転職とかの人生の転機についての無理のない考え方。

ある会員さんが転職しようかどうしようか・・・・って迷っていて、それについてコメントしてたら、「あれ、こういう話聞きたい人もいるんじゃないか」って思ったので、それについてブログでも書いてみることにした。

なんか、こういう「人生の先輩ぶったこと」みたいな内容を書くのって照れくさいところがあって今まであんまりしてなかったんだけど、ただ、自分は結構それなりに「ユニーク(笑)」な生き方をしている方だと思うので、それがどうやったら可能になったのか、それについて「決断」の段階で考えるべきことは何か・・・・について書いたら読みたい人もいるんじゃないかという感触もあったので。



まず、その会員さんはアラサー男子でしかも既婚(しかも奥さんは大学院生)だから、色々とややこしい部分があるんだよね。

だから、もし20代前半で、しかも独り身だったら、「よっぽどなチャレンジ」でもやっちゃっていいと、僕は思っている。

考えなしに会社を変えちゃうことについて、色々と批判的な世の中だし、勿論そうすることによって「自分で背負うべき責任」は倍加(どころじゃないほど増える)するんだけど、でも、

「納得できない・明らかに自分には合ってないという場所」

に我慢して我慢してずっといて、結構年取ってから、「やっぱ無理だった!」ってボカーン!と弾けてしまう(多分これが一番リスキー)よりは、若いうちに決断して若いうちに行動したほうが絶対良いと自分は思う。

ただ、実際に、今の日本では「新卒で大きな会社に入って、そのままスルスル行く」っていうのがかなり「楽な選択肢」であることは確実なので、

「結構”苦労”する覚悟」

自体はしたほうがいいと思う。

でもね、苦労って、人それぞれだからね。

アインシュタインが、「好きな女の子と一緒にいたら長時間でも一瞬だが、熱いストーブの上に座ってたら一瞬でも超長い、それが相対性理論だ」って言ったという話を聞いたことあるけど(デマかな?)、でも「苦労」についても同じことが言える。

ある意味、自分にとって価値観が「マジで合わない」ところに、毎朝起きて通勤するってだけで、それは「物凄い苦労」だと思うし、逆に”客観的な指標(労働時間とか)”が多少長かろうと、「気分が合う」「やってて苦じゃない」ようなことであるならば、別に主観的な「苦労」はそれほどじゃないと思う。

逆に言うと、「今いる会社にいること」が「それほど苦じゃない」なら、それこそ「絶対その会社にいるべきだ」っていう理由だと自分は思っている。

なんか、「ぬるま湯に浸かっているのは自分の成長にとって良くないんじゃないか」的な煽りってあるんだけど・・・・でも、そうやってどんどん「自分に合わない場所」に移動しては「苦労している自分に満足」みたいなのが、マクロに見ても個人レベルで見ても「合理的」だとは決して思わない。

勿論、「ぬるま湯的なのが自分の感性にとって苦痛だ、合わない」っていう場合は、それは客観的にはどれほど「楽」だろうと「苦」なんだと言う話なんだけどさ。

「スキルアップ」的な観点であまりに見過ぎるのも良くないと自分は思っていて、やっぱ「自分の感覚として自然に働ける」ところで、「イキイキと働いてた」方が「スキル」自体は絶対貯まると思う。←牧歌的すぎることを言ってるように聞こえるかもしれないが、根本的には絶対そうで。

「合わないなあ」と思いながらずっと大企業の中で安定してるからといってキュウキュウと過ごしていると、「キュウキュウとした人」みたいになってきちゃうしね。

逆に、「なんか毎日楽しいなあ」と思いながら「あれもしたい、これもしたい、もっとしたいもっともっとしたい」みたいな感じで働けてたら、その人の「転職余地」は必ず常にあると思う。「人の縁」で勝手に次が決まったりもするしね。

「スキルアップしなきゃ」ってなって、「スキルとして認定しやすい四角い仕事の種類」ばっか目指してると、それはそれで息苦しいし、そういう「スキルとして認定しやすい四角い仕事の種類」って、時代の変化でネコソギ不要になっちゃったりもするからそれはそれでリスキーなんだよね。

そこんとこ、「スキルアップ強迫症」みたいにならずに、かといって「あまりにもフワフワした自分探し症候群」的なものにもならずに、「真ん中」ぐらいを目指していればいいんじゃないかな。

まあ、そのへんが、もしあなたがまだ全然若くて独り身なんだったら・・・・って話ですね。

もしまだ学生ならさらに「無理して考える」必要はなくて、とりあえず「つぶしが効くとこに入ってみようか」ぐらいでも全然OKだと思う。

で、とりあえず「参戦」してから、↑みたいな感じで考えていったらいいんじゃないかな。正直今の日本は就活段階であまりに将来のことを「言葉で考えさせすぎてる」と思うしね。まあ、それはそういうゲームだと思って適当にこなしてしまえばいいんじゃないかと。



で、ここからが本題で、アラサーぐらいで、しかも結婚してたりする場合。こりゃ大変ですよね。(もっともっと上の方は、基本的にもう過去の延長でやってくのがいいと思います。それでも、薩長同盟本でも書いた会員のオジサンみたいに、”今いる会社、自分のスキルの延長”で、自分だけのオリジナルな仕事を作っていく、あるいはもっと自分にとって居心地の良い環境を作っていくっていうことは、まだまだいくらでもできるからね)

で、実際、僕自身がムチャクチャな冒険(とはいっても、”日本社会の普通”から比べるとってことなんで、もっとヤバイ道を歩いてる人は沢山いるんですけど)をして、独立して仕事を始めて・・・ってなったのは20代半ばかつ独身時代だったわけで、結婚はその後「そういう人間だと覚悟してくれてる女性」としたわけだから、自分自身もこのカテゴリーには入らないんじゃないか・・・ってところはある。

でも、会員さんでそういう人はちょくちょくいるんで、そういうケースを見てて思うのは、

「最低の最低の最低を考えておいて、最高の最高の最高も考えておいて、あとはその人にとって”一番自然”なところに惰性で着地する」

っていうあたりが、まあツキナミなことを言ってるようだけど、良いのかなあ・・・・と思っている。

良くないのは、「希望的観測」だけで突っ走って爆死する・・・・っていうケースなのかな。

特に、「自己啓発本」とかに、「マイナスな発想は一切考えるな」的なことが書いてるのを鵜呑みにしちゃったりするとかね(笑)

でも、この「自己啓発本の真意↑」は、「懸念や不安があるんだったらそれを直視して味わい尽くしておかないと、どんどん無意識にそっちに引っ張られちゃうよ。」ってことだと思うので、むしろ「マイナスなことを心底考えずに済む」ためにこそ「最低の最低の最低」を考えておくことが大事・・・っていうことなんだと思うんですけどね。

つまり、「最低の最低の最低」を想定しておくことは、「希望的観測」を、「希望を失わないままちゃんと検証する」ために結構大事なことなんですよ。

「最低の最低の最低」を想定してないと、「希望的観測」の「希望」がちょっとでも揺らいじゃうともう人生全体が真っ暗になっちゃうんで、「大丈夫、大丈夫、大丈夫なはずだあああああ」みたいになってしまいがちで。

結局、ちゃんともうあと10回ぐらい考え直せばブレイクスルーが起きたんじゃないかっていうところを、「えーい、ままよ!!」って感じで借金してドーンと勝負して爆死・・・とかになりがちなんで。

だから、「希望的観測」をちゃんと「冷静に希望を失わずにブラッシュアップし続ける」ことができるためにこそ、「最低の最低の最低」を想定しておくことは凄い大事だと思う。

僕は、塾講師の勤務形態とか平均年収とか、キャリアパスとかについてかなり詳しくなったしね(笑)

なんかね・・・・いや、塾講師が「最低な仕事」っていう意味じゃないですよ!!!そうじゃなくて「自分がどうしてもやりたいと思っているプランが全てダメだった時に」という意味での「最低のケース」ですからね。

「このままで大丈夫かな?」ってなるたびに、塾講師の求人みたり、塾講師についての職場の内輪事情みたいなのをネットで見聞きしたり、塾講師やってる会員さんに聴いたりしてね。

で、最悪、それやってけば奥さんと二人生きていくのは問題ないな・・・・ってなって、ウムウム!みたいに自己納得したら、それ忘れてまたとりあえず今日できる仕事をするの(笑)

もっと以前は、よく外資コンサルの中途募集のホームページをよく眺めてたしね。マッキンゼーの卒業生MLで流れる元コンサルの求人情報とかもよく熟読してたし、名古屋に事務所がある(らしい)ボストンコンサルティンググループの求人欄とか100回ぐらい見たんじゃないか(笑)

でも、今はもう、「価値観」が違いすぎてて、コンサル会社に戻るのは無理だな(相手のトップが著書を読んで声かけてくれる・・・みたいな価値観の共有があるフリーハンドのヤツならともかく、”外資コンサルティングファーム”ってものに参加するのは無理っていう意味ですね)って思うようになったんで、塾講師の求人を見るようになったんだけど。

それらの「求人」に、「本気で応募しよう」っていうんじゃないんだよね。でも、「眺めてると精神安定になる」っていうか。で、「じゃあできることをやろう」ってなった時に、「焦りから来た無駄な行動」じゃなくて、「本当に意義が積んでいける行動」に集中できる感じがする。

特に、個人として、あるいは小さな会社として仕事をしていると、「日銭は入るけど将来に全然つながらない仕事」と、「日銭を稼ぐには苦労するけど、着実に”独自性”が育っていって、それと連動したえ顧客基盤が積み重なっていって将来の安定が手に入る仕事」ってのがかなり明確に別れるからね。

とりあえず「やっていけなくならない」ようにやりくりしながらも、「今年の数字」だけを見るんじゃなくて、「将来的にちゃんと安定して末広がりにしていく」ことに全力を傾注することがとにかく大事なんですよ。

でも、それやるには、相当「根性」が必要っていうか、だからやっぱ「最低の最低の最低」ぐらいをちゃんといつも見ながら積んでいくことが大事なんだよね。

あと、固定費を削る算段を色々やって、一緒に暮らしてる人と豊かな関係を築いて、「それほどお金がなくてもミジメな気持ちにならずに幸せに生活できる存在になる」ってのも凄い大事なことだと思う。

そういう風に「無駄なリスク要因」を減らせば減らすほど、全体として「一番大事な賭け」に対してガツンと賭けていけるようになるんだよね。

そのプロセスの中で、例えば何歳にもなって親と同居してるなんて・・・とかさ、配偶者も働いていて収入があるから、一時期甘えさせてもらうとかも、全然恥じる必要はないと思う。

あとさ、今の時代、親がかなり裕福で「そもそも働く必要ない」っていう人、実は少なからずいて、そういう人が、「形だけでも働いてるってなってないとカッコ悪いから、安定した職業の椅子を一個使っちゃう」のって、全体で見て無駄が多いと思うんだよね。

その「椅子」を「もっと切実に必要としている人」ってのが社会に確実にいるしね。大時代的な言い方をすると「切実な”階層上昇”の手段」みたいになるから、物凄い真剣にそれに取り組める・・・みたいな人がいるはずだし。

それに、そういう「恵まれた立場」だからこそできること・・・・っていうのを、その人なりに考えてくれ方が、「普通の範囲内」の外側に新しい可能性を打ち込める余地がさらに増えますよね。

それがまた全体のパイを増やすからね。

実際、今の日本で「面白いユニークさ」を発揮してる会社って、既にあった会社を「二代目」が好きに引き回して実現したようなところが多いしね。

まあ、色んなケースがあるんですが、そういうところで無駄な潔癖性を見せて可能性を削るよりは、使えるものは何でも使って、「普通にはできないこと」を成し遂げてやる・・・って考える人が増えた方が絶対良いですよね。

「他人の目線」を気にして自粛する・・・ってのが、「自分だけの何かを”普通の範囲”の外側に打ち込む」時に一番やっちゃいけないことだからね。



とはいえ、「最低の最低の最低」って、考えはじめるとキリがないんだよな。

だから、「いつでもこの仕事に就こうと思うなら、まあなんとか就けるだろうし、そしたら年収これぐらいにはなって、で、こういう風に切り詰めればやっていけなくはないな」っていう程度で良いと思う。

あまりにも、不慮の事故で体を壊して働けなくなってしまったらどうしようとかね、そこまで考えすぎるとキリがないというか、それこそ「そういう時のためにこそ生活保護ってのがあるんだろ?」って話なんで。

そこはまあ、あんまり強烈な個人主義的自立心とかを持つんじゃなくて、「最悪は社会保障に頼ろう」でいいと思う。

っていうか、「そう考えることで前向きにチャレンジができる」んだったらそう考えるほうが「社会貢献の期待値が高まる」ぐらいに考えて良いと思うしね。

僕もそういう傾向があるけど、日本人は「一宿一飯の恩義がどうこう」とか考えすぎて自縄自縛になっちゃいがちで。

昔いた会社との義理がどうこうとか、自分のこういう行動は他人にこういう迷惑をかけてしまうんじゃないかとか・・・・とにかく、「自分なりの仕事の作り方」をしはじめると次々と精神の奥底で呪詛の声が(笑)聞こえはじめるんだけど。

で、そういう「みんなへの義理、迷惑」を真剣に考える性質は我々の美点なんで、「日本人はこれだから嫌だねえ」みたいになるとそれはそれで精神的にも良くないと思うので。

だから、なんか、一種「無理やりな自分的理屈」でもいいから、

「こういう風に行動したら、確かにこういう人には迷惑っぽくなるけどそれは現代的には常識の範囲内と言って許してもらうとして、逆にこの行動が成功したら全体としてこういうゲインが社会にもたらされるんだから、自分の行動は日本人としてOK・・・・(なはず)だ!!!!」

みたいなことを考えると良いと思う。

いやいや、ヘンなこと言ってるようだけど、「日本人としての義理」って想像以上に日本人の精神の奥底に根を張ってるから、もうそれぐらいに「自分理屈」を作り上げるぐらいじゃないとなかなか自由にはなれない(人が多い)と思うんだよ。これは色んな会員さんを見ていてもそう思う。

そこに「向き合う」ことをしないで、

「そんなの、関係ねえぜ!!なんだよその前時代的な封建主義な理屈はよぉ!これだからニッポンジンは嫌だよねえー!!!」

みたいな感じで突っ走ろうとすると、逆に、

「社会的な”普通”」や「一般的にOKとされている範囲」に無意識的にガンジガラメにされてしまう

ような人を結構沢山見る。

「自由に自分の思うように」生きているようで、実際には「こういう風に生きてればOK」とされてるラインを必死になぞっているだけ・・・になりがちで、ある意味「日本の古い会社でずっといる人」よりもさらに「偏狭な価値観」に凝り固まっちゃう感じになってしまう。

「物凄い狭いストライクゾーン」以外の生き方を全拒否して見下さないと自分自身のアイデンティティを保てない・・・みたいになるのは、あまり誰にとっても幸せなことではないと思うしね。

だから、心の底で「日本人的義理からの呪詛の声」に対して逃げずに向きあって、


「こういう風に行動したら、確かにこういう人には迷惑っぽくなるけどそれは現代的には常識の範囲内と言って許してもらうとして、逆にこの行動が成功したら全体としてこういうゲインが社会にもたらされるんだから、自分の行動は日本人としてOK・・・・(なはず)だ!!!!」


みたいなことをちゃんと考えておくことは、

「自分自身が本当に自由になるため」

に大事なことだと思うんですよ。実際、そういう「内的一線」を通しているからこそ、堂々としていられる・・・・ってのがあるしね。



そう、その延長として、超古臭い言葉なんですけど、

「大義」

みたいなことを考えるのは、大事なことだと個人的には思います。

自分が食っていけるかどうか・・・・ってことだけで考えてると「渡り切れない川」てのに絶対出会うと思うし。

逆にそこで「大義」を自分の心に宿していると、目をつぶって一番危ない箇所を走り抜けられる・・・・みたいなのがあると思う。

いや、古臭いようですけどマジで。

そういう「気持ちで負けない」っていうのは、特に「値付け」の段階で超大事。

今の仕事が本当に立ち上がるまでは、結構先が見えない時期もあって、貯金もどんどん減っていくし、みたいな時期があって。

でも、ある段階で、既に集まってきてくれた会員さんに対して、「階段上に設定された料金体系の一番上」においては、

「英会話学校ぐらい取らせてもらおう」

ってなって、それで結構集まってくれたんで、それからやっと「安定して立ち上がった」ってところがあった。

でも、それを言い出す時は本当にドキドキで、その「申込期限」として切った日の夜、パソコンのメールボックスを開くのが怖くて、深夜の街を明け方まで徘徊しに行って職質された(笑)

で、20キロぐらい歩いたところの駅から始発に乗って帰ってきて、家帰ってメールボックス開いたらザザザザザって申込メールが入ってて、とりあえず自分としては一人でマンションで泣いた。

でさ、その「橋」を渡りきれたのは、勘違いだろうとなんだろうと、

「大義」

について考えてたからだと思うわけですよ。これは絶対。

自分が今からやっていこうとしていることは、今の日本に絶対に必要なことで、これが仕事として立ち上がらないとしたら、それは日本にとっての、世界にとっての損失だ

ぐらい思ってた(笑)

だからこそ、それぐらいの「金額的真剣さ」を持っている人としか関わりたくないんだ、それに乗ってこない人とは袂を分かつんだ・・・・っていうような「覚悟」に繋がったっていうかね。

これ、結局「自分ひとりが食っていけるかどうか」「自分と家族がやっていけるかどうか」ってだけの話で言うと、

じゃあ別にコレでなくても良くない?

ってなっちゃうもんね。そしたらそれだけの「覚悟のある値付け」もできないし、「覚悟のあるセールスレター」も書けないし、そうすると結局、

「こういうのが流行ってるらしい」

っていうのの後追いの場所で必死に叩き合うしかなくなる。

もちろん、そういう「大義」みたいなことをわざわざ常に考えながらやるってことは、自分の行動を凄い縛っちゃうわけなんですよ。

9割がたの状況において「損」

な感じなんですけどね(笑)

実際、「その小銭拾っておけよ、なんでそれしないの?」みたいなところで拾えない・・・・で苦境に陥ることは凄い沢山ある。

ただ、残り1割の状況において、

「大義」があるからこそできる「野蛮さ」

ってのがあると思う。これは凄く自分で思う。その「野蛮さ」がないと、人間は「普通はこう」っていう範囲から抜け出すことは決してできないんじゃないかと思う。 

アメリカが物凄いシステマティックな社会でもやっていけるのは、「いい加減な部分はいい加減」だからなんですよね。

今の日本は「アメリカンなシステムを日本人的生真面目さで徹底運用」したりしていて、「最初のうちシステムにわかりやすくはまらないもの」の居場所がどこにもない・・・・みたいになりがちなんで。

そういう時に、

「大義を心に抱いた野蛮人」

っていうのが必要になってくるんですよ。そういう人が、「普通の範囲内」で「あらゆる人に迷惑をかけない」ってことを考えているとどうしてもできないことを、

「迷惑をかけてしまう部分もあるが、しかし、今ここであえて、”あえて”だッ!!!」

っていう風に乗り越えるチャレンジがもっと増えれば、「普通の範囲内」に生きている人にとっても息苦しさを軽減できる、最終的にはオールウィンな着地点に向かえるはず。

そういう風に考えるのを躊躇する人には、

「結局、人間他人に迷惑かけずに生きるとか無理なんだ」

っていう風に考えてみたらいいよ、と言うことにしている。

「迷惑かけないようにかけないように・・・・ばかり考えても結局かけてしまうんだったら、かけた分だけ全体でゲインが増えるような迷惑のかけかたをしたほうがいいよね」

っていう風に考えたら楽だったりする。あと、今は「迷惑かけんな」っていう抑圧が強すぎるために、逆に捻くれた反発心から

「うっせー、もっとメーワクかけてやるぜ」

的な暴発も多い気がするしね。

だからね、結局、「大義」というと大げさだけど、さっきの

「こういう風に行動したら、確かにこういう人には迷惑っぽくなるけどそれは現代的には常識の範囲内と言って許してもらうとして、逆にこの行動が成功したら全体としてこういうゲインが社会にもたらされるんだから、自分の行動は日本人としてOK・・・・(なはず)だ!!!!」

みたいな「自分理屈」を考えておくことは、それ自体物凄い不自由なことなようで実際には「最後の一線を超える行動」という点で凄い自由にしてくれる部分があるんだってことなんですよ。

それに、そういう「野蛮性の善用」みたいな社会的文脈が枯渇してくると、マジで通り魔殺人とかで暴発するしかなくなる人とかが増えるような気がするんですよね。



で、最近「シェア」的な発想とか、NPO的な発想とか・・・・凄く広まっていて、僕はそれについて、ちょっとイマイチ乗り切れない部分があるんですよね。

いや、批判してるわけじゃないんだ・・・・っていうことは凄くわかって欲しいんですけど。実際に「目指している世界」は凄い似てると思ってるんで。

ただね、僕がいつも考えているのは、そこで「脱エゴ」で向かうと、「とりあえず他人の承認を取り付けやすい」んですよ。でも、「脱エゴ」で向かうと、全体の規模感が最終的に凄い縮小しちゃうんで、トータルで見たサステイナビリティ(持続可能性)を犠牲にしちゃう部分があると思うんですよね。

で、ここでね、「脱エゴしない」っていうことは「ワガママ」なようで、トータルに見ると「大きな献身なんだ」っていう風に・・・・考える人が、もう少し増えて欲しいと自分はいつも思っていて、会員さんの「PQ的大道楽」においても、常にそういう方向に行って欲しいと思ってるんですよ。

「脱エゴ」の「シェア」で「NPO」的にしたら、誰も「文句は言えない」ものになるんで、初期段階における賛同が得やすくなるんですよね。

一方で、「脱エゴしない」ってなると、初期段階で「凄い偉そうでワガママな奴」みたいな感じになるんで、「うまく今の社会の普通とフィットしない時期」が生まれるんですよ。

つまり、その「不遇の時期」が必ず生まれる。

んだけどね。

その時期を経て、社会から一回「外に出る」ぐらいの覚悟を持って潜伏すると、だんだん「社会との立場関係」が変化してくるんですよ。

で、「脱エゴ」じゃない形で、


「大義を心に抱いた野蛮人」

的な、

「迷惑をかけてしまう部分もあるが、しかし、今ここであえて、”あえて”だッ!!!」


っていうような、そういう

「脱エゴでなくエゴの暴走」

で乗りきれる回路があるはずなんですよ。

で、そういう回路っていうのは、「欧米社会のシステム」からははじき出されガチなんだけど、日本人の奥底には「共通のひな形」としてまだ残ってる部分なんですよね。

欧米の社会システムは、「物凄い自分のことしか考えないエゴ」と、逆に「エゴに対して懲罰的なまでに潔癖なNPO」みたいなものに分離しがちなんだけど。

その「自分のことしか考えないエゴ」の徹底度において、日本人は欧米人ほどムチャクチャできない性質があるんで、さらにその「代替品」としての場所で欧米人基準の「NPO」的なところまで一気に「脱エゴ」してしまうと、社会の中で「エゴの持って行き場」が削られすぎて窒息しちゃうんですよね。

その、「どっちでもない」ところに、

「大義を抱いたエゴ」

みたいなのを再生させられるかが、日本発の何かが、今の閉塞感を打ち破って「新しい可能性」を生み出すために大事なことだと思うんですよ。

そういう「動き出し」が起点になれば、そこに「色んな人のエゴ」を吸収していけるので、最終型の規模感を大きくしていくことができるんですよね。

・・・とはいっても、現状NPO的な形でしか解決できないものが沢山あるのは同意なんで、NPOに関わってる人を批判してるわけじゃないんですけど。

そのうちの、「何パーセント」かが、「大義を抱いたエゴ」を模索して欲しいと思ってるんですよ。そこ起点の「風潮」を作らないと、バラバラに寸断された状態のままでは、結局「自分は●●みたいなヤツとは違ってダメ人間じゃないアピール」のための苦労アピールばかりが増えて、本当に「全体で盛り上がる」ような方向の動きが全然できないですからね。

ムハマド・ユヌス氏の「社会的起業」っていう概念は、それにかなり近いと思うんですけど、まだ多少「エゴに対して懲罰的」な要素が沢山ありすぎる、「啓蒙的すぎる」なあって自分は思っていてですね。

日本人なら、さらにその先に、「練り上げられた蛮人性」みたいなのを再生できると思うんですよね。

昔、やたら長い文章を「サイトウ・キネン・オーケストラと小澤征爾氏のブラームス」について書いたんですけど(趣味全開な記事なんで興味ある人だけどうぞ)、そういう「突き抜け方」ができるはずだというか。

貼っていいのか微妙だけど、DVDやCDの売上に繋がると判断して貼るけど、そのリンク先で触れてる動画はコレね。(ロンドンロイヤルアルバート・ホール1990年、サイトウ・キネン・オーケストラ、ブラームス第一番・・・・長い音楽とか動画とか嫌いな人は6分半ぐらいから見るといいんじゃないかと思う。ブラボーって会場沸くのもわかるわーみたいな。一個前の記事の最後で書いた、ロンドンで暴発するドイツ系みたいな話にも近いな)

「個人的すぎるエゴ」vs「個人に懲罰的なまでにNPO的な世界」ではない、

「今こそ、みんなのための俺のエゴの暴走を見せてやるぜ」

的な。

なんか、そういう「大義を抱いたエゴ」のあり方を再生することが、大事だと思ってるんですよ。

韓国や中国のあり方が、この10年勢いがあるのは、彼らがまだ「若い」からなんですよね。

色んな対象との「調和」を考える必要もないし、「トップランナーを追いあげればいいから、世界の中の自分だけのオリジナリティなんて考える必要がない」っていうような、言ってみれば「坂の上の雲」的状況だから可能になってることなんですよ。

いずれ、中国韓国的な「生まれつきの野放図なエゴの具現化」みたいなのは、色んな存在とぶつかりあって徐々にストレートには発揮できなくなってくるんで。

その先に、

「物凄く迂遠なようなことを先に考え尽くしたからこそできる、大義を抱いたみんなのための個人のエゴ」

みたいなのが再生できるかどうかが問われてるんですよ。

結局、ユダヤ金融資本みたいなのを批判してたってダメなんですよ。彼らは、人類全体で見た時に「押さえ込みすぎてるエゴを代理に暴走的に発散してくれてる」ところがあるんでね。

彼らを「押さえ込んだ」ら、別の場所で噴出するだけの話なんで、多少は話が通じる人が暴走してくれてる方がまだマシって世界があるんですよね。

だからこそ、「自分は小さくまとまることで誰かを批判する」んじゃなくて、「みんなのための個人のエゴ」を再生しようとすることが大事なんですよね。

ここでまたジョジョの引用とかしたら引かれるかな・・・と思いつつ↓(笑)


生き残るのは・・・ この世の「真実」だけだ・・・ 真実から出た『誠の行動』は、決して滅びはしない・・・
ブチャラティは死んだ・・・ アバッキオも、ナランチャも・・・
しかし彼らの行動や意志は、滅んではいない・・・ 彼らがこの「矢」をぼくに手渡してくれたんだ・・・
そしてお前の行動が真実から出たものなのか・・・・・・
それともうわっ面だけの邪悪から出たものなのか? それはこれからわかる。
あんたははたして『滅びずに』いられるのかな? ボス・・・


やっぱ自分はジョジョだとジョルノが好きだな。



ところで最後に1つだけ。

あとね、結婚してから環境を変える時は、かなり「スピリチュアル」なぐらいお互いの体調を気遣い合った方がいいですよ。

僕の本が出てから、今奥さんの体調が凄い悪くて、ほとんど外出もできないぐらいになってるんですよね。最近はちょっと回復気味なんですけど。

なんか・・・・まあ、「それぐらい密接に関わって生きているものなんだ」って思います。こういう例って結構あるしね。会員さんを見ていても、世の中の事例を見てても。

勿論、器質的問題を医学的に解決するのも大事(一応精神的な要因での腰痛・・・みたいな病名はついてるし通院もしている)なんだけど、お互い一番大変な時期を、とにかくちゃんとコミュニケーション取って乗り切る・・・・ってことは凄い大事なことだと自分は思ってます。

今の時代、「父子関係」「母子関係」とかだけで、「今の普通」の範囲を引きちぎれるほどのオリジナリティを形成していこうとするのは結構限界がありますからね。まあ、物凄い天才的な才能を若いころから発揮した人生は別ですけど。

逆に、「夫婦」でちゃんと積んでいって、手作りした方向性ベースなら、誰に恥じることもなく独自の道を歩み続けることができますから。

ガチガチにはりめぐらされた「説明責任の網の目」の中で、「夫婦関係」は最後の「システム外の価値」を生み出せる場所だと、僕は思っています。

「愛の力」

で(笑)

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