トランプ的無茶への対処法は9世紀に空海が教えてくれてた。

ブログというのは一回に読んで貰える分量が限られていて、かつ初めましての方向けに前提条件をあまり置かずに書かないといけないので非常に限られたことしか言えないため、最近毎回のブログに追加して「さらに長文読める読解体力がある人限定」に、「こぼれ話」というものを作ってるんですが。

前回の「こぼれ話」が本編以上に好評で、胸が熱くなったとかプリントアウトして何回も読んだなどと言ってもらえて嬉しかったので、「アゴラ」と「ハフィントンポスト」向けに・・・・つまりはそれなりに長い文章でも読めそうな人に出会えるだろう媒体向けだけに、再構成してアップすることにしました(さらに、この記事自体結構言いたいことがコンパクトに言えた記事になったので、自ブログにも転載することにしました・・・さらに転載されることもあるかも)。


トランプ大統領がどんどん「本領発揮」しはじめて、「まあ実際大統領になったら”ソレナリ”になるだろう」と思ったら全然そうじゃなかった!!という誤算に世界中が恐々としている時代です。

トランプ大統領本人が厄介なだけじゃなくて、彼を取り巻く「トランプ賛成」な人と「トランプ大反対」な人たちとの間の人類的分断がどんどん大きくなって、お互いを徹底的に攻撃しあっているのはいいが、「両者をつなぐようなコミュニケーション」がむしろどんどん排除されていっていくような状況に対して危機感を感じておられる人も多いだろうと思います。

トランプ大統領界隈が色々と「嘘」を言うのは折込済みなんですが、数は確かに多少トランプ側よりも少ないかもしれないが、過去一週間に「反トランプ側」にいる人が流す情報にも色々と「え?あれデマだったの?」と後から分かるものも結構あって、なんか「おいおい反トランプ側まで引っ張られて一緒に”良識”を失ってっちゃったら、みんなが困るだろーが!」と不安になってきます。

ここでむしろ、

「っていうかまず落ち着こうぜ!!」

という毒にも薬にもならない立場が大事なんじゃないかと、これはナアナアに誤魔化してしまおうというわけではなくてむしろ積極的かつ真剣にそう思います。

しかし・・・こんなことを言うと、特に「反トランプ」の立場を真剣に生きておられる人には許しがたい呑気さだったり、「不作為の罪」みたいなものに見えるかもしれません。そう思う人にとってみれば、今回の記事全体がそういう「不作為の罪」に値する、「人々の無関心がナチスの台頭を許した」型の「吐き気を催す邪悪さ」であるように思えるかもしれない。

ただ私がこれを読んでいるあなたに是非考えてほしいことは、そうやって「トランプ陣営の嘘を暴く」「トランプ陣営によって抑圧されるマイノリティを助ける」・・・そういう「攻撃的な対処」とは別に、

「トランプを深く深く支持している人たちの気持ちを理解し、トランプとは違うやり方でそれに応えていく」という対処の方法もあってしかるべきだし、それこそが本当の「根治療法」なはず

なのに、なかなかそういう動きが欧米では大きくなっていかない(ないわけはなくて散発的に聞こえてくるんですが、”攻撃的対処”があまりにも声が大きいのでかきけされてしまっている)のはやはり大問題であるように思われるということです。

個人的に私は、(特に任期後半は)オバマ大統領の大ファンだった人間で、選挙結果が出た時も実際に大統領就任式があった時も、なんか黒い雲にゴゴゴゴゴと覆われてしまうような不安に襲われたりした人間です。だから「反トランプ」の人の気持ちは超わかる。

超わかるんだけど、わかるからこそ、だからこそやっていくべき対処の方向性ってのがあるはずで、で「思考のパターン、クセ」として欧米人には「攻撃型の対処」の方がやはり習い性的に大きくなるのであれば、東洋人たる我々こそ、前述した「根治療法」的なムーブメントの基礎固めぐらいはできたらいいんじゃないかと思って、以下に再掲する前回の「こぼれ話」を書きました。

それは「一神教的な裁きのありよう」が現地現物的な社会の末端で不具合を起こしている現状を補完するための「思考法」で、実はそれを平安時代初期に弘法大師空海が「こうあるべき」と明言している世界観から出てくるんじゃないかという話です。


(写真は2015年の正月に大雪の中行った高野山の”根本大塔”)

「こぼれ話」本編で詳しく述べるように、これは「欧米的世界観」のある種の立場から見ると非常に”邪悪”に見える(戦国時代にイエズス会の宣教師が空海について非常に邪悪な人物だと言ったという話があるそうです)んですよね。(ただし”裁くなかれ”と言ったキリスト本人はむしろこっちに近いと勝手に思ってるんですが)

でも私個人の生まれ育ちの中にこの「空海のメッセージ」は明らかに生きていると感じるし、多くの日本人の人たちの、「欧米的価値観」からすると愚かしさとしか呼べないような性質(しかしそれこそが彼らの美点を支えるものでもある)の中に、この「空海のメッセージ」は含まれているだろうと感じています。

今までの国際社会の欧米的価値観の中で「邪悪さ」として排除され続け、その価値観に別に反対したいわけでもないんだが、しかしどうしても自分の心の底で疼くものが残ってしまうんだよなあ・・・というあたりにこそ、世界が「トランプ的な2つの極論の罵り合い」に落ち込んでいく中での、「本来的な希望のタネ」であると私は信じています。

ちょっとわかりやすい例をあげると、最近小田原市で「生活保護なめんな」というジャンパーを職員が揃いで作って仕事をしていて大問題になりましたよね。

でね、「ちゃんと必要な人に生活保護が行き渡るような制度運営にするべき」という「良心派のゴール」は決して曲げてはいけないと私も考えているんですが、それはイコール「ジャンパーを作った職員の気持ち」を理解しなくていいということではないはずだと私は思うわけです。

実際にあの仕事をしている友人がいて話を聞いたことがあるんですが、普段自分の身の回りには対象者がいないことが多いだろう普通の人の想像を絶するようなタイプの人に時々出会うそうです。で、数は少ないだろうけど、明らかに不正受給的なことをしている人が、露悪的に侮辱してきたりすることもあるらしい。

そういう状況下で仕事をしている彼らに対して、まず「その気持ちはわかるでぇ」から入ることがメチャクチャ大事なはずなんですよ。その上で、”気持ちはわかるけれども”、実際に全体の中の比率で言えば極少ない不正受給に目をつぶってでも助けないといけない人が今はいる時代なんだ・・・というメッセージを出せるかどうか。

そうすれば、

・「勤労者との間の不公平感が出ないようにするにはどうしたらいいか」
・「不正受給を減らしつつ、本当に必要としている人がちゃんと受け取れるような雰囲気作りはどうしたらいいか」

といった問題に対して「ジャンパーを着てる人たちの気持ちと意志と現場感」をも動員して一緒に進んでいくことができる。

大小どんな組織を動かす時でも、大きな理想は常に「現場の良心さん」に対して「納得感」を持ってもらえる方向性や話の持って行き方にしないと、「不服だけど押し切って」実行してもその「不服さ」は永遠に残り続けていずれ暴発してしまいますよね(現場にいる人全員に納得してもらう必要はないしそこは最後は押し切ってしまうべきだが、その現場の彼らを黙らせてくれるキーマンにだけはちゃんと意義や大きな目的ごと理解してもらう必要があるし、そのために”彼らの言葉・彼らの関心”の延長に位置づけていく配慮が必要になる)。

ってこんなこと書くと当たり前すぎることのようですが、たったこれだけのことすらできてない現状がありますよね。むしろジャンパーを作った人たちに対して「これだから野蛮な後進国のジャップ土人どもは困るよねぇ!!」的なエネルギーがギャンギャン唸りをあげて世間を飛び交っている。

そこで「裁き」から入らないようにできるかどうか。そこで今はナチュラルに無意識的に垂れ流されている彼らへの侮辱や蔑視を辞めることができるかどうか。それが今問われているのだと私は感じています。

結果として同じことをやるんでも、「ジャンパーを作った彼らの気持ち」を想像すらせずにバコーンと断罪して進むなら、そのタイプの文明に対して「我がこととして参加する気持ち」を持ってくれる人はどんどん減っていき、いずれ何年かたったらトランプ現象とか、イスラム国みたいな形で「はじき出してしまったものがまとまって復讐してくる」現象から逃れることはできなくなります。

日本人にとってわかりやすい「具体例」で述べてみましたが、とにかくありとあらゆる社会問題から、ありとあらゆる日常会話やネットでのやり取りにいたるまで、「この回路」が作動しはじめない限りは、我々は一日過ごす度にさらにお互いのことがキライになり、トランプ信者は反トランプの人を、反トランプの人はトランプ信者を、果てしなく憎悪していくことになるでしょう。

これの解決のためには、そもそも「欧米人的に人工的な”個”という概念」とか、そういうレベルで現代社会の基礎になっている意識のありようみたいなものから捉え返していくことが必要だろうと思っています。とか言うと「個は常に全体のことを考えて奉仕せねばならない」的に非常に「全体主義的」なことを言ってるようですが、そうではないんですね。

この前「”逃げ恥”が教える本当の自分らしさという記事」を書いた時に触れたような話に近いんですよね。「個」という”枠組み”ではなく「本当の個自体」に着目しなくてはいけない時代なんですよ。

「俺は俺、君は君、一切交わらないのが本来のあり方!」という前提を一応は尊重しつつ、「なんか情にほだされて共感しちゃうわぁ」とか「なんかその気持わかるわぁ」的に「個・同士が勝手に混じっちゃう」のも「自然なありよう」で、それを全拒否にし”なくてはならない”というのは、それが好きな人はそうすればいいけどかなり「無理」してる部分もあるわけです。

他にも、なんとなく共感しちゃう自分。言語的に把握してる自分の気持ちとは裏腹な気持ちが渦巻いている自分。嫉妬したり落ち込んだりする自分。その「千変万化する感情の流れ」を「あるがまま」に尊重するのが本当の意味で『個人主義』だとすると、それは「欧米的な意味での”個”の枠組み」ですら窮屈になってしまうような境地にこそ「本当の個人の尊重」は見えてきたりするはず。

真剣な話、むしろこういう対処を真剣にやらずに”人工的な枠組み”を世界中にゴリ押ししようとするから、反発した生身の感情の行き場が失われて暴走することで全体主義ムーブメントが起きるんですよ。

人工的に作り上げた「決して混じり合わない個という幻想」がはじき出してしまったエネルギーの行き場がなくなって暴走をはじめ、誰の幸せにもつながらない形で結集してしまったものがファシズムなわけです。

だからこそ、どっちが善だとか悪だとか、どっちが倫理的に上か下かとか、欧米的システムが根っこのところで抱え込んでしまっている仕組みを超えたところから「空海の立っていた地平」から全てを丸呑みに再構成することが必要な時代なんですよね。

あまりに大きな話なので、ブログ一回で具体的なレベルまで述べ尽くせるとも思ってないですが、しかしこの文章に何かピンと来たようなあなたはぜひ最後までお読みいただき、あなたの人生の中における「善悪を超えた大欲の世界」について考えてみていただければと思います。



いつか誰もが、「返事」じゃない「言葉」を喋りだすのなら・・・・by小沢健二




では以下、「こぼれ話」本文です。

こちらのリンクからどうぞ。



今後もできれば月2回はこの話題をブログで書いていきたいと思っているのですが、更新は申し訳ありませんが不定期なので、ツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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