはにかむようなテンダネス 
バイパスを染めぬいたのは夕焼けとヘッドライト
そしてストリート・ライト
思わず抱き寄せて引き寄せてキスをして
そっと見つめたけど彼女
「何もわかってない」
って泣き出したっけ


でも気にすることないぜそれも愛情表現
そうさ女の言うことの半分以上はいつだってMeaningless
わかりっこないぜ
<<<

良くない?俺凄い良いと思うんだけど。っていうかこれむっちゃピュアやん!

これ、女の人の女の人らしい感情のゆれもちゃんと見透かして、それを全部飲み込むように愛してやれよっていう歌じゃないですか。

色々すれ違いはあるだろうけど、彼女への亮一くんの愛情に嘘がなくて責任取るつもりがあるんだったら、ちょっと強引なぐらいでも堂々とその子を幸せにしてやらないとダメだぜ!って言ってあげている歌っていうか。

でも、こういうのは男のパターナリズム(自己満足的なおせっかい的温情)に過ぎないとか、いわゆるホモソーシャル(男同士のダヨネー的な予定調和に浸ってるだけで、本当に目の前の女性についての優しさがあるわけじゃない)的な女性蔑視があるとか、まあ、そういう問題は凄いあるのは僕もそう思うんですよね。

で、確かにね、男を男だけでほうっておくと、いつまでも馬場俊英的に、「大事なものおおおー押入れにしまいたくなあああいいいいー!」とか言って、いつまでも高校時代の思い出にすがって汗臭いグローブ出してきて眺めたりしだすんで、どっかで女の人に区切りをつけてもらわないとイカンとこあるんですよ。

ねえねえちょっと?そろそろ誇り高き勇者のように門出に立ってもらわないと困るんだけど!ってなるんですよね。



少女漫画の男キャラクターが男にとって非現実的に見えてしまうのは、その男は、「他の男に対する義理」を全然感じないタイプなことが多いからなんですよね。

もちろん、少年漫画の女性キャラクターにも同じ問題はあると思うんですけど、女性の同性への義理っていうのは、「具体的な人物」として形を取ることが多いんで、具体的なその他人に対して無茶なことをしない限りは自由でいられる部分があると思うんですよ(この発言に男側の無意識なエゴがあるかどうか僕にはわからないけどとりあえず真意を全部読んでから女性の人には判断してほしいんですけど・・・ってディスクレーマーだらけな記事になってるな 笑)。

少女漫画の男キャラクターも、具体的に身近に見えてる「個人」としての別の男に対する義理みたいなんは重視してること多いと思うんですけど。

でも、実際に生きている男側の無意識な同性への義理っていうのは、もっと抽象的で、広範囲な他人との関係性を持ってるんですよね。

だから例えば、女性側からみれば、「あなたにはその能力があるんなら、ただそれを発揮して活躍すればいいじゃない」で済む問題が、男側からすると、「自分よりも本来的にそのポジションにふさわしい存在がいたとしたら、自分自身がその”成功した存在というポジション”を占めてしまうことで、社会全体の公平感が損なわれたりしないだろうか」的な問題があるんですよ。

元日にアップしたブログ記事に書いた「鳥男への義理」的な問題があるんですよね。

で、女の人は、そういう「他の男への義理を裏切って自分だけを見て欲しい」と思ってるところがあるんで、そこが結構難しい問題なんですよ。

その男同士の義理っていうのが、ただの前時代的な馬鹿馬鹿しい惰性で、ただ排除すればみんなが幸せになる悪性の腫物みたいなものものだったらシンプルでいいんですけど、実際にはそういう義理が、社会の治安や安定性を保つソフトウェアとして結構大事だったりするんですよね。

あるいはちゃんと「密度感ある、どこに出しても恥ずかしくない成果物を出す」的な優秀性を確保するときに、こういう男同士の義理の分厚さが大事だったりする。

「経済的現象」の下部構造としての、こういう「男女的価値観のギャップ」みたいなのが、「21世紀の薩長同盟」の実現を困難にする最大の障害だったりするんですよ。



でもね、さっきは話の都合上「男は・・・」とか「女は・・・」とか書きましたけど、今の時代そんな固定的でもなくなってきてるじゃないですか。

お互いの事情を理解できるようになってきてる。

例えばね、いわゆる「腐女子」っていう、男同士のホモカップルのコンテンツが好きな女性とか増えてるじゃないですか。

いわゆるLGBT(レズ・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー)の人が、もし自分の実存的課題としてそれを自覚したなら、強くそれを貫いて生きるべきだし、それを許容できる社会であるべきだと僕は思ってるんですけど、一方で僕個人的な生理的問題として、男同士の・・・ってのは黒板をキーって引っかく音よりもさらにゾワッとするものがあるんで、実物を見たことはないんですけどね。

ネットとかでもそういうネタがちょっとでもあったらすぐブラウザ閉じるし。

でもね、そういうのが好きな女の人がどういう思いでやってるのかってことは結構興味があって色々話聞いてみたりしたことはあるんですよね。

で、まあ、異論はあるかもしれないけど、でも腐女子的に人気のある元ネタコンテンツって、スラムダンクみたいな、「男同士のプロフェッショナル的友情」を描いてるのが多いなって思うんですよね。

キン肉マンだけは腐女子がいないとかいう話を聞いたことがあって、ああいう粘着質なベタベタした男同士の関係じゃなくて、スラムダンク的に、一瞬前まで罵り合っているようなお互いのプロフェッショナリズム的意志のぶつかり合いが、ある瞬間理想的連携をする・・・的な、そういう世界観に、「腐女子さん」たちの好物があるんじゃないかっていうね。

で、だから、女性としては、男同士がベタベタして、「●●ちゃんは昔からそうだったからさぁー」とか言っていつまでも昔のツレとつるんでるみたいなのは嫌だっていう思いが一方ではあって、でもだからといって男がみんな個人主義的になりすぎてギスギス競争しまくってたら世の中全体としての安定感とか密度感ある蓄積とかが崩壊するんだなっていうことも、わかってきてくれてる・・・・ってところがあるんじゃないかと思うんですよね。

そこのところで、ただ異性を罵るだけじゃなくてね、

「こっちにはこういう事情があるねん」
「でもこっちにはこういう事情があるのよ」
「そうか・・・ほなどないしょうかなー」

って感じでこの断絶を乗り越えられる可能性が、そろそろ満ちてきてるはずなんですよね。

この断絶を乗り越える文化が形成されない限り、日本の少子化問題とか絶対解消しないですからね。

しかも、それを、

「全部ニッポンダンジが他の国の男(そいつらはちゃんとそれなりの安定して認証された文脈で男が守られてる国だからできてるんですけど)に比べて情けないからダメなんだ」

的な、

「全部男側の甲斐性の問題」にする論理

に頼るんじゃなくて、

よりマクロな連関の中で、経済的合理性を確保できる人間社会のムーブメント

として、

「二人の純愛」をいれこんでしまう

ように持っていかないといけないんですよ。



で、例えば一個前の記事で書いたように、僕と星海社の柿内氏って、もっとベタベタした関係になろうと思えばできる感じなんですよね。個人同士でも本来結構気が合うタイプだと思うし。

でも、そうしたくないんですよ。でも、だからといってシステマティックな仕事だけの関係にもしたくないから、氷山の一角的な新書の原稿の、さらに倍ぐらいの「真意」についてのメールを星海社には送ってるんですよね。

だから、「男同士の義理」的な回路を利用してはいるっちゃあいて、その回路によって、「システム外のものをシステム内にいれこもう」としてるんだけど、でも旧世代的にベタベタしちゃダメだな・・・っていうところをお互いわきまえようとしてて、なんか尋常でない量お互い気を使ってる感じがするんですよね。

お互い馬鹿馬鹿しくなるぐらい気を使ってる感じがする。

今はそういう協業の文化があんまり発達してないんで、アホみたいに気を使ってそういう風に持って行こうとしないと成立しにくい感じがしてるんですよね。

まあ、もともとそういう才能があったり、そういうのができる文化圏で生きてる人には簡単なことかもしれないんですけど、少なくとも僕には無理なんですよよっぽど頑張らないと。

いや違うな、

ベタベタした関係を利用して、「システム外のことを内容的に入れ込む」ことも比較的容易に可能だし(でも結果としてグローバリズムシステムとちゃんと親和する軽さが実現しないから大きく売っていけなくなる)

一方逆に、

「システム的に既に認証されている範囲の中だけで完結する仕事」を、プロフェッショナリズム的な関係でかっこ良くクールに決めることもそれなりに簡単にできる

んですけど、

「システム的にまだ認証されてないリアリティ的なもの」を、ちゃんとグローバリズムシステムに過不足なくスムーズに載せるための、「薩長同盟的関係」を取り結ぶのはやっぱり物凄く難しい

んですよね。

で、例えば腐女子さんたちの志向っていうのは、こういう「バラバラに独立した個人」同士が、ちゃんと「個人同士のプロフェッショナル的連携」によって、「旧世代の共同体が持っていた密度感や安定感」を再構築できるように、強力に誘導してくれてるんじゃないかなって思うんですよね。

まあもちろん、こんな迂遠なプロセスでの影響だけじゃなくて、普通の意味で「ばっちり働いてる女の人」と話すと、ぼーっと生きてる男の何倍もこういう問題について凄く理解してくれてる人がいると感じますしね。

女性が社会進出して、社会の構造やその実際問題を我が事として体験していくことで、むしろ旧世代の男以上に、先鋭化してこういう問題意識を持ってくれているキャリアウーマンさんは確実にいると感じますし。

色んな形で人類社会をそっちに誘導していって、最終的にこういう薩長同盟的連携プロセスが徐々に普通の「自然な文化」にまで普及してくると、男同士でダヨネーってベタベタする関係が解体していって、キャリアウーマンさんたちやフェミニストさんたちにとっても風通しが良くて生きやすい世の中になりつつ、かつ「古い男社会」が維持していた社会の安定性や密度感も破壊されない「両取り」が可能になるはずなんですよね。

その「両取り」を実現しないといけないんですよ。お互い異性を罵ってるだけじゃ解決しない。



でね、その方針なんですけどね。

一個前の記事で書いたような、「後輩キャラ」的なのって、結構大事なファクターだと思うんですよね。

だから、人生の前半において、「共同体(ある意味男社会)との義理」みたいなのを物凄く大事にして、現場的密度感を深いところで体験して、「世の中的に通りの良い光があたる場所」じゃない場所の「真実」を探っていくと。

でも、死ぬまでそれやってても誰も救われないんでね。

そういう人を、「お山の大将」的に局地的に救い上げる仕組みは、グローバリズムがネコソギぶっ壊してしまうんで、今60代前後ぐらいの人だったらそれでもギリギリ成立してたケースもあったんですけど、もうバブル期以降に成人した人にはその道で大成する道は途絶されてるんですよ。

だからどっかで、「そうやって男同士の義理ばっか気にして、あたしのことはどうなるのよ!!」っていう女の人の声に従って、「男社会を裏切る」日が必要になってくるんですよね。

で、一回「裏切り切る」ことをしないと、そのコンテンツを「システムに載せる」ことはできないんですよね。

マスコミ的な仕切りや、金融市場的な仕切りで、「ある存在」に、グローバルに見た文脈からの「意味づけ」が与えられるということは、「あいつは俺たちと同じ飯食って育った存在なのに、なんであいつだけ」っていう風になるんですよ。

っていうか、「ある存在を選び出してフィーチャーする」っていうことは、まさにそういうことそのものだからね。

だからこそ、あらゆる他人に面従腹背して、「忍者のように準備」しておきながら、ある瞬間にそれが「結晶化」する人生のタイミングが来たら、そこから「サムライのように名乗りを上げる」っていうような、そういう二段階のモード(このブログで何度も説明してきた”PQ的大道楽”)でやっていくのを、「意識的に」やることが、両者の矛盾を止揚する一つの突破口になるんじゃないかと思うんですよ。



結局ね、前世紀の左翼思想が、結局頓挫したのは、この、

「そうやって男同士の義理ばっか気にして、あたしのことはどうなるのよ!!」

っていう女の人の思いを圧殺してた部分があったからなんですよね。

あまりに社会全体の公平性とか考え始めたら、ほんと神ならぬ人間には問題が膨大すぎて手に余りますからね。

だから、本来的な個々人の可能性のはるか手前で我慢することになるんで、そういうシステムはやっぱ無駄が多いですからね。

でも、だからといってそういうのを完全に否定すると、社会全体に不公平感や怨念が溢れかえるし、本当に「広範囲の人の心の底からの連携」みたいなのが成立しづらくなって、それはそれでどこかで崩壊する不自然なものになるんで。

だからこそ、「できる限り広範囲の義理を果たせるように準備するけど、システムに乗っちゃったらもう完全に冷酷無比なシステムの執行者となる」っていうような、「二段階のモード」が大事になってくるんですよ。

そうやって、「両バサミの問題がある」っていうことを、いろんな人が「自覚」できるようになってって、「だからこそあえて!!」っていうような、「薩長同盟的関係」を次々起こせるようになっていく必要があるんですよ。

「できる限りは共同体の義理的真実にとって善なること」を結晶化させるプロセス

と、

「それをマスコミ的・市場メカニズム的仕切りで一本釣り的に引き上げるプロセス」

を、

「別々の作用」

として意識的に両方確保することが必要なんですよね。

ジョジョの奇妙な冒険の台詞で言うと、

>>>
くっつく波紋と はじく波紋! 「柱」にくっつく波紋を一点集中! 逆に油圧バリアーには はじく「波紋」を接触部に集中!

この正反対の ふたつの波紋を! 同時に体内でコントロールするッ!
<<<

っていう感じの何かが必要なんですよ(無理やりな引用やな)。



そうしないと、結局「本当に自分は社会のあらゆる人にとって価値のあることをやっているだろうか?」とか自問自答するタイプは結局永遠に大きく自分を売り込んでいかないし、一方で、「自分はこれが今できるんだから、それを評価してもらうのに遠慮なんてする必要なくない?」っていう価値観の人だけが大きく売っていくことになるんで、


「本当に広範囲の人の思いを吸収して結晶化したもの」を「みんなで共有する」ことができない


状態になって、そしたら「これが売れ筋」っていうのを次々と必死に生産しても、本当にみんなが心の底から欲してるもんじゃないのを無理やり空騒ぎして売りつけることになるんで、その空騒ぎ感が白々しくなってきたらいずれデフレにもなるわって話なんですよ。

だから、「21世紀の薩長同盟」っていうのは、上部構造としては経済的問題、経営の実務的問題でありながら、下部構造としては、「愛」の問題なんですよね。

で、その「愛」の問題は、二人だけの関係の問題のようで、結局は社会全体で見て誰にどの程度の権限を与えてリードさせたらみんなが幸せになるんだろうか?っていうような問題なんですよ。

そこのところの最適解を、みんなでツッツキ回しながら探してるのが、人類の歴史なんですよね。

で、それが「新しい局面」を迎えつつあるのが、現代日本なんですよ。そこの転換なくして、経済・経営レベルでの「21世紀の薩長同盟」は実現しないんですよね。



と、また長い話になってしまいましたけど、ここまでお読みいただいてありがとうございました。

なんか、男女問題について多少でも話をするのを、正直に語りながらポリティカリー・コレクトにやりきるのって難しいんで、僕は男だから、男なりの無意識の傲慢さとか独善性とかが女の人にとってみたら、特に伝統的なフェミニストの方にはあるのかもしれないなと思うんですけど。

まあ、僕としてもね、できるだけフェアで中立的な物言いをしていきたいと思ってるんですよ。

だからね、そうは言ってもこう言うしかない状況におかれてしまっている、僕の真意の方を、できるだけ汲み取るように理解していただきたいなと思っているんで、もしあなたがフェミニストな読者さんだったら、そのへんよろしくお願いいたします。

特に、「旧共同体の義理」=「男社会への義理」的な言い方をするのがね、なんか・・・ちょっと独善的なのかな?っていう匂いもあるんですよね。

で、実際には、男女ともに、「旧共同体に呪われてる人」もいれば、「身軽に生きてる人」もいるわけなんでね。

でもね、例えば、「女の品格」by坂東眞理子さんのアマゾンレビューを酷評してるのは大抵女の人だし、一方で勝間和代さんの本を酷評してるのって男が多いじゃないですか。

だから、「本質的に」これが男の性質とか女の性質とかじゃなくて、今の時点での社会的状況が男女どちらの立場についてどういうインセンティブを持っているのかっていう、そういう機能論的な話だと思って欲しいんですよね。

で、あらゆる、フェミニズム的課題は、男社会の固陋さを批判して、「欧州左翼風の良心のシステム」をゴリ押しに普及させようとするだけでは解決しないんですよ。

なんでかというと、現状ではそのシステム自体が人間の下半身的本能からすると非常に頭でっかちすぎるので、それ起点に起こすムーブメントに経済合理性をもたせづらくて、物凄く恵まれた一部のところでの「余技」としてしか実際問題として実行できないからなんですよね。

もちろんそういうのを最終的には社会の隅々まで行き渡らせるべきだとは思うんで、だから今そういう活動をされてる方は一切妥協なくその道を進んでもらないといけないんですけどね。

ただ、それが現状できないこと自体を、「できない人が野蛮で倫理的に劣った存在だから」みたいな論理に先鋭化していくと、本来得られるべき大域的な協力関係が絶対得られなくなるんで、結局誰のためにもならないじゃないですか。

その両者に橋をかけるには、伝統的なフェミニズムが一番うっとおしいと感じているような部分の奥にある「馬場俊英の歌にある優しさ」みたいなのを、うまく活用するにはどうしたらいいか?っていう実践的な問いが必要なんですよ。

で、女性の人生を望まない方向に縛ってしまうパターナリズムにならないようにするための、涙ぐましい努力も彼の歌にはありますしね。

だから、2つ前の記事で書いたように、今生きている自分たちが嫌な風習があるんだったら辞めて新しくすればいいんですよ。でも、いちいちそれを倫理的な優劣の問題にしたりしたら、本来協力しあえる相手とも無意味に罵り合うことになるんですよね。

それじゃあ結局何も解決しないんですよ。むしろどんどん遠くなるんですよ。

市井のあらゆるカップルの普段のやりとりの現実感レベルで、凹凸がぴったりはまるように持って行かないと、大上段に相手を非難しているだけでは決して解決しないんですよね。

って、問題が壮大過ぎて、ブログ一回分で意を尽くせるとは全然思ってないですけど、徐々にこういう話も一体的にしていくことができたらいいなと思っていますんで、よろしくお願いします。

とりあえず今日はこのへんで。

このブログの人気の投稿

今更ですけど自己紹介を・・・その1.副題『原生林のような豊かでタフな経済を目指して』

このページはよほど倉本圭造に興味がある人のためのありえないほど長い自己紹介エッセイなので、サクッとコイツ誰なんだ?ってことが知りたい場合は、私のホームページの「Who?」欄をお読みください。(向こうにしかないコンテンツもありますし、とりあえずコンパクトに全体像がご理解いただけると思うので、かなりご興味を持ってくださっている方も、先に向こうをお読みいただけるとご理解しやすいように思います。その後以下の”長文”へと戻ってきていただければと)







最近出版の依頼を下さった人がいて、”出版社の女性社長さん兼編集者”としてギョーカイでは結構有名な人らしいんですが、「21世紀の薩長同盟を結べ」本体を読むまで、プロフィール欄を読んでも「???」って感じだったと言われたんですよね。

その「???」になったっていう文章は、本の著者プロフィール欄に記載されているコレなんですが。

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
で、「なるほど、意味わからない・・・かもしれないな」と思ったんで、それについて、一度まとめた文章を書いておいたほうがいいのかな・・・と思って、これから書きます。

『逃げ恥』が教える「自分らしく生きる」の本当の意味

あけましておめでとうございます。昨年の私は普段の仕事的にはそれなりに一歩ずつ経験積んで進歩してこれた感あるんですが、いかんせん本出したりネットに上げた文章が広く読まれて・・・という方向での活動としてはなんだか何もやってないも等しいような印象になりそうで、正直ちょっと焦ってもいます。

ただ今は、焦って本やブログを書いても、よくある「右や左の紋切り型」にしかならない難しい状況に世界がどんどんなっていくなあと感じていて、そうじゃなくて「個別の事例」と仕事で向かいあう中から立ち上がってくる何かを信じて積んでいきたい気分だというか・・・ま、もうこの歳になると自分はマイペースにしか生きていけない人間だってところは骨身にしみてわかっているので(笑)、相変わらずそういうペースで今後もやっていきますので見捨てないでたまに気にかけてやって下さい。

ちなみに、ブログ再移転しました。ブックマークされてる方は変更をお願いします。

新ブログトップページ↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp



で、久しぶりのブログ更新、しかもブログ移転一回目・・・がテレビドラマの話題ってなんてミーハーなって感じもしますが、2016年最大の(たぶん)ヒット作となった『逃げ恥』が超よかったので、年末だしそれについて書きます。

全体的に言って、「自分らしく生きる」っていう現代的に超超超言い古されたことについて、ちゃんと一歩ずつ考えて一歩ずつ実現していかなくちゃね!っていう気持ちになったところが凄く良いドラマだったと思ってます。夫婦で見てて毎週二回は泣いてました。

このブログはそういう方向で、

・『逃げ恥』のどこにこんな感動するのかって話
と、
・それはある種「運命へのニーチェ的向き合い方」なんじゃないかって話(より正確には”一連の実存主義哲学”)
と、
・「他人の人生を生きないで、自分の個別性(自分らしさ)を生きること」っていう「言い古されたこと」を私達が本当にちゃんとやりきるにはどうしたいいのか?
というような話に広がっていく予定です。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。