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「東京」に対してシニカルであってはいけないな。

・・と思っている。最近。

東京が持っている規模感って、世界で見ても物凄くて、それが日本特有の「ナアナアさ」を生んでいると同時に、日本から今後「新しい可能性」を生み出せる揺り籠にもなっている。

この前テレビのバラエティで、話の流れの中で「アメリカズ・ゴット・タレント」のタイ版映像が一瞬流れてるのを見たんだけど、なんかさ・・・お前らにオリジナリティという言葉は無いのか?って感じだった。

審査員の口調とか頷き方まで本家そのままみたいな。

あれ、世界中でやってるしね。中国でも韓国でもやってる。

「そうなってない」ことの欠点に、20年間の日本は苦しみ続けてきたけど、でも、「そこが他と違う」ということ自体は長所でも短所でもない、ただの事実だからね。

だから、「そういう性質」なんだとしたら、「それを徹底的に活用」してやらなくちゃいけない。

ただの後追いが圧倒的な成果に繋がることはありえない。アメリカだからこそできることがあり、シンガポールだからこそできることがある。

それらを参考にしていきつつも、でも日本は、それらに比べて圧倒的に「荷物が多い」国なので、後追いで似たようなことしたってダメなんですよね。

長所も短所もひっくるめた「日本そのもの」を真剣に突き詰めた可能性を出していかなくちゃいけない。



でも、そういう方向性のために、変に国粋主義的になっても何も生み出さないからね。

だから、「グローバリズムの文法の中に、日本ならではのことを再生」していかなくちゃいけない。

それには、個別のプレイヤーの努力ももちろん必要だけど、全体としてどういう噛み合い方に持っていくのか・・・っていうような「風潮へのアクセス」が必須で。

やはり、「グローバリスト側」にいる人たちも、いくら「良心や真実への洞察力」があったとしても、「アメリカじゃこうなのになんでできないの?」って言ってるほうが他人に課金しやすい状況が続けばそれを続けるしかないし。

ある意味、現地現物な事情を一切勘案せずにただ大上段なことを言ってるだけな方が儲けやすいという状況は、減ってきたとはいえまだまだ存在するわけなんでね。(まあ、そういう存在を徐々にあぶり出して適正化していくことがこれからの日本の最大のチャレンジなわけですけど。)

それに対して「日本の組織」にいる人たちも、「とりあえずの惰性」でやってるほうが他人に課金しやすい状況が続けばそれを続けるしかないわけですよね。

この両者は、「良心に訴える」方向だけじゃなくて、「その両者を発展的につなぐ構想」が成立した時に「儲かりやすい」という状況になるまで、「追い込んでいく」ことが必要なんだよね。

そういう「薩長同盟的連携」自体が、「経済合理性」を帯びるように、インセンティブ構造が徐々に煮詰まっていくように持っていかなくちゃいけなくて。

そういう方向に動かしていくために書いた本が「21世紀の薩長同盟を結べ」なんですよね。

みなさんと協力して、なんとかそういう方向に動かしていきたいと私は思っているんですけど。

その時に、「東京」に対するシニカルな気持ちって、持つのは辞めなくちゃな・・・って、最近強く思っています。

僕は関西生まれ関西育ちだし、「東京以外の文化」の中で、「今の東京のトレンド」から一歩距離を置きながらジックリ準備をしていって、最終的に「新しい方向性」を形にする・・・っていうことを今までやってきているので、「東京に対するシニカルさ」って、習い性みたいになってるんですよね。

もちろん、「東京」ていう存在の面倒臭さっていうのは明らかにあるから、地方発に、もっと単純明快に、コンパクトサイズだからこそできることを突き詰める・・・っていうことはこれからもっと起きていくべき変化だと思うんですけど。

今後、そういう流れが進めば、「東京が抱えている矛盾」の難しさも多少は減ると思うし。

でも、そういう流れを起こすときにこそ、「東京に対してシニカルになる必要はない」あるいは「なってはいけない」ってところがあるなと最近凄く思う。

「それぞれの役割を果たす」っていう方向で行かないと、お互い無駄な罵り合いに発展するだけで良くない。

(関西に住んでないけど)関西出身者のサガとして、それはちゃんと気をつけなくちゃいけないなと思っている。

自分のバックグラウンドを大事に伸ばしていこうとするからこそ、東京に対してシニカルになったらいけないなと。

自分のバックグラウンドからちゃんと一貫して積んでこれた過去の自分の蓄積自体が、「東京発の文化」が色々を犠牲にしながら維持してくれていた「隙間」を利用してきたものだ・・・っていうことを自覚することが大事だなと。

「東京」が持っている面倒くささが嫌だからといって、「敵」の設定を間違ってはいけない。



「東京」がその巨体の中に抱え込んでいる矛盾って凄く大きくて、でもそれが「現状のグローバリズム」と「日本の現地現物の事情」との間を、「ちゃんと無理なく無矛盾に繋げるようになるまでの暫定的なバッファー」になってくれているんですよね。

だからこそ、今の東京が持っている「どっちにも進めなさ」から逃げてはいけないな・・・と思う。

その「東京が持っている両バサミの難しさ」ゆえに、「グローバリズムの威を借ることで東京を批判する論調」あるいは、「色んな日本の古い時代へのノスタルジーをバックに今の東京を批判する論調」の方が、「わかりやすく」なっちゃうんだけど。

安易に「どっちかに決めた言説」をしたほうがわかりやすくなるから、その方が「言説」としての通りは良くなるけど、そういうのは前に進めば進むほど逆側の力も高まっちゃう種類のものだから、実践レベルになってくると結局有効性がないんだよね。

そういう、「見た目派手だけど意味がない言論」を慎重に避けて、「どっちにも進めなさ」自体を突き詰めていくことによって、「グローバリズムの論理と日本の現場」が「現地現物で噛みあう」っていう「薩長同盟的な解」に、「行かざるを得なくなる」ように持っていかなくちゃいけない。

逆側を「焼き払ってしまえ!」っていうような言論は、見た目勇ましいけど結局意味ないんだな。



まずは、その「両バサミな現状」自体を理解した上で、一歩ずつ「できること」をやっていくしかないんですよね。そこからスタートしてない言論は、やはり究極的には無意味だと思う。

ただ、「現場レベル」のことが、バラバラに行われていて、広域的に見た時に「本来得られる連携」が得られないと、個別に撃破されて終わるので。

「現場」レベルで「できること」を積み上げておられる人たちへの敬意を払いつつ、「全体として見た」時に、有効に噛み合うような「流れ」を生み出す言説自体には切実なニーズがある。

そこを真剣に埋めるってことを、やっていくことが、自分の仕事だな・・・と、最近明確な実感になってきている。

「実践的な意味」を持つ、「思想レベルなこと」っていうかね。

そういうダブルスキル的な領域でこそ、他の人と比べた時の自分のレアさが際立つと思うし。そして、その領域は、今誰かが真剣に「埋めるべき言説」を必要としている領域だと思うしね。

そんなことを、最近考えている。

このブログの人気の投稿

今更ですけど自己紹介を・・・その1.副題『原生林のような豊かでタフな経済を目指して』

このページはよほど倉本圭造に興味がある人のためのありえないほど長い自己紹介エッセイなので、サクッとコイツ誰なんだ?ってことが知りたい場合は、私のホームページの「Who?」欄をお読みください。(向こうにしかないコンテンツもありますし、とりあえずコンパクトに全体像がご理解いただけると思うので、かなりご興味を持ってくださっている方も、先に向こうをお読みいただけるとご理解しやすいように思います。その後以下の”長文”へと戻ってきていただければと)







最近出版の依頼を下さった人がいて、”出版社の女性社長さん兼編集者”としてギョーカイでは結構有名な人らしいんですが、「21世紀の薩長同盟を結べ」本体を読むまで、プロフィール欄を読んでも「???」って感じだったと言われたんですよね。

その「???」になったっていう文章は、本の著者プロフィール欄に記載されているコレなんですが。

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
で、「なるほど、意味わからない・・・かもしれないな」と思ったんで、それについて、一度まとめた文章を書いておいたほうがいいのかな・・・と思って、これから書きます。

『逃げ恥』が教える「自分らしく生きる」の本当の意味

あけましておめでとうございます。昨年の私は普段の仕事的にはそれなりに一歩ずつ経験積んで進歩してこれた感あるんですが、いかんせん本出したりネットに上げた文章が広く読まれて・・・という方向での活動としてはなんだか何もやってないも等しいような印象になりそうで、正直ちょっと焦ってもいます。

ただ今は、焦って本やブログを書いても、よくある「右や左の紋切り型」にしかならない難しい状況に世界がどんどんなっていくなあと感じていて、そうじゃなくて「個別の事例」と仕事で向かいあう中から立ち上がってくる何かを信じて積んでいきたい気分だというか・・・ま、もうこの歳になると自分はマイペースにしか生きていけない人間だってところは骨身にしみてわかっているので(笑)、相変わらずそういうペースで今後もやっていきますので見捨てないでたまに気にかけてやって下さい。

ちなみに、ブログ再移転しました。ブックマークされてる方は変更をお願いします。

新ブログトップページ↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp



で、久しぶりのブログ更新、しかもブログ移転一回目・・・がテレビドラマの話題ってなんてミーハーなって感じもしますが、2016年最大の(たぶん)ヒット作となった『逃げ恥』が超よかったので、年末だしそれについて書きます。

全体的に言って、「自分らしく生きる」っていう現代的に超超超言い古されたことについて、ちゃんと一歩ずつ考えて一歩ずつ実現していかなくちゃね!っていう気持ちになったところが凄く良いドラマだったと思ってます。夫婦で見てて毎週二回は泣いてました。

このブログはそういう方向で、

・『逃げ恥』のどこにこんな感動するのかって話
と、
・それはある種「運命へのニーチェ的向き合い方」なんじゃないかって話(より正確には”一連の実存主義哲学”)
と、
・「他人の人生を生きないで、自分の個別性(自分らしさ)を生きること」っていう「言い古されたこと」を私達が本当にちゃんとやりきるにはどうしたいいのか?
というような話に広がっていく予定です。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。