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逆境にめげないリアル本屋さんとリアルCD屋さんの、矢沢永吉氏的「ダサかっこいい」可能性について。

365人の本屋さんがどうしても届けたい「この一冊」

っていう本がミシマ社という直販で有名な出版社から出ていて、これは文字通り全国の365の本屋さんの店員さんに、その人が一番オススメしたい本を、自筆のPOPとともに一ページずつ紹介してもらうという本なんですが。

旭屋カルチャースクエアイオンモール鹿児島店の、南信行さん

に、「21世紀の薩長同盟を結べ」を推薦いただきました。

おおおお。

ありがとうございます!!

この本、鴨長明の「方丈記」とか「キャッチャー・イン・ザ・ライ」みたいな東西の「ザ・古典」みたいなのがあるかと思えば、三浦カズ氏の「やめないよ」って本とか、絵本「100万回生きた猫」があったり・・・・とか、いや実際に見てるともっと「色んな本があるなあ」って感じなんですが、とにかくジャンルレスでかなり熱い「手書きPOP」と「推薦文1ページ」が載っていて、なかなかおもしろいです。

そういう一覧の中に自分の名前と本の題名が載ってるってのも、ちょっとくすぐったい気持ちもありますが、とにかく選んでいただいて、ありがとうございました!

っていうかね、まあ、推薦いただいたから言うんじゃないですけど、リアル本屋さんて良いですよね。

神戸滞在中に、昔よく行ってた三宮のジュンク堂を何回かブラついたんだけど、最近はあんまり書店に行ってなかったので、凄い新鮮でした。世の中面白そうな本がいっぱいあるなあ・・・と思った。

ゴッソリ買ってしまって、重っ!と思いながら帰ったし。

恐らくもう相当言い古されてるツキナミなことを言わせてもらいますけど(笑)、やっぱある程度以上に大きな本屋さんって、普段の生活じゃ出会わないものに出会うなあ・・・・って思いますよね。

ネットって、「自分を自由に解き放ってくれてる」ようで、逆にものすごい「予定調和」的な檻の中にグイグイ引っ張っていってしまう性質もある。自分の「認識の型」にどんどん自分がハマって行っちゃうっていうかね。

逆に、ネット経由だと決して触れないタイプの、「自分とはすれ違うタイプ」のものが、むしろ本屋さんだと「お!」って感じになったりする。

最近、やっぱそういう「ノイズ」が大事だなあ・・・・って思ってるんですよね。いやノイズと言っていい話ではないんですけどあえてノイズと呼ばせてもらうわけですけど。

だからリアル本屋さんにはマジで頑張って欲しいね。色々厳しい情勢なんでしょうけど。



なんか、その「ノイズを拾い集める」ことによってしか再生できない「大事なもの」があるなあ・・・・って最近凄い思ってるんですよ。

今回実家帰って、ガラケーでグリーのゲームするのが好きな弟とか、ネットほとんど見ない母親とかと話してると、俺が普段ツイッターで見聞きしてる話はどこの異世界の現象なんだ?と思ってしまう(笑)ところがあってね。

で、「ツイッターで流れている最先端的なもの」っていうのに「ついてこれない時代遅れな人たち」っていう風に思いたくないんですよね僕はそういう時に。

そういう層にも、「意見の違いを超えてジンワリ浸透するような言説」こそが今必要だと思ってるしね。

重さのあるリアリティ的には、実際には「ツイッターの外側」の方が圧倒的に「規模感」が大きいわけなんで。

彼らと「気持ちで繋がれる」っていう部分を切り落としていけば行くほど「言うこと・やってること」が先鋭化するんで、ネットにおける市民権が取りやすくなるんですけど。

でも、そのレースをやりこんで行っても、本当に「希望」があるんだろうか?って考えると、結局最後の最後に「この国の愚民どもはなんでこれが分かんないんだよ!」ってキレて終わるみたいな袋小路に自分から飛び込んでるみたいなことになるじゃないですか。

そういうことを考えると、グリーやモバゲーや、AKBって、「ほんとエラいんだな!」って思えて来ちゃうんですよね。

社会がバラバラになってしまわないように、土俵際でちゃんと繋ぎ止めてくれている。

やっぱり、「その回路」に言説を載せていきたいんだよな。

「気持ちはわかるぜ!」

って感じで共鳴関係が起きて、前向きな連携が動き出すというような、そういうのに。

「切断する言論」って、やればやるほど自分自身はカッコよくなるんで、「先鋭化」には安易な方法なんですけど、それでやってくと、結局「実行段階」に差し掛かると「逆側」に物凄い巨大な「抵抗勢力」さんが生まれるんで、結局「言葉は派手で頼もしそうだけど結局意味ない。余計に何も決められなくなる」って感じになるんだよな。

一方で、「切断しない言論」ってフワフワなものになりがちでわかりづらいんだけど、そこはそれ、諦めずに粘り強く現地現物に向きあった末に出してこれる「1つの方向性」さえ示すことができれば、今は「削り落とした言説同士の叩き合い」になっているような回路ではない感じで、

長周期の地震が、それ自体は地味だけど高層ビルとかと共鳴して巨大な影響力を持つ

みたいな感じで広がっていくはずで。

僕はなんとかそのような回路を模索したいし、そういう「回路」を目指す言説がもっと沢山出てきたらいいのにと思ってるんですよね。



ちょっと話変わるけど、CDショップって、今本屋さん以上に超厳しいんだと思うんですけど、久々に三宮のHMVにいったら、またこれが「楽しいなあ!」って思ったりしたんだよな。

一時期は毎日行っても飽きないって感じだったんだけど、ユーチューブが流行るようになった頃から本屋さん以上にバッタリ行かなくなっちゃったんで、もう凄く大変なんだろうなあ・・・っていうのは自分という一消費者の行動を考えるだけでも思ってしまうんですが。

でもね、やっぱネットでユーチューブ漁ってると、ついつい過去何十年のポピュラーミュージックの歴史&過去数百年のクラシック音楽の歴史全体がライバルなんで、今色々出してる人たちがどれだけ頑張っても全然目に止まらないんだよな。

その点、久しぶりにCDショップに行ったら、「ネットじゃ(そもそも目にしないし、たとえ見つけても)絶対聞かないな」っていうのにも結構「出会う」んですよね。

まあ、その例にあげたりしたら失礼かもしれんけど、矢沢永吉さんの新アルバムが出てて、ふと聞いてみたらなんか・・・・「いいなあ!」と思ったんですよ。

公式チャンネルだから貼るけど、こんな直球ギターリフから始まる。

いやね、一個前の記事で「わはははは!って笑うオッサンがいてくれると助かるよね」って話をしたとこなんですけど、そんな感じでね。

今の時代、こんなマーク・ボラン式の大時代的なロック・ギターとか、若い世代はようやらんと思うんですよね。

ある意味「物凄い古臭いな!」って感じなんだけど、ああいうの「衒いなくできる」って、今の日本の特権ってとこあるなあと思ったんですよ。

ユーチューブコメントに「くそダサい」って書かれてるけど(笑)、その「超ダサイこと堂々とやってる」ってところが、ちょっとギャグ一歩手前だけどなんか良いなあ・・・・と思ったっていうかね。

何より、クレイジーケンバンド的なギャグになってもおかしくないのを、矢沢氏自体は「大真面目にやってる」っぽいところがいいなあと思ったんですよ。

バキバキに先鋭化した最先端のフォルムじゃなくて、かといって「さくらーふぶーきーのーサライーのそーらをー」とかまで行っちゃうと何もかもグダグダな感じなんでそこまでも行かない感じでね。

一応、ちゃんと「論理というかメッセージ」はあるんだと。感情を甘々に吸い寄せられれば何でもいいと思ってるわけじゃない。

「メッセージ性・論理性」は失わないけど、でも「切り捨てて自分だけクールになれるフォルム」にもしない・・・みたいなね。

そういうのが、なんか、いいなあって思ったんですよね。

そういう方向をちゃんと追求していけば、


長周期の地震が、それ自体は地味だけど高層ビルとかと共鳴して巨大な影響力を持つ


みたいな「広域的連携」が、再生できるんじゃないか・・・・って思うんですよ。



日本のテレビ、出版、新聞、その他マスコミシステムが、構造的にかなり「守られた」状況になっていることで、「ツイッター的な世界観」からすると色々と「面倒くさいこと」を引きずってるっていうのは確かだと思うんですよね。

でも、そこのところを「ゴリ押しだろうとなんだろうと”捨てきってない”」っていうところは、日本の最大の弱点でありつつ「最大の長所の源泉」でもあるんで。

そこが「規制業種だから守られている」ということは、ある意味国民全体が集合無意識的に、まだ当面「規制で守っていようと、そういう”連帯の源泉”を捨てずにいることが必要だ」と判断してるってことでもあると思うんですよね。

そういう根底的なレベルでの「経済合理性」はまだ確実にあるはずなんですよ。

そこんところを「捨てきってない」から、矢沢氏だって、あんな大時代的なギターを堂々と鳴らせちゃう。もっとスキニーなピッチリした格好にしたり、あるいはもっとダボダボにしてワルぶってみせたり・・・・する必要がない・・・みたいなところがあるんで。

そこにあるのは「現状は幻想にすぎない」かもしれないが、その「幻想が残っている」からこそ、その「幻想の回路」を通すことで「取り戻すべき連携」ってのもあるんですよ。

こういうのって、「個人に目覚めたアクティブな論客」からすると、凄い「嫌ぁー」な感じのことなんですけどね。

でも、そういうのを求めている人たちも、やはり「凄い沢山」いるわけなんですよね。

で、過去において、そして現在においても日本がちゃんと「規模感持って経済的繁栄を生み出している源泉」もそこにあるんだよな。厳然として。

ただ、その「集団的密度感(”薩摩藩”的存在)」と、「マクロに見た時の合理性」みたいな「思考ベースの話(”長州藩的”存在)」との間の連携が、全然うまく行ってないのが問題なだけなんですよね。

結果として、「やっても大きな成果につながらないところで超絶的なバンザイ突撃」をする一方で、個人主義者のインテリはずっと「日本なんかもう一回滅んじゃえばいいのに」的なことを言い続けてるみたいな状況にあるわけなんで。

これが、「やる意味ある場所をマクロに見てちゃんと選ぶ」とかね、それがやりやすい社会制度を導入するとかね、そういう「抽象度をあげた知性の機能」が、ちゃんと「集団的密度感」と連動できるように持っていけたら、凄い可能性が生まれるはずなんですよ。

別に「相手側をぶっ潰す」必要はないんですよね。「あるべき連携」を取り戻せさえすれば活かしあえるんで。

それこそが「21世紀の薩長同盟を結べ」なわけですよ。大事なのは、本来対立するべきでない両者の間の意見のすれ違いを、適切に「交通整理する」ことなんだよな。



今日の、銀座のオリンピックメダリストパレード、凄い人出だったそうで。

そういうのに対して、古臭い20世紀的な個人主義者のシニカルな小言とか、もう別にええやん、って感じがするんだよな。

いやー良かった良かった、こんな感じで行こうぜ日本!

みたいな気分が増えていくことは、「幻想」だけど「幻想」じゃないんだよな。「空気」に対する「実効性」があるわけなんで。

かといって、ほんとただ全くの思考停止のセンチメンタリズムになっても困るわけなんだけど。

まあ、その間をね、みんなで埋めていきたいじゃないっすか・・・と思ってるんだよな。

これは僕がやってることだけの問題じゃないからね。

「理屈」と「現物」との間のラストワンマイルを、どれだけみんなで実効性を持ってつっつきまわせるか?っていうのが今の日本にしかできない最大のチャレンジですから。

今回本屋さんで色んな「立場」の人の本を買い込んできて読んだら、それぞれ「なるほどなあ」っていっぱい思ったんですよね。

僕の本も含めて、ちゃんと「ど真ん中」を目指してる人はいっぱいいるんだなと思えた。

欧米的な紋切り型への違和感をちゃんと忘れないで、現地現物から時間かけて「ど真ん中」を探っていこう・・・・っていう人は、実はいっぱいいるんだね。

そのことがわかってきて、「おお、日本って凄い国だな!」って改めて自分は思いました。

その「ど真ん中」を、「恥じらわず衒いなくダサカッコよく」って感じでどんどん追求していけたら、どっかのタイミングで絶対潮目は変わりますからね。

「今日、自分だけカッコイイことが言える言論」に逃げない

で、

「ど真ん中の実効性を諦めず、しかも”みんな”への浸透性を狙っていく」

みたいなことをやっていけば、日本の未来は明るいな・・・と思えるようになってきました。

その前提段階として、日本全国のリアル本屋さんとリアルCD屋さん、頑張ってくださいね!

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今更ですけど自己紹介を・・・その1.副題『原生林のような豊かでタフな経済を目指して』

このページはよほど倉本圭造に興味がある人のためのありえないほど長い自己紹介エッセイなので、サクッとコイツ誰なんだ?ってことが知りたい場合は、私のホームページの「Who?」欄をお読みください。(向こうにしかないコンテンツもありますし、とりあえずコンパクトに全体像がご理解いただけると思うので、かなりご興味を持ってくださっている方も、先に向こうをお読みいただけるとご理解しやすいように思います。その後以下の”長文”へと戻ってきていただければと)







最近出版の依頼を下さった人がいて、”出版社の女性社長さん兼編集者”としてギョーカイでは結構有名な人らしいんですが、「21世紀の薩長同盟を結べ」本体を読むまで、プロフィール欄を読んでも「???」って感じだったと言われたんですよね。

その「???」になったっていう文章は、本の著者プロフィール欄に記載されているコレなんですが。

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
で、「なるほど、意味わからない・・・かもしれないな」と思ったんで、それについて、一度まとめた文章を書いておいたほうがいいのかな・・・と思って、これから書きます。

『逃げ恥』が教える「自分らしく生きる」の本当の意味

あけましておめでとうございます。昨年の私は普段の仕事的にはそれなりに一歩ずつ経験積んで進歩してこれた感あるんですが、いかんせん本出したりネットに上げた文章が広く読まれて・・・という方向での活動としてはなんだか何もやってないも等しいような印象になりそうで、正直ちょっと焦ってもいます。

ただ今は、焦って本やブログを書いても、よくある「右や左の紋切り型」にしかならない難しい状況に世界がどんどんなっていくなあと感じていて、そうじゃなくて「個別の事例」と仕事で向かいあう中から立ち上がってくる何かを信じて積んでいきたい気分だというか・・・ま、もうこの歳になると自分はマイペースにしか生きていけない人間だってところは骨身にしみてわかっているので(笑)、相変わらずそういうペースで今後もやっていきますので見捨てないでたまに気にかけてやって下さい。

ちなみに、ブログ再移転しました。ブックマークされてる方は変更をお願いします。

新ブログトップページ↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp



で、久しぶりのブログ更新、しかもブログ移転一回目・・・がテレビドラマの話題ってなんてミーハーなって感じもしますが、2016年最大の(たぶん)ヒット作となった『逃げ恥』が超よかったので、年末だしそれについて書きます。

全体的に言って、「自分らしく生きる」っていう現代的に超超超言い古されたことについて、ちゃんと一歩ずつ考えて一歩ずつ実現していかなくちゃね!っていう気持ちになったところが凄く良いドラマだったと思ってます。夫婦で見てて毎週二回は泣いてました。

このブログはそういう方向で、

・『逃げ恥』のどこにこんな感動するのかって話
と、
・それはある種「運命へのニーチェ的向き合い方」なんじゃないかって話(より正確には”一連の実存主義哲学”)
と、
・「他人の人生を生きないで、自分の個別性(自分らしさ)を生きること」っていう「言い古されたこと」を私達が本当にちゃんとやりきるにはどうしたいいのか?
というような話に広がっていく予定です。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。