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「みんなの重み」から逃げない方が楽になれるとこあるかもね。個人主義者だからこそ。

「今の時代の普通」じゃない、個人の奥底からのものを時間をかけて具現化しよう!!!・・・・っていうような活動をやって、その「まだ形になってないものを引き出そう」的な動きをしていると、「際限ないな・・・・」っていう気持ちになる時があるんですよね。

で、今までに確かに形になった、「最初はありえないとみんなに言われたエコ系新事業」とか、「物凄い売れるようになった営業ウーマンさん」とかさ、それらは、最初の段階で「否定」してたら具現化しなかっただろう・・・・っていう問題があるからね。

だから、「できるだけ否定しないようにしよう・・・・」って思って色んな会員さんと向き合っていると、「いやそうは言ってもな・・・」っていうケースもかなりあったりして。

今の時代、「成功哲学」というか「成功をイメージすれば何でも叶う」的な夢を売る仕事をしてる人ってかなり多いから、それをホントそのまま真に受けて、「物凄い巨大な野望」を、結構地味な感じで毎日生きている人が密かに抱いていてビックリしたりする・・・・ってことは実際かなりある。

で、まあ、そりゃあね、僕だって全てを見通せるわけじゃないから、それが不可能だとは誰にも言えないわけですけど、それにしたって・・・・というケースも結構あって、それに対してどういう「態度」を取るのか・・・ってのは結構難しい問題で。

それ自体ほんと色々と考えることはあったんですが、最近はある程度「突き放す」ことができつつあるような気がする。


最近思うのは、「世界の中の、歴史の中の今の時点での、”個人”としての唯一性」みたいなものを、みんながみんな具現化しようとするとかなりツライ部分があるってことなんですよね。

って当たり前なことを言っているようで、でも世の中には↑かく↑あるべし・・・・という「推奨」どころか「抑圧」がかなりかかってるところが実際にはあるんだよね。

で、「人には言えない俺様の野望」みたいなのを内心巨大に育てている人が結構いるかと思えば、その人たちをバランスするために、逆に物凄く「現実主義的に」というか、とにかく毎日「決まったことを決まったようにこなす」だけで終わってしまう人が沢山いたりする。

なんか、もうちょっと「間」がなきゃオカシイだろ・・・・というのはずっと思ってるんですよね。

「世界の中の、歴史の中の今の時点での、”個人”としての唯一性」

までに「大上段」なことは手に余るって人は多いんだけど、でも、

「この地域に生まれて、こう育って、この会社で働いている自分なりの唯一性」

ぐらいだったらかなりの人に具現化可能なんですよ。

いわゆる「自己啓発」とか「スピリチュアル」的な本って、結構その内容自体は僕は好きなんですが、ただそういう本って物凄く「抽象度が高すぎる」ものになりがちですよね。

そういうコンテンツの作者っていうのは、基本的に「個人」で仕事をしている「芸能人的なビジネスモデル」の人なんで、それでもいいっちゃいいんですが、それを「受ける」方は大抵組織人なんで、なかなかそういうわけにいかない。

そういうコンテンツで扱う「その人」っていうのが、

「世界の中の、歴史の中の今の時点での、”個人”としての唯一性」

って感じにどうしてもなっちゃうんですよね。

で、そういう方向に引っ張れば引っ張るほど、「もっと単純に目の前のことに集中できた方が人生ラクだったんじゃないのかな」っていう人を、「答えの出ない探求の袋小路」へと追い込んでしまってる部分があるんじゃないか・・・・ということを、特に最近よく考えます。

「自分探し」的な方向性を押し出していくことは、歴史の不可避な流れだと思うんですが、それを「適切な範囲」に集中できるように持って行ってあげる、それが「逃げ」だとか「諦め」に感じさせないような相互理解の仕方がもうちょっとあったほうがいいよね。

そうしないと、「かなり非現実的な自己探求」と、「全然工夫も何もない仕事」が凄い分離してくるっていうかね。

本当は、その「工夫も何もない仕事」の部分に、もっともっと「工夫と広がり」を入れ込めるはずなんですよね。

今、「個人の中で、過剰なスコープの中で無制限に拡散しちゃっている自己探求の問いかけ」が、「具現化可能な範囲内」において、

「自分と自分の身の回りにあるものをもっとこう活かせたらいいんじゃないか」

っていうような探求に誘導できたら、色んなことがうまく行き始めるんではないかと、思う。


って、最近の自分は、単純な意味での「個人主義者」的な思想傾向からすると凄い「嫌ぁな」ことばっか言ってるんだけど(笑)

でもまあ、自分的には今まで結構頑張って「あらゆる人の個人の奥底の可能性を」っていう方向で活動してきたわけで、でもその結果として、「ある程度の枠組みを与えてあげたほうが具現化しやすいんだな」っていうことを色んな場所で痛感してきたから言ってるんですよね。

本当の意味で、「あらゆる個人の可能性を使い切る」には、そういう方向への誘導がむしろ必要なんだな・・・というように考えるようになったというかね。

物凄く抽象度の高い「個人」を生きる人だって当然いるはずだし、そういう人が生きていくべきスタイルだって世の中に存在するべきだと思うんですけどね。実際僕はどう頑張っても組織の中では生きていけないタイプの人間だなと自分で思っているので。

でも、「組織」から別に離れる必要もない人まで「個人」であるように追い立てる必要は全然ないな・・・というのは、もう6年ぐらい今の仕事をしていて思うことなんですよ。

で、

「物凄く抽象度の高い、ある程度非現実的なまでの”個人”であることを煽る言説」


強すぎる

ので、

それで「崩壊されつくしては困るものを守るための社会の本能的防御反応」

ゆえに、逆に

「物凄く抑圧的」になってしまっている部分が社会のアチコチにある

と思うんですよね。

「熱い」となったらヤケドするほど熱いお湯しかないから、逆に氷水を大量に用意しなくちゃいけない・・・みたいになってるんじゃないかと。


かといって、いわゆる「与えられた場所で精一杯咲くのが人生なんです一切文句言うな」・・・・とまでは言わないけどさ。

まあ、適切なバランスがね、必要だなあと最近思っているところです。

「抽象度が高すぎる”個人”」を生きなくちゃいけないと煽りすぎて、みんなが「自由からの逃走」をしてる・・・・とか、「別にそこまでせんでもいいってことなんじゃ?」って思うわけなんで。

問題は、「ムチャクチャだろうとなんだろうと”個人”として生きてる人の方がカッコイイ(ように見えがち)」って部分だけなんでね。

もうちょっと適切な、「組織と個人の自由な関係」が生まれてきて、「ただ忍従して何かをこなしてるだけじゃなくて、面従腹背しながら色々考えてやってる」・・・っていうあたりの「大道楽」がメジャーになれば、「非現実的なまでの自己探求に苦しむ人」と「ただただ言われたことをこなしている人」との両極端になってしまいがちな現状の、「本来あるべき姿」が見えてくるんじゃないかと思っているところです。

って、そんなん当たり前???かもしれないが、しかし、自分みたいな方向性の仕事をしてると、ある程度「無責任に煽る」方向に行かないとビジネスが成立しない・・・・的な部分もあってずっと悩みだったんですよ。

まあ、そこの「適切に突き放すバランス」がやっと自分としては見えてきた感じがしてるかなと思ってるってことかな。それをどんどん売っていっても責任を感じられるような。


最後にちょっと関係なさげな話なんですが、ドイツ圏出身で、ロンドンで人生終えた人物って、その内容に同意とかじゃなくて「キャラ」として好きな人が多いなって昔から思っていて。

ウィトゲンシュタイン、マルクス、作曲家のヘンデル・・・とか。あれ、こんだけだっけな?もっといたような気がしたんだけど。

どの人もね、なんか・・・・

「この範囲で終わるのがフツーでしょ」ってところで終わらない暴走感

があるなあ・・・・と思っていて。

なんかさ、ドイツ人って、色んな意味で「”みんな”への責任感」みたいなのが消えてない国だと思うんですよね。ヨーロッパでは一番。

そのへん、僕ら日本人にもちょっと「近い感覚」があるっていうかね。純粋に個人主義的になれる国と比べるとってことなんですが。

で、そういう「みんなへの責任感」って、今の時代、「邪魔」なことが多いじゃないですか。もっと身軽に個人主義的に生きられればいいなあ・・・・って思っちゃうんだけど。

でもね、「みんなへの責任感」が「ほとんどない国の人」と比べたら、よっぽど個人主義的な日本人ですら相当大きな「荷物」抱えて生きてますからね。

で、そういう「みんなへの責任感」から、「逃げ」ようとすればするほど、結構むしろツライって部分があるんじゃないかと思うんですよね。

とはいっても、あまりに深刻にあらゆる活動について義理を感じまくって、ご飯じゃなくてパン食べてたら俺は非国民なんじゃないか的なこと考え始めたらもう気が狂っちゃうんで、ほどほどにはしつつ。

ただ、ある程度大きな視点で自分の人生を把握する時には、「みんな」への義理感を感じる自分のナチュラルな性質から「逃げない」方が、自分としても気持ちがスッキリするんじゃないかと最近思っているんですよ。

で、「ロンドンで爆発したドイツ系」の人たちはね、その「みんなへの義理感」から生まれた「感情量」があるからこそ、「行動の自由」を得た時に「どこまでも暴発」できたんだと思うんですよね。

もっと端的に「個人主義的」であることを認められる国では、そこまでの「感情量」が溜まってこない・・・っていうか。


で、「行動」においては、「できるだけ個人主義的な国のモード」にどんどん合わせられていくのが今の時代なんで、ドイツ人がロンドンに移住させられるみたいな現象があちこちにあるってことですからね。

その時に、「まわりに生きてるイギリス人みたいに身軽に生きたいなー」と思っても、「もともと身軽に育った人」の真似しようとしても、ちょっと無理があるというか、結局気苦労をしょいこむところがあるわけで。

そこで逆に、「この”みんなへの責任感”は、気持ちの密度を作ってくれるんだ」っていう風に考えて、で、その「気持ちの大きさ」を、削り落とさずにそのまま「自由な行動の場」にどうやって流し込めるかな・・・・っていうことを考えた方が楽になれるところがあると思う。

なんか、もう開き直って「そういう方向で行こう」って決めないと、どうも心のどっかで「日本人って嫌だねえ」って自分で思いながら生き続けちゃうところがあると思うんだよな。

日本人として育っちゃった自分として、「押し付けられた愛国心」とかじゃなくて、「自分に生まれて良かったと思いたい」というような自然な欲求の発露として素直に生きられるようになるには、「みんなへの義理」みたいなのから、「逃げないぞ」「利用するぞ」って思った方が楽なところがあると思う。

とはいえ、あまりに普段の行動をガシガシ縛ってくるような人とは距離を置かなくちゃってところがあるんで、「今の環境にどうしても耐えられない」っていう人はいつでも逃げ出して良い・・・ってのは大前提にしなくちゃいけないというのはありつつもね。

そのへん、色々巧妙に立ち回りながら、「ロンドンで爆発したドイツ系」みたいな感じで、「グローバリズムの中で爆発するニッポンジン」でありたいと思うし、そういう方向の「あり方」が広がるように持って行きたいと思っている。

なんせ、「個人主義者」にとっては、「みんな」に常に監視されてるような気分で生きるのが一番嫌だからね。むしろ「俺はみんなのために今こうやって生きてるぜ!」って思っちゃえた方が「義理感」が消えて、「本来の個人主義者的身軽さ」が持てるとこあるんじゃないかと思う。

「分離されたただの個人」じゃなくて、「”みんな”に背中押してもらってる(つもりの)個人」みたいな。

で、そういう生き方が増えていった方が、社会全体の「余裕」が生まれてくるので、むしろ「”ガチの変人”に対する許容度」も圧倒的に上がってくるはずなんですよ。

もうどう頑張っても「組織」とは相容れない「徹底した変人」には、そういう人なりの「最適な器」を用意できる・・・・・そのためには、「別に組織人でもやっていける人」に、「無理やりな大きな問い」を与え過ぎないってことが、逆説的なようで必要だと思う。

そのあたりの「すれ違い」が交通整理できれば、どんな個人も「無意味に抑圧されてる」と感じずに済むような、しかも「それぞれの可能性がちゃんと使い尽くされてるなあ」という感じの達成感が社会に満ちているような、そういう日本になっていけるはず。

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ちなみに、ブログ再移転しました。ブックマークされてる方は変更をお願いします。

新ブログトップページ↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp



で、久しぶりのブログ更新、しかもブログ移転一回目・・・がテレビドラマの話題ってなんてミーハーなって感じもしますが、2016年最大の(たぶん)ヒット作となった『逃げ恥』が超よかったので、年末だしそれについて書きます。

全体的に言って、「自分らしく生きる」っていう現代的に超超超言い古されたことについて、ちゃんと一歩ずつ考えて一歩ずつ実現していかなくちゃね!っていう気持ちになったところが凄く良いドラマだったと思ってます。夫婦で見てて毎週二回は泣いてました。

このブログはそういう方向で、

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というような話に広がっていく予定です。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。