任天堂ゲーム文化からのドラえもん的希望=妖怪ウオッチを応援したい

ワールドカップ始まったし、「サッカー文化と野球文化の違い」はどういうところにあって、その両方に強くなろうとしている日本のあるべき姿とか、サッカー文化とは人類にとって何なのか?といった大きな話まで、連続で文章を書いてみようと思っていたのですが。

その手始めに、時にネットで喧嘩のネタになるという意味において、サッカー文化と野球文化との対立は、ソニー製ゲーム機VS任天堂ゲーム機的な対立感情に似ている部分があるな・・・などと考えていたら、最初はまず全然違う話題からはじめることになりました。

あなたは、最近話題の「妖怪ウォッチ」というゲームをご存知でしょうか。レベルファイブという福岡の会社が作った任天堂3DS用ゲームで、発売当初はそれほどではなかったものの、アニメなどとのクロスメディア展開から大化けして、今や関連おもちゃの入手困難さが色んなニュースになるほどの存在・・・らしいです。

私がこれを知ったのは、最近甥っ子がウチに来るたびに私のヒザの上に乗ってタブレット(ちなみにソニー製!)でアニメ版「妖怪ウォッチ」を一緒に見たがるからで、最初は正直結構面倒クサイ思いを持っていたんですが、これが大人が見ても笑えるんですよ!

30分番組の前後半で別の話をやってるので、正味10分ちょっとで一つの話なんですが、大人が見るお笑い芸人さんのコントとかでもこれほどのクオリティで笑える話ってなかなかないんじゃないか・・・というぐらい笑えます。すごい。

NTTドコモの「dビデオ」やソフトバンクの「UULA」、auの「ビデオパス」で配信されているそうですが、おそらくおもちゃ等の関連グッズ売り上げをあてこんで、ユーチューブとかの野良の動画アップロードもかなり寛容に放置されているみたいです。(とりあえず、最近私が甥っ子と見て爆笑した20話がおすすめです。10分強でこんなに笑えるコンテンツもなかなかないような)

甥っ子の彼もゲーム版の妖怪ウォッチは持ってないそうですし、アニメだけ、おもちゃだけ、コロコロの漫画だけ・・・というようなハマり方をしている子供も多いようです。最近参加した近所の区民運動会では、そこかしこで小学生がエンディングテーマの「ようかい体操第一」を歌い踊っていました。

なんか、爆発的に売れては消えていくスマホのゲームがどれだけ売れてもあんまり応援する気になれないのに、このゲームが売れていくのはなんか応援したいキモチになる・・・これはいったいなんなんだろうな?・・・というようなことを、私はそのアニメを一緒に見させられながら考えていました。

大げさに言うとそれは、「こういう世界を見せたい」「こういう世界にしたい」というような純粋さがちゃんとあって、一個一個のキャラクターに愛情があるから・・・・のような気が、私はしています。

妖怪ウォッチは、「ようかい」を集めて色んな問題を解決していく「ポケットモンスター型」ゲームなんですね。で、”ファイナルファンタジー”的な「大きな物語」ではない方向の、いわゆる任天堂ゲーム機らしい世界観の中で、博物学的というか多神教的というか、色んなキャラクターがバンバン出てくるのを集めていく作りになってるんですけど。

その一個一個のキャラクターが、ただの「ゲーム上のコマ」というよりは、「ポスト・ドラえもん」を目指して作っていると言われている「世界観」にとって大事な構成員・・・って感じになってるんですよね。

多くの「一瞬爆発して消えていくゲーム」というのは、一個一個のキャラクターがゲーム上のコマになってしまっていて、「それっぽい画像にどっかから取ってきた名前つけておいて、能力値をわかりやすく差別化してレアだ激レアだ!って煽っときゃいいんだろ・・・」っていうような部分があるような・・・?

・・・などというのは、スマホのソーシャルゲームをやったことがない私の勝手な偏見かもしれませんが、でも「ゲームと関係なくアニメがこれだけ楽しめる作品だったら、ゲームが爆売れしてっても応援したくなるなあ」というこの気持ちは、日々競争の激化するスマホゲーム業界のプロデューサーさんにとっても、「より一歩先の差別化」のために考慮して損はないポイントかもしれないと思います。

というのも「妖怪ウォッチ」だって、ただ牧歌的な作家性の産物ではないわけですよね。一昔前とは全然違うレベルの、受け手の価値観によっては「あくどい」と感じられるレベルのクロスメディア戦略で、「一人の小学生の一瞬の面白いと思った感情」があれば、そこから最大限のマネタイズを引き出してやるぞ!という虎視眈々とした資本主義メカニズムの上に乗って動いてはいるわけなんで。

また、ゲームの内容、ユーザーエクスペリエンスの組み立て、その他にも、流行りのビッグデータ的な観点からの設計や、それにまつわるプロフェッショナリズムが発揮されるべき領域はあるはずなんですよね。

ただ、その「最初の段階」で、総体として「どういう体験を持ってほしいのか」「どういう世界観を感じてほしいのか」というような部分で、「ドラえもんが与えたような夢を与えたい」とか言うレベルにちょっと牧歌的な「思い」に関する部分を捨てずにいると、「末脚(スエアシ)」がずいぶん伸びるプロジェクトになるんじゃないかと思います。

でも、こういう「思い」が消えずにいたのって、レベルファイブが非上場会社で(あとひょっとすると東京ではなく福岡にある会社で)、プロデューサーの日野氏が個人的な作家性による全権を握って、アニメの細かいところまでディレクションをしているから・・・っていうところはあると思います。あと、クロスメディア展開をしているバンダイとかの古い大企業に間に残っている「こういう時はこうだよね」という価値観の共有の上に乗っかっている。

そういう「こうあってほしい的なねがい」的な不定形なものにこだわると、プロジェクト全体が重くなっちゃって、血も涙もないITベンチャー最前線のクールな意思決定のスピード感を損なってしまいがちなんですけど、でもマクロに考えてそこに「あたらしい協力関係」が生まれることは「経済合理性」にかなうことですから、なんとかなるはずなんですよね。

組織文化的に難しいのならば、そういう「企画発想」的な部分だけ別組織とのコラボレーションになってもいいわけですしね。そういう「問題」自体を意識的にとらえて、なんとかしよう!と思って動き出せればなんでもできるはずですから。まずは「問題」の認識から、共有していければいいなと思います。

「最先端なもの」と「最先端っぽい世界が置いてけぼりにしがちなもの」との間が、現代社会の「あくどいまでのマネタイズマシーン」の中で手をつなげるようになれるってことは、そこが完全に分断されてしまいがちな現代世界における最先端の課題ですからね。そこにトンネルが掘り抜かれることが、日本のコンテンツビジネスが、ドラえもんやドラゴンボールやキャプテン翼がやったような「本能的な形」で浸透していくパワーの源泉を取り戻すために必要なことなのです。

その先が現代風な容赦無いビジネススタイルで展開されるのはクリエイター側への資金的手当を実現するためにも大事なことですが、やっぱり「元」のところでの願いが純粋でないと、ディズニーは超えられないですからね。

そして、その「2つの文化の分断をどう超えるのか」という話が、今後連続して書く予定の「サッカー文化とは人類にとって何なのか」につながってくるんですが、それはまた次回に。

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倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
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