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三色旗でテロ追悼することは中東に対して失礼か?

お久しぶりの投稿です。次の本の原稿が完成するまでソーシャルメディア絶ち!とかやってるうちに半年もたってしまいましたが、一応原稿できたのでネット活動再開します。(出版の続報についてはまたいずれお知らせします)

 

再開一回目の話題は、パリでのテロについてトリコロール(フランス国旗の三色旗)を掲げて弔意を表すことは、中東の人に対して失礼なのではないかという議論について。

 

今日久々にフェイスブックに入ったら、いろんな友人がこういう方向の意見を述べていました。

 

 ネット的に有名になったのは、

note.mu

とかですかね。

 

特に慎さんの記事に紹介されていたデータが議論を呼んでいるようです。

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テロで実際に死んでいる数が圧倒的に多いのは中東諸国であり、今回のパリのテロで死んだ数なんて、それに比べたら大したことないじゃないか・・・と言うのはある種の真実を突いているような気もします。

 

今回のことで騒ぐなら、中東の問題についてもっと騒いでいるべきだったし、世界中の人が「フランスで起きた場合のみ」これだけ大騒ぎをしていることを中東の人はどう思うだろうね?

 

・・・という違和感は、我々日本人の立場において(日本人でない人でも、要するに当事者のフランス人以外においてという話で)、フェイスブックやツイッターのアイコンを三色旗に染めることの是非の議論になっているようです。

 

 

・・・それは凄くわかる話だし、健全な疑義の提示だと思います。

 

で、実際にこの世界にはそういう不均衡が・・・つまり慎泰俊さんが言うところの「代弁されず報道されず死んでいく人たちの問題」が溢れているわけですが、この問題に本当に取り組んで行こうと思うなら、私は、「この形の疑義」に対して、いつも「さらにもう一回ひっくり返した疑義」を提示することが必要になってくると考えています。

 

どういうことか?

 

要するに、「中東でいくら死んでも騒がないがパリで起これば大騒ぎをしてしまう態度」に含まれている現代世界の秩序によって、ある意味で「受益」しているのは我々日本人も、そして中東に住む多くの人々も同じだということです。

 

確かにそういう秩序は欧米中心的でアンフェアだが、その秩序が崩壊しないからこそ、我々は毎日戦争をせずに生きられているのだという回路が、中東においても現時点では生きているように私には感じられます。

 

世界にあるアンフェアさは、一歩ずつ解決されていくべきですが、その時に「今の秩序が持っているアンフェアさの必要悪的部分」をどうやって代替していくのか・・・について物凄く真剣に考えておかないと、世界はその不安定さをちゃんと飲み込めなくなってきている時代なんだと私は考えています。

 

これは今出版社と揉みこんでいる最中の次の本の挿絵なんですが・・・

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「アラブの春」が中東で巻き起こっていた時、「現状のアンフェアさ」が解消されることについて、全的な賛意と熱狂を送っていた人も多いと思います。まあ、かくいう私もテンション上がりました。

 

でもその後、「その場」についてちゃんと真剣に責任持ってまとめて動かせる人間集団が、現地においては宗教過激派ぐらいしかいなくなってしまって、結果としてイスラム国が跋扈する時代になった・・・現状について、「アラブの春にテンション上がって歓声を送っていた世界中の人」は『責任』を感じたりしているでしょうか?

 

そこはもうちょっと責任感じてもいいような気がします。

 

私もそうなんですが、欧米的価値観で生きている知識人は、テーマテーマで「賛否」を表明することに慣れすぎていて、「その場」に責任を持って生きている人間のことを過小評価しがちなんですよね。

 

中東のことなんて、次の日には忘れてるような世界中の人が、

 

「デモがあって、”権力者”っぽい人が打ち倒されてさえいればそれは無条件にいいこと」

 

という物凄く単純化した価値観で火に油を注ぐ結果・・・の「その先の現地での日常」について、「反権力主義をやろうと思う人も、自分事として」考えるべき時なのではないかと思います。

 

そういう「態度」が欧米由来に世界中で猛威を奮っているからこそ、逆に「その場」に責任を持つ人が欧米的理想ごと全部廃棄してやる!みたいになってしまいつつある状況が、結果としてイスラム国につながっている・・・という因果が現代世界にはあるからです。

 

「デモさえやっていればそっちが善」という立場と、「ちゃんとその場の最適に取り組みたい」という人同士が平行線で争っていると、「場の責任」を取る方の人が過剰に抑圧的にならざるを得なくなったりしますからね。

 

三色旗問題で言えば、「その秩序に乗っかって自分も受益して生きてる」ってことを知ることも大事じゃないかってことです。自分はその問題において「無罪」じゃないってことを知ることが第一歩として大事だと思う。

 

で、そこからは、それ理解した上で、三色旗はあげたっていい。やっぱり中東の人のことを考えて自分はあげないぞ、というのでもいい。

 

この話は、デモなんか捻り潰してしまえ的なことを言いたいわけでもないし、欧米中心の世界観に犬のように尻尾を振って一切文句言わずに生きろという話でもありません。

 

あらゆるアンフェアさは正していかねばならないが、その時に、「本当にそれがその場に生きる人のためになるのか」とか、「熱気を持って一時騒ぐだけの人間だけじゃなくて、そこの場に人生かかってる人たちの安定のことも考えられているか」とか、そういう点についてもうちょっとシビアに考えることが、これからの時代に「本当に問題解決を目指す」ならば、重要になってくるのではないかという話です。

 

過去の本でも、例えば「日本がアメリカに勝つ方法」とか「アメリカの時代の終焉に生まれ変わる日本」とかで、一貫して私は「この角度からの問題の扱い方」を考えてきてるわけですが、次の本ではより徹底して「この問題」を扱いたいと思っています。

 

倉本圭造

経済思想家・経営コンサルタント
公式ウェブサイト
ツイッター

 

 

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物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。