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”NO REASON”に安心して踏める「新しい地面」を見つけてあげることが、日本における「知的なグローバリスト」のこれからの役割ですよね。

震災から一年・・・ということなんですが、実際にかなりハードな被災をされている方に、部外者である僕からなんか言うのもおこがましい感じがしているので、そういう方にはぜひ諦めずに生き続けてくださいとしか言うしかないんですけど。

僕は高校生の時に阪神・淡路大震災を体験してるんで、その感覚から言って、建物や人命といった「ハード」の部分での「絶望的な破壊」が今後一歩ずつ復興していった先に、最後の方で一番大事になってくると思われる、「ソフト面」での問題について何かを書かせて欲しいと思っています。

震災が破壊するのは、建物や人命だけじゃないんですよね。社会が「どうあればOKなのか」っていう共通了解が破壊されるんですよね。

ていうのは、人間って「平等にフェアに」生きている気分でいられて、特に何のやましいこともなく堂々と生きていられるのが理想・・・・の状態だと思うんですが、ここの「平等にフェアに」っていうことを、考え始めると本当にどこまでも難しい問題があるじゃないですか。

で、震災っていうのは、そういうのを凄く露わにするんですよね。

たまたま道路一本こっち側に家があったら、もう震災当日にはライフラインも回復しはじめてた・・・・一方で、その道路の向こう側に家があったら、もう丸ごと火事で丸焼けになって家族も家財も失った・・・・っていうのが「震災」なんですよ。

そこには、「被災者」って一括りにできない問題があるんで、だから、「被災者」っていうククリで復興計画を練っていく裏で、そこに如実に立ち現れる「個人」っていうのが、凄く・・・・困るんですよね。

「普段は考えずに済んでいたこと」に直面せざるを得なくなるっていうか。


そういうのを、一言で言うと、

「今までとりあえず通用させてた価値観が、ちょっと地面が揺れただけでネコソギ説得力を失うような薄っぺらいものでしかなかったことが露わになる」

一方で、

「だからといって、それ以外に共通了解になるようなものが見当たらない」

っていう状況なんですよね。

で、特に、「ある制度・あるシステム・ある価値観」には、常にそこで優遇されてる人と、低い位置に置かれている人がいるんで。

その「今の仕組みでノケモノにされているという感じている人」の気持ちが、歯止めが効かない形で噴出することになるじゃないですか。

そうすると、「秩序維持機能側」というか、「今の仕組みの延長で動かす役割の側」の人間としても、ちょっとでもスキを見せるとネコソギ全部ぶっ壊してしまえ・・・という話になってしまうので、本来得られるべき大域的協力関係の、遥か手前でゴリ押し的な解決をしていくしかなくなってくる。

その結果、さらに対立は深まるし、ある意味で「非合理的」だけど「感情を呼び寄せやすい選択肢」を選んでさらに苦境に陥ってしまったりする。



最近、金融日記というブログで有名な、藤沢数希さんという方が書かれた「反原発」の不都合な真実という本を読んだんですよね。

で、原発賛成側の立場から、色んなデータを冷静に沢山載せてる本って感じで、内容もさることながら、「ちゃんとマトモに考えて最適なことが通る世の中にしたい」という著者の思いがストレートに現れた良い本だと思ったんですけど。彼の普段の偽悪的な論調の影にある、「真実を求めるロマンティスト」的な部分が良い方向に出ている感じというか。

まあ、原発問題については、色々な立場があるでしょうけれども、いくつかなるほどと思ったのは、

・原発以外の代替案はエネルギーの密度が低いので、同じだけ発電するとなると”物凄く多くの人工物”を生産してあちこちに配置することが必要になる。それに比べれば「危険だがほんのちょっとの廃棄物」で済む原発と、どちらが「エコ」なのかは難しい問題。

・原発がなければ電気自動車には意味がない。余計にロスが大きくなる。

とかね、あと「同じ累積被曝量でも、低線量を凄く長時間かけてチョコチョコ浴びていくのなら問題ないという研究結果が現在の大勢」で、むしろ「無理やりな避難勧告が、当該地域のコミュニテイや経済を破壊することの方が問題」という話とかね。

長期的に、原発を廃止したい、それに代わる最適なエネルギー形式にしていきたい・・・と思っている人にとっても、その「プロセス」としては、とりあえず作っちゃってる原発は利用しながら、うまくシフトしていくことが必要ですよね・・・ぐらいには落ち着くのが「妥当な判断」になるんじゃないか、というような内容だったように思う。

「原発廃止派」の人でも、実際にはその「廃止にいたるプロセス」は、一番みんなのためになるものであったほうがいいと思われるわけで、で、その時に、「とりあえず再稼働しないと、既に作っちゃってる原発の維持費や老朽化した火力を使い続けるコスト増や環境負荷の問題もあって、”本当に廃止に向かう”時の余力もなくなっちゃうんだから」的な妥協点を見つけるキッカケになるんじゃないかという感じの良い本だった。

そもそも、「脱原発一色」って感じの状況の中でちゃんとこういう本を出すっていうのは、それ自体で意義深いことだと思うしね。



ただ、そういう「冷静な議論」とは別にね、反原発の人が反原発に動く気持ちには、やはり「気持ち」としての必然性があるんだと僕は思うんですよ。

大雑把に言えば、もう「科学文明とか面倒くせえ!!」ぐらいの、深い部分での共有された怨念があって、それがひとつの形として出てきているのが、「反原発ムーブメント」なので。

だから、ある意味「今の仕組みの延長」側の論理が、その「怨念の新しい発揮場所を確保する」ことが出来なければ、どれだけ「理性的な議論」を続けても、本当の意味で「両方の事情がちゃんと勘案された最適な結論」には至らないだろう・・・ということになる。

今の日本は、原発問題を始めとする種々の「そもそもの価値観の問題」に、「直面せざるを得ない」というか、「真正面から直面して乗り越えなくては、決して前に進めない」状況に追い込まれてしまっている。

こんなことを言うとシリアスな反原発派の人には怒られてしまうかもしれないが、彼らの「切実な思い」の噴出場所が、別の場所に、もっと「大域的な合理性」と噛みあった形で用意できれば、原発問題については、適切に”理性的”な形で決着する流れになるはずだと僕は思ってるんですよ。

少なくとも、たとえ長期的に原発は廃止に向かうのだとしても、とりあえず「作っちゃってるもの」は再稼働しながら、経済的負担を下げていくことは、「脱原発派の攻めのアクション」にとっても大事だ・・・というあたりの合意には、「どちらの側」も納得できる合意点になる気がする。

ただ、そこにいたるまでのいざこざには、「理性的・合理的」な原発賛成派の人からすれば、「なんでそんな迂遠なことを」と思うような問題がそこにはあるわけだけれども、この対立をキッカケとして、より本質的な「問題の核心」に、日本人全員が取り組む形に、「取り組まざるを得ない」形になっていくことには深い意義があると思う。

なぜなら、そこの問題に、自分たちなりの「解決」が共有できない限り、日本がこれから経済的にも・社会的にも・その他あらゆる意味において「よくなっていく」なんてことは決して不可能だから。



例えば一個前に書いた記事のような、生命科学風の研究をベンチャー化する動き。

あれを、本当にアメリカに対抗し、新しい「自分たちの強み」と言えるほどにまでに高めていくには、「そういうことをやる意味がある」ってことを、社会全体である程度共有できないとダメなんですよ。

日本は「現代医療とかって馬鹿馬鹿しいよね!!」っていう気持ちが、アメリカと違ってかなり「知的」な人たちの間にも広まっている国ですからね。

で、そういうアニミズム的な?シャーマニズム的な?そういう感性が、回りまわって日常レベルにおける現場的優秀性を支えてるみたいなところもあるんで、ネコソギに「馬鹿馬鹿しいねえ」とは済まされない問題がそこにはあるんですよね。

しかし、「医療自体が馬鹿馬鹿しい」なんてことは本当はないはずなんですよ。「馬鹿馬鹿しい」って言ってる人でも、本当に困ったときは結構頼ること多いと思うし。

ただ、例えば人生の終末期においてね、「無理やり生き長らえさせてるようなのは本当にこの人のためになってるんだろうか?」とかね、そういう部分での「違和感」に対して、現代社会では誰も何も言わずに済ましてるところがあるじゃないですか。

そこのところの、「気持ちの問題」に誰も踏み込まず、そこはただの惰性でなし崩し的に運用されている・・・っていうことの、「深い部分の苛立ち」っていうのが、現代社会には渦巻いてるんですよ。

で、その「噴出口」が、「現代医療なんて馬鹿馬鹿しいよね」っていう「全否定の論理」にしか見つからなくなってるだけなんだと思うんですよね。



これは、あらゆる「システム的なもの」「合理性的なもの」を、生身の人間の集団に導入していくときに、常に問題になることなんですよね。

で、そこで大事なのは、「知的な議論で火花が散る部分」と、「本当の気持ちのレベルでのニーズ」は、「全然違う部分にある」んじゃないかと僕は思ってるんですよ。

というか、僕は、自分の震災体験ゆえに、「知的な議論で火花が散る部分」と、「生きているみんなの本当の体感的ニーズ」との間のあまりのギャップが常に精神をチクチク刺してくる人間になっちゃったんで。

そこを、なんとか繋がないと、僕自身が安定して生きることができないと思ってここまでやってきたんですけど。

その探求期間ゆえの成果を持って、なんとか今の日本の対立を、「形式知的な議論で火花が散る部分」から、「気持ちレベルでの本当のニーズ」の方向へ動かしていきたいと思っているんですよね。



だから、例えばグローバリズム的なコーポレート・ガバナンス的な問題ね。「資本の論理」が日本じゃ効いてないからダメなんだ的な。

で、無能な経営陣が居座って現状維持をしてるからダメなんだ的な議論って今凄くスタンダードみたいになってるじゃないですか。

で、その議論自体は「知的」にはかなり正しい側面を持っていると思うんですが、その「非合理性」が最後の砦として死守している「何らかの良さ」ってのがあるんですね。

だから、壊そう壊そうと、「知的な議論者」がいくら舌鋒を鋭くしても壊れないんですよ。で、最後には「あーあ、これだから非合理的な野蛮人の日本人どもは嫌だねえ」って言うしかなくなっちゃう世界になる。

誤解してほしくないのは、僕はそういう「知的な議論の一貫性を重視したい人間」の一員なんで、だからそういう人たちが求める「知性の一貫性とフェアネス」が社会に満ちて欲しいなと思ってるんですよ。

だから、「何らかの良さ」があるからって一回壊してしまわなくちゃいけないのは同意なんですよ。

ただ、無理押しに崩壊させようとするだけでは、結局変われないんですよ。そういうのは、やっぱある意味で「自分は内容的に批判されようもない正しいことを言っているんだけど、本当に相手に伝わるように言って相手を変えようとは思っていない知的怠惰」みたいなところがあるんだと思います。

「批判されづらい言論形式の既得権益に安住している」みたいなところがね。

でもやっぱり、最終的には

「旧世代の仕組み」以上に、その「何らかの良さ」を引き上げてやれる形をグローバリズムが用意できたら、その時日本は初めて変われる

んですよ。



で、その「何らかの良さ」ってなんなんだ?って話なんですけどね。

それは、結局、

「理屈じゃなくて、ただそうなんだ」という「領域」をどうやって「システム」から守るのか

っていうことなんですよ。

そういう

「NO REASON」な領域を、「システムを共存させる」、そういう「技法」を、今の日本は切実に必要としている

んですよね。

っていうのは、コンサル的な立場で企業とかかわると、コンサルはね、「一回一回アタマで考えて知的に一個の方策を考える」のが仕事なんですけど、でも「実際にそれを毎日やる側」からすれば、「それじゃ困る」わけじゃないですか。

だから、もっと現場的な、本能的な、無意識的な、そういう領域の自然な感覚の延長に、「仕事」を作ってあげる配慮・・・・が絶対必要になってくるんですよ。

で、日本人の集団って、ある瞬間暴発してしまう直前までは物凄く忍耐強いように見えるんですけどね、でも凄くデリケートな部分もあるんですよね。

日本における「日常業務」に必要な心理的・人生的なコミットメントって凄く大きいので、「知的な日本人」が簡単に思うほどにホイホイ柔軟には動けない部分もある。いちいち、「知的な日本人」が日常生きているような「あらゆるものへの懐疑主義」みたいな「暫定的」な立場では日常を生きてはいけない事情ってものがあるんですよね。

だから、日本人の集団が「底力を発揮」し、かつその力を発揮する中で幸せを感じてもらって安心して生きてもらうには、「特有の配慮」が必要なんですよ。

みんながみんな、コンサルや金融関係や文筆家を職業としている人のような「身軽な世界観」では生きてはいけない。「現場の一日の集中」を支えるだけの「意味の重み」が足りない。そこのギャップが、毎年凄い数の自殺者となって現れている現実があったりするわけですよ。

で、何か植物を育てるとなったらね、その植物特有の生育条件をちゃんと整えてやるのは当然の話じゃないですか。そこを、「寒空の中でこそタフに育つんだ」的な暴論しか聞かれないようじゃあ、そもそも一切シャットアウトされて当然なところもあるんですよ。

「寒空の中でこそタフに育つ」という人は、「グローバリズムと合致しやすい形の職業選択をしているだけ」なんですよね。

で、そういう人は、「グローバリズムの文脈とは合致しづらいけれども、粛々とその日その日のことに集中することで、実際に広く大きな経済規模を保つことになっている沈黙の日本人たち」の経済規模に、やはり「フリーライド(タダ乗り)」してる部分はあるんですよ。

もちろん、今までは「そういう文脈(”のグローバリズムの威を借る狐”的な)」でのムーブメントを起こしていくことで、変革の火種を作るっていうことは必要なことだったんですけどね。

それは幕末の革命ムーブメントが、とりあえずは「尊皇攘夷」みたいな単純化されたムーブメントで始まったのと同じなんですよ(見かけの方向は逆だけど)。

徐々に、「一般論」的に、「あいつら既得権益者が悪い」というケンカをする言説だけじゃなくて、

「グローバリズムをどう使えば、日本の底力が発揮されるのか」という実質的な話

を考えるように持っていくべき時なんですよ。

そこを、経済学的に大きな話だけでのり切ろうとするのは良くない。「モデル化の段階で取りこぼしているもの」が、実際には「凄く実際的に大きなイシュー(最重要の決定的な課題)」になってくるからね。

でも、例えば「やる価値のないところにバンザイ突撃をするのを辞めさせたい」ならば、「今やっている対象は無駄だ」という方向で論を組み立てるのじゃなくて、「この対象なら頑張っただけ日本ならではの強みが発揮できるし、かつみなさんの大好きな”全力感”が感じられるだけのやりがいも持てそうですよ」という形を見つけてあげる方向に、考えるべきなんですよね。

そうすることによって、「現場」は、「NO REASON」に立ち向かえる「課題」を与えられて、他に何も考えずにそれに集中する「日本人の満足」が得られるし、「知性派の日本人」は、「高く広い視野から発想した観点をちゃんと提供する」ことができる。

「日本の現場」vs「グローバリズム」

っていう対立軸を卒業して、

「日本の現場の性質をうまく活かすための、自前のグローバリズムの運用方法」

を、考えるように、みんなで持っていかなくちゃいけないんですよ。



今は、その「両者の良さを」っていうよりも、「あいつらが悪い」っていう言説の方が派手だから注目を浴びやすくて、そういうのばっかりになっちゃってるんですけどね。

でも、「現場的沈黙の日本人」から、そういう「あいつらが悪い論壇」的なものとの距離が凄い開いてきてる感じでもあるんで。

「両者を繋ぐ現地現物の動き」をやっていこうとする流れは、ちょっとずつ起きてきている。

で、原発問題にしろ、あらゆる「グローバリズムvs守旧派」問題にしろ、問題の核心は、その「知的な議論」の部分じゃないんですよ。

多くの場合、「知的な議論」の部分は、概ね「知性派」の側の言っていることが正しいんだと思うんですよ。

でも、「それが通らないという現状」の中に、「それ以外の部分」において、「我々が全力を尽くして取り組むべき”薩長同盟”的課題」が暗示されてるんですよね。

その「薩長同盟的課題」が解決されない限りは、「知的な問題」において「冷静な議論を」という呼びかけをいくらやっても、それだけでは前には進まないんですよね。

でも、その「知的な議論」とは別の場所で、「集団的日本人の苛立ちの根幹」の方を、「どうやったらグローバリズムとシームレス(継ぎ目なし)に繋げられるのか」という問題に、みんなの注意を持っていくことができるようになれば。

「渦巻いている怨念と不信感」が根っこの方から解消されるんで、「知的な議論で済ますべき部分」は、そのまま「知的な議論のまま」進む世界になるでしょう。



そして、

「グローバリズム的に最大公約数的なシステム」が、「現地現物のリアリティ的多様性」を抑圧していくことで、種々の問題が起こっているのは日本だけの問題じゃない

んでね。

だからこそ、「グローバリズムだけを押し切って成立している”現時点での”成功例」だけを印籠のように押し出して、「日本の守旧派」を批判する・・・っていうのは、そもそも議論の前提がオカシイんですよ。

そういう「後追い的なもの」じゃなくて、「新しい成功」を目指さなくちゃ、本当に日本が「ならではの良さ」を発揮できる時代には決してならない。

でも、そこを超えれば、日本から、「アメリカの枠組みよりもさらに一段深く豊かな多様性」が次々と生まれて、それがネットを経由して世界中に発信され、消費される時代が来ます。この回の記事の後半で書いたように。

「個別的・現場的リアルな多様性」を破壊しない形での(そこさえOKなら、役割を終えた”中間集団的”な惰性はいくら破壊しても良くなる流れになるはずで)、「グローバリズムの導入」をやらなくちゃいけないんですよ日本は。

韓国やシンガポールの後追いをするだけじゃダメなんですよ。ああいう「シンプルに全部受け入れる」ことができない国である日本は、「受け入れるのに時間かかった国」だからこその優位性で勝負するように持っていかないと。

「文明国」的な部分と、「非文明国」的な部分が重なりあって存在しているようなところに、日本の特殊性はあるんで、だからこそ「文明国的な部分」だけで勝負しようとしたら、邪魔になる荷物が多すぎて、結局「身軽な国」には絶対勝てないってことになるんでね。

で、日本は今まで、どんな発明品も、原型がなくなるぐらい独自に精緻に発展させて「現地現物の事情」に即応させることを得意としてやってきたわけじゃないですか。

「グローバリズムというツール」だって、日本人が本気で取り組めば、「本当に現地現物の事情」にぴったり即応させるところまで「うまく使えるようになる」はずなんですよ。

でも、そのためには、「集団的日本人の側の人」も、「グローバリスト側の人」も、ちゃんとお互いの切実な事情のことを理解しあって動いていくムードにならないことには始まらない。

その「薩長同盟的課題」をそのまま放っておいたら、これからも「知的な個人主義者のグローバリストの日本人」の行動は、邪魔され続けるでしょう。

でも、「現地現物の事情」からスタートして、「どちら側の切実な事情」もうまく乗るようにするには・・・・と考えていくと。

結局、「今の時代の守旧派の惰性」が、必ずしも「生きている個人の本当の願い」を汲み取れているわけでもない・・・って単純な事実にも行き着くので。

だからこそ、その「守旧派よりも、彼らの”本当のニーズ”を引き上げられるやり方を、グローバリズムの延長として考えられるんだぜ」という動きが着々と育っていけば。

ウソみたいにスムーズに、日本は「新しい合意点のコア」を発見することになる。

迂遠なようでも、そこが最大の課題だし、そこが解決されない限り、日本における「先進的な取組み」は常に孤立無援状態のままに置かれるんで、結局本当に底力が発揮されたりしないんですよ。

それが、「21世紀の薩長同盟を結べ(出版社のサイトで試し読みができます)」なんですよね。

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経産省若手資料はそんなにダメか?褒めときゃいいじゃん。

書籍の執筆でアタマが沸き立っていて、箸休めに軽いブログを書きたいので書きます。



ネットで話題の、経産省の若手有志による、

国内外の社会構造の変化を把握するとともに、中長期的な政策の軸となる考え方を検討し、 世の中に広く問いかけることを目指すプロジェクト

っていうのがあって、このリンクからパワーポイント資料が読めるんですが。

数日前にリンクを見つけてパラパラ読んだ時には、「いいなあこれ、頑張って欲しいねえ」と思ったし、ネットでも高評価な人が多かったんですが、なんかそれから日がたつうちに色んな人が

・全く新しくない
・具体的な政策への落とし込みが足りない
・データ分析が雑

などとクサしまくってるのを見てて、いやーそんなにダメかねえ??いいじゃん!と思ったのでそれについて書きたいです。

「ダメかどうか」もさることながら、「最高とは言えなくてもとりあえず褒めときゃいいじゃん」的な話でもあります。

いや、批判は批判で内容的にはゴモットモではあるんですが、あまりにそういうのが盛り上がっちゃって、この資料に対してちょっとでも高評価をするのは知的人間として恥ずかしい・・・ぐらいの空気になってきてるのがちょっとどうかと思うんですよ。

そもそも役所が懇談会的にインテリ集めてとりまとめた資料で、総花的にならずに一方向的なストーリーがあって、ある程度こういう「何言ってるかちゃんとわかる」資料ってそんなに多くないですし、だからこそ「うるさ型」の人たちがクサし始める前の段階では結構ネットで「いいじゃん!」的空気が巻き起こったりもしたわけですよね。

単純に言って、役所発のペーパーで、その「いいじゃん!」モードが小規模でも巻き起こったりした時点でそりゃ奇跡と言って良くて、そりゃ批判は結構だが、じゃあどっかに「超絶凄い官僚さんの集団」がいるわけじゃないんだから、今の日本の官僚さんたちに、官僚の役割の中でできることは頑張ってもらうしかないわけで、だからあんまりクサすばっかりなのもどうかと思うわけですよ。

で、資料の内容なんですが、たしかに「どこにもない新奇性」とか、「具体的な政策へ落とし込みきった提案」とかは弱いかもしれないが、この資料は1つの「ストーリーの提示」を目標としてるわけですよね。

いわゆる「高齢者に属する人」にも、資産や健康面でかなり余裕がある人もいるんだから、一概に「高齢者サマ扱い」で終わ…

今更ですけど自己紹介を・・・その1.副題『原生林のような豊かでタフな経済を目指して』

このページはよほど倉本圭造に興味がある人のためのありえないほど長い自己紹介エッセイなので、サクッとコイツ誰なんだ?ってことが知りたい場合は、私のホームページの「Who?」欄をお読みください。(向こうにしかないコンテンツもありますし、とりあえずコンパクトに全体像がご理解いただけると思うので、かなりご興味を持ってくださっている方も、先に向こうをお読みいただけるとご理解しやすいように思います。その後以下の”長文”へと戻ってきていただければと)







最近出版の依頼を下さった人がいて、”出版社の女性社長さん兼編集者”としてギョーカイでは結構有名な人らしいんですが、「21世紀の薩長同盟を結べ」本体を読むまで、プロフィール欄を読んでも「???」って感じだったと言われたんですよね。

その「???」になったっていう文章は、本の著者プロフィール欄に記載されているコレなんですが。

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
で、「なるほど、意味わからない・・・かもしれないな」と思ったんで、それについて、一度まとめた文章を書いておいたほうがいいのかな・・・と思って、これから書きます。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。