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村上春樹エッセイと「江南スタイル」と「ワイルドだろぉ?」について考えてみる。

韓国人ラッパーPSYさんの「江南スタイル」って曲が、ユーチューブで火が付いてビルボード2位にまでなったらしい。

実際動画見てるとなんか・・・・ジワジワ来るね。笑えてくるね。いいね。検索すると日本語訳付いてるのも出てくるけどマジでいいな。

なんか、日本のバラエティ番組とか見ない人は知らないかもしれないけど、今「スギちゃん」っていう芸人さんが、何かにつけて「ワイルドだろぉ?」って聞くというネタでブレイクしてるんですけど、ちょっと似たものを感じる。

韓流スターって、特に男性スターは、この「ワイルドだろぉ?」をネタでなくマジにやってる感じがあって苦手だったんだけど、それ自体をここまでネタ化してくれるとほんと気持ちがスッとするなあと思った。

で、それとは関係無いようで関係ある話なんですけど、昨日村上春樹氏が、中国問題について朝日新聞にエッセイを寄稿してて、なんか、それがね、いや正論だと思うんだけど、

なんか、「嫌」だなあ

って思ってたんですよね。文章の雰囲気が。

で、それについてちゃんと反論するようなブログを書こうかな?でもまあ、加熱しすぎて戦争にならないようにするには1つのプレイヤーとしてこういう方向の「”マットウ”な言説」がある程度力を持ってくれないと困るし、彼は彼で自分の使命を果たしてるだけとも言えるしな・・・・うーん・・・

みたいな感じで昨日は迷ってたんですけどね。

なんか、結局書くんですけど、「安酒の酔いに似て」とか言う言い方って、ヒドイと思うんですよね。いや、言葉尻だけのことじゃなくて全体の論旨として。

「その安酒を必要としている存在」こそ、村上氏が前に言ってた「壁に潰される卵があるなら常に卵の側に立つ」っていう時の「卵」さんなんじゃないの?って思うし。

国民が100人いて、「国際交流的なものに向いた生い立ち」の人が「10人」交流して新しい何かを作るとき、「残り90人」は自分たちのあり方を脅かされてるわけなんでね。

でも、その「残り90人の日常の心理的安定」が保たれていることの恩恵って物凄いあって、日本の場合はそこに本来の強みの核心があったりするわけなんですよ。

でも、その「残り90人の日常の心理的安定」っていうのは、ダメージが捕捉されないままどこまでも蓄積してしまう「沈黙の臓器・肝臓」みたいな扱い受けてますからね。

全部そこにツケ回しておけばとりあえず自分個人はポリティカリー・コレクトだし売りやすい言説が簡単に作れるし、ってな話になってるわけなんで。

そこが崩壊してしまったがために、もう破滅的な治安状況から全然回復できなくなってしまった国とかも世界には沢山ありますからね。

だから、「交流する役割」の人間は、ちゃんと「残り90人を代表する意志」みたいなんが必要だと僕は思うんですよ。

それを無視するのはいわゆる「社会の安定性へのフリーライド(タダ乗り)的問題」があるんですよね。

グローバリズムのあり方が、「大雑把すぎる」ことによって、「生きている人間のリアリティ」から乖離してるから、たまにこういう暴発によって軌道修正される・・・っていうぐらいのことは、「当然あっていい」と思うんですよ。

それを、「やれやれ、安酒で酔ってる愚民どもは」みたいなトーンで断罪するのは良くない。自分の影を断罪してるようなもんだからね。

「開国派」「国際派」の自分たちの普段の活動が、「自分たちの土着性」から遊離している分だけ、「時々こういう暴発も起きるよね」ということなんで。

それを「愚民扱い」的なトーンで切り捨てるんじゃなくて、「そういう気分になる時もあるのが人間だよね」ぐらいの感じで、ある程度暴発させながらも、戦争にはならないように誘導しようとする、っていうのが、「知識人としての特権的ポジション」みたいなのを与えられている人間の責任じゃないかと、僕はいつも思うんで。

とりあえずキャッチアップすりゃ良かった幕末期と違って、今の日本は一度世界一の座も見えてしまった「その次」を目指してるんで。

「坂の上の雲を自力で設定しないといけない」的なところがあるわけなんでね。

幕末期に、

「彼我の戦力差とか技術力差とか考えずにとりあえず攘夷攘夷と言って誰かを斬ってりゃいいと思っていた人たち」

と、今の時代に、

「自分たちらしさをどうやって根底的に掘り起こすのかという視点なしに、とりあえずグローバリズムグローバリズムといって他人を断罪してりゃいいと思ってる人たち」

っていうのは、なんか人間の種類が同根なんじゃないかと思わないでもないです。

幕末期に、

「攘夷は最終的にやりたい、が、そのためには西欧の文物の吸収が必要だし、そのためには開国も必要だ」

ってなったように、

「グローバリズム対応は絶対やりたい。でもそのためにこそ、自分の国の特殊事情や根っこのところにある感情問題なんかをちゃんと扱うことが必要だ」

っていう方向に持っていかないといけないんですよね。

村上エッセイが紋切り型で嫌なのは、簡単にヒトラーとか出してきて断罪するとこなんですよね。

いや別にヒトラーを擁護する気はさらさらないけどさ、「自分たち」は「ヒトラー」とは全然関係ない善人で、石原慎太郎みたいな役回りになる人だけがヒトラーみたいな悪人だと思ってる、その独善性が嫌なんですよ。

まわりまわってそういう「現象」が起きている「真因」の方を考えていったら、そういう発言にはならないだろうと思うんですよね。

「自分はそういうダメ人間どもとは違って善人だからどうこう」みたいな立脚点から論を始めたら絶対どこにもたどり着かないんですよ。

全体として見ると、この前秋葉原連続殺傷事件の犯人氏について書いたブログみたいな視点で向かわないといけないと思うんですよね。

・・・・って、また青筋立てて非難してしまった。いいんだろうか?



でさ、昨日は、こういうことブログに書こうかなーどうしよっかなーって思ってて、でもこういうのって「とりあえず好戦的な論理だけが暴走してマジで戦争にならないようにするには?」って考えると、村上氏みたいな人が、ちゃんと「完全にポリティカリー・コレクトな範囲内でわかりやすい話をしてくれる」ってことが大事ってのもわかるしなー・・・とか思いながらグルグルしてたんですけど。

で、そこまで考えると、自分がこういう論を立てていくということ自体の独善性みたいなものまで、さらに一周回って来たら考えざるを得ないところもあって、いや、しかしそれでも今こういう方向性を出していくことはマクロに見て良い影響があるはずだから云々・・・・とか考えたらグダグダになってたんですけど。

でもね、今日になって、「江南スタイル」聞いてたら、なんか、その昨日僕の中でグジグジしてたものが、スッと楽になるような気がしたんですよね。

「オッパ(兄貴みたいな感じ?)は江南スタイル!」

って、いいなあみたいな。そもそもなんか「自称」なのが。

なんか、「ワイルドさ」とかね、「倫理的正しさ」とかね、なんかそういう方向のものを、「意地はって競い合って」行くと、どんどん息苦しくなってくわけなんで。

そういう時に、

「コーラの1.5リットルペットボトルのキャップ、開けた途端に捨ててやったぜ、ワイルドだろぉ?」

みたいなのって、いいな!!!って思うんですよ。

なんか、江南スタイルの踊りを世界中の人が真似して動画あげてるんだけど、なんかこう・・・・「男の馬鹿馬鹿しさ」を、「そのまま認めてあげている」感じがいいなって思うんですよ。

前に、「葉っぱ隊」っていう日本の芸人グループが、似たようなムーブメント(こんなに大きくないけど)起こしたことあるんですけど、アレとコレとで違うのは、

まがりなりにも本人がカッコつけてる

ってとこがいいなと思うんですよ。みんなでアホになってるんだけど、みんなで伊達決め込んでるみたいな部分もある。

日本の芸人文化を僕は愛してますけど、でも日本国民全員が芸人になるのってちょっとそれはどうかと思うんでね。なんか、だんだん内輪の叩き合いツッコミ合いで萎縮してきちゃうみたいになるんで。

そこはそれ、世界で一番こういうのが得意(笑)かもしれない韓国人さんが、「伊達決めこむこと自体をネタ」にしてくれたら、こっちも幸せになれるなあ・・・・と思った。

「オタ芸」に近い平和さがあるんだけど、それが「参加者を貶める」形になってなくて、ガールズグループとかと一緒にやっても全然OKな「張り」を失ってないところがいい。周囲の人間に無駄なコンプレックスを撒き散らす装置になってないところが良いっていうのかな。

なんか、多分バブル時代の日本の、よく知らないけど「ジュリアナ」ってこういう感じだったんじゃないかと思うんですよね。今の「クラブ」みたいに、「参加できる存在」が妙に厳しく選別される空気がない形での狂乱があるっていうか。

そうやって、「男のカッコつけ方のバラエティ」が社会の中に確保されたら、戦争は起きないんですよね。それを、女の人にとって問題ない形で、全世界的なポリティカリー・コレクトさの基準も満たした上で実現することが、世界平和のための核心的イシューなんですよ。

そういう「文化のあり方」を形成することなくして、世界のどこかの個別の紛争についてアレコレやったって根本解決には絶対ならないですからね。

そこに、なんか・・・・こういう「誰の愚かしさをも断罪しない、包含していくユーモア感」みたいなのが、大事だと思うんですよ。

だからやっぱね、またついつい戻っちゃうんだけど、村上春樹エッセイみたいなのは・・・・やっぱそういう「独善性」がありながら、「誰も批判できない正論」ぽく聞こえてしまうところが、ちょっとね、嫌なんですよね。

「ワイルドだろぉ?」って誰かが茶化してやらないと、ああいう言説があること自体で今日生きる希望が失われる人だっている・・・ってぐらいの問題はあると思う。

っていうか、小説以外のところで彼が出てくると毎回「うーん」ってなっちゃうんだよな。この前の小澤征爾さんとの対談は凄い良いなと思ったけど。

小説は結構好きで読んでるんですけど、小説の中でもね、たまに、街で普通に暮らしている人たちについて凄いヒドイ描写するのが、僕的にはかなり嫌なんですよね。

1Q84で、高円寺の主人公のアパートの周り描写するみたいなときにメッチャクチャヒドイ言い方してて、そういうとこがホント嫌なんですよ。お前の知らんとこにその人たちの幸せってのがあるんじゃボケ!!みたいな気持ちになる。

「アバとクィーンのことディスってんじゃねーぞ青豆さんよぉ(アバはまあいいけどフレディさんに失礼なこと言ってっとこの俺が承知しねーぜぇー)」って気持ちもあったしね。

そういうところで、「普通に生きている人間」を無駄にヒドく断罪するようなポジションを取ってるから、逆側に「影」として「安酒に酔って今騒いでいる人たち」が生まれて来てるんですよね。そういう意味じゃ自業自得なんですよ。

そこを超えていきたい、超えて行かないと、彼らの世代の失敗を繰り返すことになるからね。

ただでもね、1Q84自体は、そこで普段の彼ならやらないぐらい「普通の人」を貶めることによって、逆に主人公の二人の愛のかたちを「今までの村上作品ではできなかった領域」にまで押し上げることには成功してるんですよね。

だからまあ、結局すべては必然の流れの中でとりあえず今はこうあらざるを得ないってことなんですよねー・・・まあだから、僕がそういうこともわかった上でここでこういう批判をすることも必然なポジションなんだよ、それによって人間は前に進んでいくんだよってことにしておこうかな。



ところで、「江南スタイル」最初聞いた時は、「LMFAO」っていうアメリカのグループのパクリかよ!と思ってしまったんだけど、まあ、確かにパクリと言っていいぐらいには似てると思うんですが。

ただね、我ら日本が誇る名曲「哀戦士」だって、ブルース・スプリングスティーンにめっちゃ似てる元ネタ「Jungleland」があるって知って凄い失望したことがあるんだよね。

ちなみにこの↑哀戦士とJunglelandは丸パクリと言っていいほどだと思う、いや俺ガンダムファーストは超ファンなんだけど擁護できないぐらい似てる。

それでも哀戦士は名曲だと思っているし、まあ、「段階」として、めっちゃ似てる曲だろうと今はいいと思うんだよな。

「そういう段階」を経て、だんだん自己査定が厳しくなってきて、で、「オリジナリティの模索」が本当の意味で始まって、その分「外の世界との噛みあわせ方」が凄い難しくなってきつつも、その茨の道を行き切ったところで人類精神が再合流する瞬間を目指して頑張る道に入るわけだし。

この世界で、「一周目の無邪気さ」を失った成熟した国が「オリジナリティ」をちゃんと発揮していくためには、相当な認識の深化が必要なんですね。

欧米文明の根っこから自分の中に取り込んで、それを自前で再構成するぐらいの何かが必要で。

そのプロセスの中には、とにかく無理やりにでも「グローバリズムを全部飲み込もうとする」プレイヤーも必要で、その中で断固とした自分の位置を確保してくれる村上春樹作品は、非常に「有用な価値」があるんで、僕はファンというより「熱心なユーザー」って感じなんですけど。

そういうプロセスの中で、「日本の本来性」と「グローバリズムのシステム」を、バッチリ噛みあわせていくための文化的アプリケーションを、一歩ずつ日本人は築いて来てるはずなんですよ。

過去20年の対外的不調の間に、日本はそういうことをちゃんとやって来ているんですよ。

まだシッカリ形にはなってないけど、あらゆる日本人の毎日の生活の中で、それこそ出ては消えていく一発屋芸人さんたちが生み出すウネリとかも含めて生み出した「スタイルの転換」の結果としてね。

その間、日本に変わって中韓がガンガンと世界に出ていって、日本がちゃんと内向きに足場を固めていくべき時期の「弾除け」になってくれてたところがあるんですよ。

そういう意味じゃ、この前のブログで書いたように、「中韓と日本は、適切な役割分担で協力しあって世界にアジアのプレゼンスを確保しようとしていってる」とこがあると思うんですよね。

だから、これから「開国」に向かっていくべき時ではあるんですよね。

PSY氏がアメリカでブレイクしたのも、アメリカの大学出てて英語に不自由ないから、それで問題なく広がったってとこあるみたいだし。

日本も、そういう力を手に入れていかなくちゃいけない。

ただ、それを「無理押し」にしたってダメなんですよね。「開く」と同時に「完全に閉じきる」べき部分もまたある。そういう方向がキッチリ一本化できるようにしていきたいですね。

それが「21世紀の薩長同盟を結べ」なんですよね。

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1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
で、「なるほど、意味わからない・・・かもしれないな」と思ったんで、それについて、一度まとめた文章を書いておいたほうがいいのかな・・・と思って、これから書きます。

『逃げ恥』が教える「自分らしく生きる」の本当の意味

あけましておめでとうございます。昨年の私は普段の仕事的にはそれなりに一歩ずつ経験積んで進歩してこれた感あるんですが、いかんせん本出したりネットに上げた文章が広く読まれて・・・という方向での活動としてはなんだか何もやってないも等しいような印象になりそうで、正直ちょっと焦ってもいます。

ただ今は、焦って本やブログを書いても、よくある「右や左の紋切り型」にしかならない難しい状況に世界がどんどんなっていくなあと感じていて、そうじゃなくて「個別の事例」と仕事で向かいあう中から立ち上がってくる何かを信じて積んでいきたい気分だというか・・・ま、もうこの歳になると自分はマイペースにしか生きていけない人間だってところは骨身にしみてわかっているので(笑)、相変わらずそういうペースで今後もやっていきますので見捨てないでたまに気にかけてやって下さい。

ちなみに、ブログ再移転しました。ブックマークされてる方は変更をお願いします。

新ブログトップページ↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp



で、久しぶりのブログ更新、しかもブログ移転一回目・・・がテレビドラマの話題ってなんてミーハーなって感じもしますが、2016年最大の(たぶん)ヒット作となった『逃げ恥』が超よかったので、年末だしそれについて書きます。

全体的に言って、「自分らしく生きる」っていう現代的に超超超言い古されたことについて、ちゃんと一歩ずつ考えて一歩ずつ実現していかなくちゃね!っていう気持ちになったところが凄く良いドラマだったと思ってます。夫婦で見てて毎週二回は泣いてました。

このブログはそういう方向で、

・『逃げ恥』のどこにこんな感動するのかって話
と、
・それはある種「運命へのニーチェ的向き合い方」なんじゃないかって話(より正確には”一連の実存主義哲学”)
と、
・「他人の人生を生きないで、自分の個別性(自分らしさ)を生きること」っていう「言い古されたこと」を私達が本当にちゃんとやりきるにはどうしたいいのか?
というような話に広がっていく予定です。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。