コンサルに出来ること、できないこと。(とその先を掘るための構造変化)

数日前に、@kotosakaさんという、経営学者さんがツイッターで言ってて知ったんだけど、政府のクールジャパン構想には毎年外資戦略コンサルが入ってかなりお金を取っているらしい。

平成23年度(2011)はローランド・ベルガー→「報告書PDF」
平成22年度(2010)はATカーニー→「報告書PDF」

で、報告書読んだんだけど、ATカーニーの方は「・・・・」って感じだったけど、ローランド・ベルガーの方は、「報告書の内容自体」は悪くないんじゃないかと思った。

コンサルとしてできたこととしては良い方なんじゃないか・・・と思ったけど、でも、結局その「壮大な計画」を「誰がリードして実行するんだ?」ってなると、日本の場合物凄く難しくなるんだよな。

ちょっと色々と思ったことがあって、それが今書いている本にとっても大事なポイントになりそうなので、覚書的に書いてみようと思う。

テーマは、「コンサルにできること、できないこと」かな。




コンサルは属人的な仕事なんで、今回ATカーニーの報告書がイマイチだと(少なくとも僕はそう思うわけだが)しても、それが事務所全体がダメってことでもないし、ローランド・ベルガーの報告書は結構いい(と僕は思うわけだが)としても、事務所全体が良いってわけでもないというのは一応知っておいて欲しいんですけどね。

ついでに言うと、「そのプロジェクトをやった人」ベースで見ても、たまたま色んな事情でうまくいかなかっただけかもしれないし・・・・っていうのもあるんで、あまり固有名詞と紐付けて考えないで欲しいんですが。プロジェクト取っちゃったら、やっつけ的になっちゃったとしてもそれっぽくまとめて「納品」しなくちゃいけない大人の事情とかもあるわけなんで。

ただ、22年度の報告書は、良くないと思うんですよ。僕はね。

外資コンサルの報告書の「良くない例」はまさにこんな感じになるんだよな・・・っていう感じで。

要するに、世界を網羅的に見て色んな事例を後付けに解説してみせるんだけど、

「なんで(例えば)ディズニーにできていて日本にはできてないのか」

っていうところが全然掘り下げられないんだよね。

で、それを「日本人がバカだから」「日本人が努力不足だから」的な、なんかそういう感じで「やれてない人間の責任」にしちゃう感じなんですよ。

だから、「色んな事例が次々出てきて脅しにかかってくる」ような報告書になるっていうか。「こういう事例もありますよこういう事例もありますよ。あそこはこうやってますよ。あなたたちやってないですよね」みたいなんになるんですよ。

で、そういうのは絶対良くないです。ほんとに。もうこれは大前提として「こういう報告書」を書くようなコンサルは消えていって欲しいと思うぐらい良くないです。まあ、「努力したけどそうなってしまった」っていう例だってあるでしょうから、この報告書を書いた人を悪く言いたくはないんですけど、一般的な話としてね。

そもそも「今やってる既存のあり方」苦労しながら培ってきた存在に対する「敬意」がないのが感情的に許せないしね。

「成功している事例」は「その成功している存在の元々の性質」と凄い合致した「オリジナルなあり方」をゼロから立ち上げてるから成功してるんですよ。

で、その「成功してる存在じゃない自分たち」が、どうすればいいのか?ってなった時に、一番深く掘り下げられるべきことは、「成功してる事例に簡単には乗れてない自分たちの事情」の方なんですよね。

で、その「事情」の方には必ず「長所の裏返し的短所」みたいな性質があるので、そこをそれこそ0ベースに考え直すところが始めないといけないんですよね。

結局「世界のどっかの成功事例」に後乗りして「なんであなたがたはアレみたいにできないの?」って言って終わりみたいになるのはね、意味が無いだけじゃなくて、「本来あるべき一貫した逆張り」ができなくなるっていう意味では「凄い邪魔」になってさえいるんですよ。

アメリカのこの会社はこういう理由で成功している。日本にいる自分たちはこういう理由でそれができない・・・・の、「後に続く部分」が大事でね。

そこから、

でもその「できない理由」の中に「こういう強みの裏返し」的な問題があるから、だからそれを逆手に取って「この方向」を一貫して押し出していけば、アメリカのこの会社にはできないことができるはずだ・・・・

っていう風な展開になってないのはね、ほんと「見た感じ頭良さ気な根性論」でしかないんですよね。

企業でコンサル使った人が、こういう「見た感じ頭良さそうな根性論的報告書」を貰ったら、ちょっと怒ってもいいというか怒るべきだと思います。でも、「こういう形の脅しが効いた報告書」をプレゼンされるとね、それに対して感情的に反論したりすると、「グローバリズムに対応できない頭固い旧世代の遺物」扱いされちゃうしね、だから凄い難しいんですよね。



で、一方で、23年度の報告書は、「コンサルとしてできること」としては結構良いんじゃないかと思ったんですよ。

全体として、「散発的な個人プレーばっかりになっていて相互の繋がりがないからダメなんだよ」っていうようなメッセージね。

だから、韓国みたいな感じで、「ドラマみたいなコンテンツ・ビジネスと家電会社みたいなのが連携してパッケージで売り込めるように持っていくべきだ」とかね。

で、そういう連携をしながらこれから攻めていくべき国について、有望な国を列挙していって、その個別の国において解決されるべき、国が補助できる内容についての示唆をあげて終わっている。

で、こういう、

「網羅的に見ることによって、単発で終わっている事例を横に展開したり、取りこぼしを防いでキッチリ取っていったり」

っていうのが、コンサル的方法論でできる

「最大限のこと」

なんですよね。

とはいえ、そういう「横展開や取りこぼしの防止」って、うまくやったら物凄い数字の積み上げに繋がるからね、だから結構大事なことではあるんですよ。

まあ、結局こっちの報告書でも、”出来ない理由”を心底掘り下げられているとは言いがたいんですけど、それでもね。



ただね、これを本当に実行しようとすると、「物凄い強烈なリーダーシップ」が必要なんですよね。

個別の動きをガッと掌握して、「お前らこうじゃあああああ」っていうような動きが必要になってくる。

日本には今「それ」がないからね。だから、こういう報告書が経産省に上がってきたからといって何が出来るわけでもないんですよ。

で、どうしたらいいのか?っていう話なんですけどね。

それには、もっと大きな「構造的な問題」に対して立ち向かわないといけないんですよね。

結局、そこをなんとかできない限り、そもそも「みんなが心底世界に売っていきたいと思えるコンテンツを生み出す力」みたいなのは決して生まれないし、どんどん「集団の密度感」が個人主義者によって掘り崩されていけばいくほど、そういう「そもそものパワー」はさらに減衰しちゃうわけですからね。



その「大きな構造的変化」ってなんだ?というのは・・・まあ、このブログや僕の本を読んでくれた人には、もう何回言うねんぐらいの感じになってきてますけど、もう自分はこれを提示してムーブメントにしていくことに人生賭けてるんで、もうずっと言っていくわけですけど。

良く、日本の製品、特に消費財は、国内の特殊な市場に特化しすぎていてグローバル展開できないが、韓国は国内市場が小さいから、はじめから国外展開を視野に入れた開発をしているから身軽である。だからどんどん世界中で活躍できてる。・・・だから日本はダメなんだ・・・・

みたいな紋切り型の批判ってあるんですけどね。これは2つの理由で良くないんですよ。

1つは、単純に、日本企業にとって国内市場っていうのはある程度「楽」な市場なんで、その「楽な市場」の分を取り込まないなんて選択肢はそもそも合理的じゃないってことね。

「外に打って出なくちゃいけない」からといって「内側を捨てなくちゃいけない」なんてことはないんですよ。

で、なんか「両方やればいい」話なのに、この問題を論じる人は「外に出るべき論者」は「国内市場で食ってく存在を無闇にバカにする」しね、逆に「内需主義者」は「外に売っていこうってヤツを売国奴扱い」みたいにしちゃうんですよね。

だから、「国内市場に強いってのは大きなアドバンテージなんだ」っていうことを、そもそも否定するようなのは良くないんですよね。

問題は、「国内向けに集中しすぎる」あまり、「国際的な市場とあまりにもかけ離れた方向の開発」をしちゃうことで、「国外で活躍できなくなる」っていう点だけなんですよね。

だから、その「点」さえうまく回避できればいいんですよ。



で、「国内の事情」から離れた位置にいる、国際的な立場の日本人はね、正直言って日本国内のアレコレの事情とかが心底面倒臭いと感じていることが多いんでね、だから韓国みたいなモデルで決着できればいいなと思ってるんですよね。

もう「国内の事情」とかネコソギになってもらって、「グローバルな論理」だけでサクサク物事が進んだら身軽でいいのになあ・・・と思っている。

でも、そうすると、日本の「本当の強み」みたいなのも失われるんですよね。そこが2つめの大問題なんですよね。

「グローバルなシステム」に「載り切らない部分」をどうやって活かすのか・・・っていうのが日本の強みなんで。

消費財部分で負けていても、産業財部分で充分強いのは、結局そういう「グローバル人間にとって面倒くさい領域」でミッチリ突き回せる余地が残ってるからなんですよ。

で、社会全体の治安やら安定感が崩壊せずに保たれているのも、その「グローバル人間にとって面倒くさい領域」によって実現されてるんですよね。

だから、「国内市場での展開」と「国外での展開」を、「有機的に結びつける」ってなった時に、「国内の事情を完全に無視できるようにする」ような方向での改革っていうのは、「本当の強さの源泉」を失ってしまうわけなんですよね。

そもそも、過去20年間に、韓国やシンガポールに出し抜かれながらダメ経済扱いされ続けてきたのはね、その「シンプルなシステム」に「乗らない部分」を「捨てずに来た」からなんですよね日本は。

だから、その「荷物が多い国」ならではの価値っていうのを、これから一貫して出していかなくちゃいけないわけなんですよ。

そのためには、一個前の記事で書いたように、「グローバリズムシステムと、ナマの現実そのものとの間のすりあわせをやる巨大な実験場」みたいなのに「日本そのもの」を変えてしまうことが必要なんですよね。

「グローバルな課題」を「生身の身体内」で受け止めて、でそこにオリジナルな「提示」をしていくポジションというかね。

要するに「生身の身体的現象」が「グローバルな課題」と直結するように持っていく構造変化というか。



で、「抽象化されすぎたシステム」に生きづらい思いを持ってるのは、大枠で言えばアメリカ人ですら一緒ですからね。

それに、「抽象化されすぎたシステム」が暴走するってことは、さっきのコンサル報告書みたいな「他人ごとな仕事」をサクサクこなす人間に過剰な権力が渡されるってことですからね、結局世界中で「深い部分からの根深い需要」みたいなのはスカスカになってきてるんですよ。

だからこそ、その「抽象化されすぎたシステム」を、「補完するムーブメント」を、「システムと混在」させるように持っていくことが必要なんですよね。

そうすることによって、「システムの運用のスムーズさ」と、「抽象化以前のナマの人間ベースなこと」が常にフィードバックされることによる「力強い経済」が生み出される。

そういうのが、自己紹介ブログ3連作で書いたような「原生林のような経済」ビジョンだし、「21世紀の薩長同盟を結べ」なんですよね。



で、最初のコンサル報告書の話に戻るんですが。

日本の今の「海外展開」がうまく行ってない理由の根底的なところにはね、「自分たちが自分たちがやってることに納得してない」ってところ、実はかなり大きいと思うんですよね。

自分たちが「国外派」「国内派」的に引き裂かれた状態にいるんで、「我らがヒーロー」的なまとまり方が難しくなってるんでね。

「国際派のヒーロー」は国内派から見ると個人主義的すぎて「みんなの思い」を全然引き受けてくれないしね。一方で「国内派のヒーロー」は、いかにも「自分たちにだけ通用する昔の権威」に引きずられてたりするしね。

そうやって分断されてしまった「磁場」の1つ1つの中で育った、「物凄く一部の人だけのヒーロー」が「日本代表」的に外に売っていこうとすると、「なんであいつが」的に一斉に足を引っ張る的なところがあるわけなんで。

そのへんが、「一致して売り出せない」ところにつながってるんですよね。

で、それは「生きている磁場」が大きく分断されてしまっているので、「それぞれのヒーロー」ができちゃっている混乱とも言えるんですよ。

だから、「グローバリズムを受け入れ切りつつ自分たちらしさを生み出す調和」が、「原生林的な豊かさ」の中に包含できればね。

その「提示していくべき世界観」と「自分たちが生きている生身の今」がぴったり合致してきますからね。

そこから生まれてくる「文化」「製品」「価値観」はね、「そりゃーこれは売りだしていかないといけないでしょ」的な、「納得感」が宿りますから。

「納得感」だけじゃなくて、「グローバリズム最前線的な意味での喫緊のテーマ性」さえ帯びてくるようになりますからね。

そしたら、「取りこぼしをなくして網羅的に売り込む」とかもね、充分可能になるんですよね。

むしろ日本は、「これを売っていってもいいのか、その価値があるのか」についての「自省心」が世界一ある国ですからね。

だからこそ、「自己納得」がバシッと出来る情勢が先に出来れば、そこから先の売り込みは物凄いスピードで進むはずなんですよね。

そういう国に、していきたいと思います。はい。

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