坂口恭平とグラミン銀行と日本のカイシャを市場原理主義が包含する日。

かなり古参の会員さんが、最近坂口恭平さん@zhtsssという奇人に凄いハマってて、「かなりタイプは違うが、自分にとっては倉本圭造と表と裏、タイプは全然違うが補完しあうような存在」とか言ってたんですよね。

(いや、そんなこと言ったら、彼の熱烈なファンで、僕のことが嫌いなタイプの人は怒るかもしれないけれども、まあ、そう言われたってことですよ。そう思う人もいるってことでひとつよろしく。)

・・・で、ふーん・・・ぐらいに思ってたんですけど、あまりに繰り返し言うんで彼のホームページ行ってアレコレ見てたらパッカーン!!って凄いハマった。

凄い衝撃を受けて、ここ数日で彼の日記とか本とか読みまくった。彼のホームページで公開されてる彼の音楽も凄く良いです。こんなに、音楽だけで「うわ、凄いわかるわ、なんか」って思ったこと無いってぐらいに好きな感じだった。

アナーキスト大杉栄の文章を歌詞にした変な曲も凄い良いし。あと奥さんとの自作曲デュエットとかも凄い雰囲気あっていい。


どの編曲も、リズムとビートがなんか、独特のコダワリを感じさせるっていうか、アコギ一発撮りの裏で鳴ってる細かいダンスビートとか、「素朴なようで俺は素朴じゃねえぞ」って感じで凄い良い。アコギでセンチメンタルな僕ちゃんのハート見せちゃうけど、決して俺は辛気臭い四畳半フォークじゃねえぞ的なダンディズムっていうか(笑)


何より、音楽、文章、アート、活動の全てにおいて、何も考えずにムチャクチャやってるだけの人のように見えて、彼なりに真剣に「考えて」いるし、「生理的なレベル」と「理屈のレベル」とを独自の往復して一つの世界観にまとめあげ、しかもそれを「経済行為」として具現化していくというDIYパンク精神みたいなんが・・・・凄い共感できる。


しかも、僕の場合は今まで色々と「準備」することがあって強く前には出れずにくすぶってた部分があるわけですけど、彼の場合は全然そういうのなしにガツーンと100%全開に突っ走ってる感じが・・・・なんつーか・・・・まあ正直言うと嫉妬したね。そう、これは嫉妬だわ。もちろん尊敬もしてるけど、嫉妬だなこれわ。


てめー、俺だって負けんからな!ちゃんと準備してきた俺の方が、「真剣」に考えてるってことをいずれ思い知らせてやるぞコラ!!的な負け惜しみを(笑)


・・・とか思いながら、彼の「独立国家のつくりかた」っていう本を読んでいて思ったのは、僕は「新しい独立国」とか「ゼロ円生活圏」とかモバイルハウスとか、彼がやってること自体にはあんまり共感しづらい部分があるんだけど、根っこのところの問題意識は凄い共感できるな・・・ってことなんですよね。




彼の仕事は、”いわゆる”「ホームレス(彼は”都市型狩猟採集民”と名付けている)」の人たちの生態のフィールドワークから始まっていて、そこに

「”人間が生きるっていうことの本質”と密接な経済のあり方」

を見ている・・・って感じなんですよ。

要するに、「四角い箱」が全然ない世界じゃないですか。会社という箱もないし契約書もない。「お金」も媒介しない場合が多い。

で、例えば都市のゴミを拾い集めて家建てるのが超得意なオジサンがいて、その人を取材していると、その人は自分の家だけじゃなくて困ってる人の家を次々建ててやるんだと。ゼロ円で。ゴミ(”都市の幸”と呼ぶらしい)を拾ってきて全部作るから材料費もかからないしね。ソーラーパネル(さすがにこれは買うのかな?)と車のバッテリを使って、電化された快適な住居を作れるらしい。

で、そういうことを続けてたらいろんな人が慕って彼の周りに集まり、何か必要なもんがあったら「拾ってきたよ」って言って持ってきてもらえるコミュニティが成立してきてると。

紅茶が飲みたいってなったら紅茶が、肉食いたいってなったら肉が、カラオケしたいなあってなったらカラオケセットが・・・とか言ってたな。

つまり、こういう世界で成立している経済には、

「四角い箱」が全然存在しないから、「ナマの感情の動きそのもの」が「ストレートに具現化」してる

わけですよね。水がその入れる容器に完全に寄り添うように、「真実のニーズ」に完全に寄り添った「供給」が成立している。

それに比べると、「普通の経済」は、

「人間存在の真実的なニーズ」に比べて、「供給側」が色々と不自由

なので、

「四角い箱が全然ない世界」に比べると、「人間にとって不自然なこと」を沢山している

ことになる。

彼はそこに関する「生理的な違和感」ベースで、どこまでも突っ走っていく。で、その「突っ走って行き先」には、ついていけないものも正直結構あるんですが、「原点の違和感」の存在だけは物凄いわかる。

っていうか僕も「全く同じ違和感」ベースで動いていると言っていいぐらいだと思う。厳密に理論的なことを言うと難しいけど、「マルクス主義者」だって基本的にはここの「乖離」が嫌だからああいう活動をしてたんだと思うし。



で、坂口氏は、だからもう「全部拒否っちまえよ」的な方向に行きまくってるんだけどね。

まあ、それは「半分冗談」的というか、「芸術行為」としてやってるらしいので、確かにそういう方向に彼が突っ走っていくことによって「問題の所在」を物凄くクリアーに見られるようになったっていう、

「まさに芸術行為というのはそういうものだな」

っていうだけの効果はあるんだけど。

ただ、僕はね、そこでそっちには行かずに、「トータルなシステム」「資本主義のシステム」自体を、内部変質させていって、「四角い箱が全然ない世界」に変えていけるはずだと思ってるんだよね。

というか、世界が今緊密なシステムによって結び付けられていく流れは、「究極的にはそれを目指しているから起きている変化」だと思ってるからね。

グローバル資本主義っていうのは何かっていうと、結局

あらゆる「四角い箱」をぶち壊して、「”ニーズ”と呼ばれるもの」に主導権を渡していくプロセス

だからね。

この流れが究極的に高度に洗練されていけば、世界全体を一つにした状態での、「ホームレスの経済のような完全な”現実即応性”」を獲得できるはずなんですよ。理論的にはね。

でも、今は全然そうなってないというか、結局「現地現物主義」的に「ホームレスの人の人間関係内で閉じてる」時に比べて、あらゆる「世界中の色んな事情」がからみ合ってくるので、「余計な雑音」が沢山入っちゃってるんだよね。

だから過渡期的には、「そもそも本当にみんなが欲しがっているものではないもの」ばっかりを「ニーズ」として捕捉してしまって、それに無理やり万人を強烈に動員してしまうような世界になっているので色々と問題も起きるんですよね。

でも、それは「システムがまだまだ大雑把すぎる」から問題なんであって、一歩ずつその「システム」をバージョンアップしていって、坂口氏の言葉で言うなら「解像度を上げていく」ことが出来れば、今度は「システム」が「真実のニーズ」を確実に捉え始めるんですよ。

そのためには、

「システムごと完全に拒否する」

んでもなく、

「システム内部でただ飼い殺される」

でもなく、

「とりあえずシステムの運用に参加しつつ、それを内部から一歩ずつ”真実”に漸進的に近づけていく」

モードが必要で、そういう「面従腹背しながら真実の感覚をシステム上に載せていく生き方」として、僕は「PQ的大道楽」っていうのを提起してるんですよね。

で、実際には、自分にはそんな「新しいもの」なんて生み出せると思ってもいなかった50代の技術職のオジサンが、10年弱をかけて新しい環境系の事業を作ったりね、一生サラリーマンだと思って生きてた兄ちゃんが、ある事業で独立してちゃんと食っていけるようになったりね、色々と「今まではありえなかったタイプのパーソナルな価値」を経済に還流していけた事例は積み重なってるんですよ。

で、そういう会員さんたちと作ってきた「PQ的大道楽」の事例や、その実践プロセスにおける注意、その個別の「面従腹背の大道楽」が全体として「原生林のような豊かな経済」に繋がるまでのプロセスについて詳述したのが、「21世紀の薩長同盟を結べ」なんですよね。



だから、「問題意識の根本」は似てるというか「同じ」ってぐらいなんだけど、そこから「突っ走る方向」が真逆って感じだなあ・・・と思っていたんだけど、でも彼の活動が提起してくれる問題は、僕が提起していく方向にとっても物凄い示唆的だなあと思うようになった。

要するに、例えば「住宅メーカーがあるから家を建てなくちゃなんない」けど、次々と「食い扶持」のために家建てまくってるから既に凄い空き家があるし、今後も空き家が増え続けるとされてる問題がある・・・みたいなね。

そういう、結局「供給側が売りやすい(けど人々の集合無意識的に”真実のニーズ”とは言いがたい)領域で経済が行われまくってるので、どんどん「空騒ぎ感」も増してくるし、ざっくり言うとデフレにもなるよね・・・っていう状況なんですよね。

だから、それに立ち向かうには、坂口氏みたいな、「小さい子供の質問」みたいなのを堂々とやるような人が告発する「真実のニーズ」を参考にしながら、「巨大なシステム」を内部から漸進的に「真実のニーズ」に寄り添わせていくことが必要なんだよね。

で、そういう


「システム的なもの」と「ナマの現実そのもの」との間の「すりあわせ」的なことをやることにかけて、日本人は世界一の特性を持っている

からね。

だからこそ、そういう「グローバリズム的システム」と「ローカルの真実的な需要」を発展的に現地現物で両取りしていくようなアクション(グローバリズム2.0と呼びたい)自体を、

「21世紀の日本のお家芸」

にしてしまえば、この20年間ドン臭い何も決められない国として馬鹿にされ続けてきた我々が、

「その悩むことができる性質こそがこれからの成功要因なんだぜ単純細胞どもめ!!」

的な成功の道を歩み始められる端緒となるってわけです。

そういう「グローバリズム2.0=あたらしい愛国心」運動的なものを一体的に唱導していこうと自分は思ってるし、それが共感を持って広がれば、日本経済は「今までどちらにも進めなかった違和感」自体が「圧倒的なコアコンピタンス」になるような幸福な時代になるはずだと思ってます。



で、この話を「一般化」するとね、結局「グローバリズム的システムがもたらしている問題」っていうのは、「グローバリズム的システムがダメ」なんじゃなくて「システムが大雑把すぎるからダメ」なだけなんですよ。

その「システム」が大雑把すぎるので、坂口氏の言葉で言うとなら「匿名的」になりすぎていて、「個々人のアティチュード(態度)」が反映されていない。だから「根源的なニーズ」を捉えきれてないから、次々とフォアグラ作る時みたいにエサを流し込んで「ほらーこういうの食いたいだろおおお食いたいだろおおおおお食いたいっていえよおおお言わないヤツなんか落伍者だぞ生きてる価値なんかねえぞおお」っていう感じになっちゃってるんですよね。

でも、それは「システムがダメ」なんじゃなくて「システムの精度が足りてない」だけなんですよ。

で、僕がいつも思うのは、「アンチグローバリズム的な動き」の「一番高度なもの」っていうのは、むしろ「システムに対抗する新しい価値観を提示」してるんじゃなくて「もっと高精度なシステムを作ろう」としてるんですよね。

これがね、僕が長年わかって欲しいと思って追い続けてきたことなんだと思うんですよ。っていうか坂口氏のアレコレの文章読んでて明確にわかったっていうかね。



例えばね、グラミン銀行ってあるじゃないですか。バングラデシュの。

ムハマド・ユヌス氏っていう経済学の教授が、貧困問題の解決のために、低所得者向けの起業用少額ローンビジネスを始めて、でそれが(少なくともバングラデシュでは)凄い大きくなって、貧困層の問題解決に一定の効果をあげてるらしいんですよね。

で、彼の自伝は超感動的なんでぜひ読んで欲しいんですが、安易な「良いことしてるわあワタシ的自己満足」に陥らないように、ちゃんと「実効性を持って貧困層の問題を解決」していこうとする不屈の精神みたいなんがむっちゃ尊敬できるんですけどね。


で、僕の個人的な意見なんですが、グラミン銀行は、「グローバル資本主義」と「全く違う価値観」を提示してるんじゃないんですよね。


そうじゃなくて、「システム自体の大雑把さが取りこぼしている真実のニーズをすくいあげられる、もっと高精度なシステムを整備した」んですよ。


だから、「マイクロクレジット」自体が新しいんじゃなくて、それが結果として捉えた「真実のニーズ」が「実体経済」上に具現化したから一定の効果があるんですよ。

で、その「今まで捉えられてなかった真実のニーズ」っていうのは、坂口恭平氏がホームレスのフィールドワークで直感して思想の基本にしてる「あのニーズ」なんですよね。

「空き家が既に大量にあるのに次々住宅を着工しなくちゃいけなくなってるギャップ」的なもの。

「四角い箱」に入る前の、「地下経済」的なもの。

「貧困層」って考えると、彼らに「教育訓練」をして「優秀な労働者」に転換して彼らに「雇用されてもらう」ことが必要になる気がするけどそうじゃないんだと。

彼らは近所の人のニーズをナマの感覚として完全に理解していて、それをなんとか補完しようという「自然な気持ちの作用」も既にある。その「自然な気持ちの作用」を発揮する「技」も結構伝統的に残っていたりもする。

ただ、その「行為」を始めるための元手がないのが問題だっただけだったんで、しかもそれは先進国レベルで見ると本当に少ない、数ドル以下の初期投資によって転換できる世界なんだ・・・・

っていう「真実のニーズと現行のシステムとのギャップ」を捉えたから成功したんですよね。



で、だからこそね。結局、「一人目で成功した、二人目で成功した、何百万人で成功した・・・・からこのマイクロクレジットをどんどん普及させれば貧困は根絶する」・・・という風には

ならない

んですよ。と僕はそう思ってるんですよね。もう一段「根底的」な視点を獲得しないと超えられない壁がある。(でも日本人ならそこを超えられると僕は思ってるわけですが)

結局、「真実のニーズとのギャップ」を把握できた分だけ、つまり「システムが高精細化した分」だけ「新しい価値」は生まれるんだけど、そこから先、それを単純に横展開するだけでは、「取りこぼしてしまったもの」が積もり積もって阻害要因になって跳ね返ってくるんで、どっかで進まなくなるんですよね。

で、グラミン銀行の場合に、問題だなと思うのは、あまりに「啓蒙主義的」すぎて、その「啓蒙主義の網目の粗さ」が、いずれ「生きている人間のナマの本能的欲求」に対して抑圧的すぎるんですよね。要するに「共同体の密度感」はあっても「個人の自我」っていうものが抜け落ちてるっていうかね。

最低限の良い家を供給し、最低限の教育を受けさせて、ヘルスケアも普及させて、子供にできるだけ高い教育を受けさせて・・・・的な展開を支えている、凄いネアカな「啓蒙主義的」性質ゆえにね、例えば世代が下って子供が高学歴化してくると「その先の展開」ができなくなったりするんですよね。

要するに、「生活に不満はなくなったが生きてる喜びはなくなった」的な方向にマッシグラに進んでるんで、いずれ「昨日より良いご飯が食べれるようになった!雨露を凌げる屋根ができた!」っていう興奮が覚めてきた時に、そこから先「欲求」が維持できなくなってくるっていうかね。

って別にこれはグラミン銀行を批判してるんじゃないんですよ。っていうか僕ムチャクチャ尊敬してますからね。ユヌス氏は今生きてる人じゃ最高に尊敬してるっていう人たちのうちの一人なんで。

ただ、ある範囲で成功したからといって横展開すればどこまでも行けるかというとそうじゃないってことなんですよね。

それは、「今の成功」自体が、「過去の共同体の遺産としての密度感」を基盤として使って成功しているにも関わらず、そのシステム自体が物凄く「啓蒙主義的」すぎて、その「密度感」を破壊していくから、だから「次の段階」へのジャンプアップができなくなって頭打ちになるんですよ。

結局それは大きく見れば先進国含めてあらゆる国の経済で起きてることなんで、結果として今はどこの先進国の経済も不調、新興国だって、とりあえず「生活に不満はなくなったが生きてる喜びはなくなった」レベルまでの上昇はありえても、そこから先足踏みは必ず起きる風潮にあるわけじゃないですか。

だからこそ、「四角い箱」をさらに「真実のニーズ」に近づける「より一歩高精細な経済の見方」が必要だし、それは「アンチ・システム」というよりは(たとえそう見えたとしても)、「システムの高精細化」によって実現されるはずなんですよ。


坂口恭平氏のアクションも、「アンチ・システム」のようで、「システムの高精細化(のための先行実験)」みたいなものだと思うんですよね。



で、そのギャップを内々に吸収して昇華するヨリシロとして、「日本のカイシャ」ってのは凄い可能性を秘めてるんですよ。市場原理主義的な立場からそういうのをネコソギ「ぶっ壊してしまえ」主義者の人は、そこを「もう一歩注意深く」見て欲しいんですよね。

っていうのは、これから先の「新しいニーズ」を掘り起こすには、「アメリカの意識レベルの網目」よりもさらに「高精細」なことをやらなくちゃいけないわけですよね。

アメリカ人が明晰な論理でパッキリ捉えられる、グーグル的なレベルの起業行為・・・が「取りこぼしている世界」に入っていかないといけないんですよ。

で、難しいのは、「アメリカ人が得意とする領域」までだったら、「世界最強の学歴社会」が末端まで行き届いているガッチリした存在感の中で、

「マットウな試行と、無茶な試行」をちゃんとより分け

て、「マットウな試行」に資金その他の社会的パワーを注ぎ込むことは可能なんですけどね。

そこよりもさらにカオスな領域、「ホームレスの現地現物性」に近い領域に入ると、「共有できるガイドライン」が一気になくなるんで、「意味あることを選び出す」のが凄い難しくなるんですよ。

それには、ある程度共同体の密度感をベースに、共有できる空気を増やして対応することが必要になるんですよね。

で、自動車とか重電分野とか産業器械とかね、そういういわゆる「すり合わせ」的なことが必要な領域で日本が強いのは、その間のコミュニケーションコストをうまく「集団の空気」でショートカットしてるからなんですよね。

で、「学歴的に頭いい人」とか「海外で活躍してる日本人」とかは、そういうのを「全部前時代的」と切り捨てたい気持ちが根強くあるんですけど、そういうのは、結局「アイコンタクトで済むところに余計な客観性を持ち込む」ことになるんで、誰のためにもならない非合理なことなんですよ。

だからといって日本のカイシャが今のままでいいというわけではないんですが、要するに大事なのは、「必要性があってそうなってる部分」をちゃんと「壊されずに残る」ような配慮を真剣にやれば、「壊すべきものは壊したい」っていうのはどんな日本人だって思ってるんだってことなんですよね。

だからこそ、「ナアナアの集団主義をぶっ壊してシステム的なものに置き換えたい人」vs「伝統墨守主義者」みたいな対立じゃなくて、「より高精細なシステムを導入するようにしましょう」っていう方向に一本化していくべきなんですよ。

そしたらね、新興国では固定電話が整備されるよりも先に携帯電話が整備されるから一足飛びに新しい世界がひらける・・・・・みたいな感じで、「アメリカみたいに隅々まで”意識化”してしまった国にはできない、”より一歩先の高精細な視座”から経済を立ち上げられる国」っていうような、「自分たちの根本的性質ゆえに可能となる”出し抜きの戦略”」が取れるんですよ。



で、これは「一企業内における優秀性」の問題だけじゃないんですよね。社会全体の「貧困の総量」みたいなのとも凄い関わってくる問題なんですよ。

僕のプロフィール欄の、マッキンゼー辞めてからの「わけわからん領域」に書いてある色々をやってる時に、そういうことを凄い考えたんですよね。

例えばちょっと詐欺っぽい値段だなあという浄水器を売ってる訪問販売会社に、リクルートの就職情報誌から応募して働いてたこともあるんですけどね。

毎日夜にゼンリンの地図のコピーを切り抜いて、各自の「持ち場」を決めて、「じゃあ明日は八尾の方行くかー」つって車に分乗して現地に行って、車止めて昼に解散、訪問販売やって、夜にまた車に集まって帰る・・・みたいな。

それこそ「ノマドってこれか」みたいな感じですけど(笑)

そこのヤンキー社員さんと話してて、「ちょっと詐欺っぽいよね」っつったらめっちゃケンカになってね。「喜んでくれているお客さんがいるんだから詐欺じゃない」とかね。深夜の大阪の下町で殴り合い的な。

で、実際に、親が子供の頃に失踪して色々苦労して育ったオッチャンが、子供育てるために必死になってやってる仕事がそれだったりするとね、「この経済が成立することは是か非か」っていうのは物凄い難しい問題になってくるわけですよ。

色々のカルト宗教団体だってネットワークビジネスだって同じ問題なんですよね。彼らを断罪するのは簡単なんだけど、結局そういうのは、

「真実のニーズ」と「四角い箱」との間のギャップを繋ぐために無理やり生成されている調整弁

なんで、

「誰にも文句を言われないタイプのニーズで食い扶持を得られてる人」は彼らに感謝しなくちゃいけない

ってぐらいの「全体の連環」はあるんですよね。



で、想像実験的な話として、「貧困」層が物凄いただ「アクティブに仕事するようになる」と、こういう「グレーゾーン」的な領域の「活動」が物凄い増えるだけに終わるんですよね。

でも一方で、「規模」的には全然なんだけど、「本当に意味あることをしよう」っていう試みも凄い世の中にはあるんですよ。NPO的なとこでもそうだと思うし、それ以外にも小さいけど真剣にやってる人はいる。

大量生産品にはない特殊なパーソナルな価値を込めたような商品を作ろうとしている人たちとかね。

本来は、その「グレーゾーンの量的盛り上がり」に使われている社会的エネルギーが、「今は規模が小さいんだけど本当に意味あることをしようとしてる人達」の領域に「つけかえ」られるような「全体の風潮転換」が必要なんですよ。

そのためには、ただ「アニマル・スピリットを刺激しよう!」とかじゃダメなんですよね。むしろそういうところに多少の「抑圧力」がかかるのは良いことなんですよ。

で、「規模的に小さくなりがちな、真剣な活動」を、社会全体でサポートできるようになっていくことが必要なんですけど、そのためには相当な「密度感ある連携」が社会全体で必要になってくるんですよね。

つまり、「社会的な真っ当さを維持している領域」から「完全に切り離された」ところでいくら「アニマル・スピリット」が盛り上がっても波及効果が凄い少なくなるんですよ。

そういう「詐欺的な商売」や「カルト宗教的なもの」が際限なく大きくなってしまうわけにはいかないんで、その「勢い」をブレーキするような立場の人が必要になる。その結果、自分を「貧困」状態におくことによってその行為が社会全体に拡散しないようにする「役割」を負う人が大量に生まれるんですよね。←実はココが「貧困」ってものの根本原因だと、色々見てきた体験を総合した結果私は思ってるんですよね。

だからこそ、社会全体で「PQ的大道楽」的なサブシステムを動かしていって、「本当にやる価値あること」っていうのを注意深く共有していく「風潮」を作っていかないといけないんですよね。

で、「今の日本社会の煮え切らなさ」は、その「選びとる機能」を担っている「空気」が、間違った方向に暴走してるから問題になってるんですよ。

「空気から逃げる」んじゃなくて「空気」を適切に使うようにしないといけない。

今の日本の硬直化したシステムが、「崩壊していく」「一回リセットする」方向に行くのは避けられないんですが、その時に、「ただぶっ壊れるだけ」に終わるのか、「サナギが蝶になる」ような転換になるのか・・・・つったら大違いなわけでね。

日本の「カイシャ」の、「国際派から見ると面倒臭い部分」には、必ずその「一段上に人間社会を進化させるための種子」があるんですよ。

その「種子」のまま放っておいて、それを抑圧して生きてたら、「もういっそ全部捨ててしまおうぜ」ってなったほうが楽・・・って気分になるのは当然なんですけどね。

でも、そっちの方向に行ったって絶対シンガポールやアメリカに勝てないですからね。

だからこそ、「両取り」する方向に、明確に舵を切らないといけないんですよ。そういう方向に行かないと、「改革」だって決して最後までは進まないですからね。

で、そういうのは「市場原理主義的なシステムの運用をウヤムヤにして曲げる」ことではなくて、「より高精細な原理主義的システムを導入する」ことなんですよ。

最終的に、「生きている個人」が「不必要な抑圧を感じずに、自分の根っこの自然な気持ちに載っかって生きられればいいね」っていうのがゴールですからね。

「現状必要だから残っている密度感」を「ぶっ壊すこと」だけを目的に動いたら絶対ダメなんですよね。



坂口恭平氏の色んな活動を見てて、そういうことを考えました。

彼がこのまま突っ走っていってくれることは、「そのこと自体」の価値は正直よくわからんけど、でも「自分たちの本当の感覚」を明確に見せつけてくれる「芸術行為」としては凄い可能性があると思います。

でも、できれば彼にも、「同じ問題意識ベースで、逆側に走っている存在」を知って欲しいってわけで、「21世紀の薩長同盟を結べ」読んでくれたら嬉しいなーと思ったな。

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