牛乳石鹸CMと白人至上主義暴動の共通点とは?

アメリカの「シャーロッツビルの白人至上主義者による暴動事件」と、日本の「牛乳石鹸CMが炎上している話」という硬軟取り混ぜた全然違う話のような2つを並べて、この時代の断絶の最前線みたいな問題の解決は「この一歩」からしかありえないと考えている話をします。

シャーロッツビルの方はあちこちで話題になってるのでご存知の方も多いかと思いますが、「牛乳石鹸CMの炎上」ってなんだ?と思う人が多いと思うのでまずはこの記事から。

ハフィントンポストの記事によると、牛乳石鹸のPR動画で、昔気質の父親に育てられた自分と、「良きパパ」であろうと努力する自分との間の葛藤に悩む主人公のオジサンが、牛乳石鹸で癒されるという動画に対して、

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Twitterでは「あるべき夫とは、父親とは」といった観点での批判もさることながら、「意味がわからない」という困惑のコメントが相次いでいる。

また、あまりにも意図が読み取れず、裏の設定を「勘ぐってしまう」という意見とともに"珍説"も登場した。
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というリード文のあとボロクソのボロクソにけなしまくってるツイートと、そもそも完全にコミュニケーションが成立せず「???意味がわからないぞ???」と困惑しているツイートが並んでいます。

その後、同じく「困惑組」のハフィントンポストの記者さんが牛乳石鹸の担当者への取材申し込みをした上で返答待ちであることが述べられています。

・・・と書いていたんですが、このブログ記事のチャート(図)をデザイナーさんと用意してるうちに時間がたってしまい続報もアップされて、牛乳石鹸さんからの返答が掲載されたところ、慇懃無礼な文面ながら真意としては”ご批判はわかるが私たちとして大事にしたい価値もあるのでなんとか削除はしたくないんですけどその辺よろしくお願いします”感が非常に伝わってくるような内容だったので、これはもう私が「このオッサンの気持ちをポリコレ的にOK(たぶん)な形に代弁」せざるを得ないじゃないか!という気持ちで書き上げました。

実際、ツイッターとかで目立つ意見としては「全否定」の人多かったですけど、プライベート的な関係では”女性でも”「私気持ち結構わかるんだけど」と言ってる人がそこそこいる印象でした。でも強烈な「全否定型炎上」ゆえにそういう「気持ち」があることも消し飛ばしてしまうのは良くないですよね。

だから、一度動画見たんだけどほんと吐き気がした・・・という人も含めて、ここにあるディスコミュニケーションを乗り越えるにはどういう視点が必要なのか・・・という観点から、一度気持ちをゼロにして読んでみていただければと思います。

目次はこんな感じです。

●1脊髄反射的に全否定したくなっちゃうけれど・・・
●2「共感」も「賛同」も不要だが、「理解」のない全否定だけでは改善もできない
●3「理解」があれば「改善」ができ、その結果本当に「相手の嫌な振る舞い」を完全に消しされる道も開ける
●4ちょっとでもスキを見せたら一気に暗黒時代に巻き戻っちゃうんじゃないか?という不安に対しての「ショートケーキ的解決」とは?



では以下本文です。



●1 脊髄反射的に全否定したくなっちゃうけど・・・・

この記事、ここまで文章で読んで、あなたはどう感じましたでしょうか?

まあ立場によって色々だと思いますが、典型的には

・「男尊女卑の人権後進国日本の許せん風習の例がまた1つ・・・もう驚かないけど絶望だわ!」
・「うるせえ神経質なポリコレ狂信者どもがまた次の血祭り対象を見つけたって話かよ。もううんざりだわ!」

のどちらか・・・の極端な例に対して、多くの人はまあどっちかに片足突っ込みつつ、ふーんと思って受け流してるみたいなところだと思います。

で、私がどういうタイプかというと、こういう「炎上事例」の8割がたに関しては、「批判して炎上させる側」に心理的に近いことが多いというか、この前炎上してた”出張行った先の日本中の飲み屋で出会った女の人が次々とエロトークをするお酒のCM”が炎上した時なんかは「よくこんなキモい企画通せるな」と呆れたほどでした。

なので今回の動画も、多分「批判者側と同じ気持ち」になるだろうと思って見たんですけど・・・・これがね・・・・いや、まあ「超いい動画だった!感動した!」ってなったわけではないものの、あまりに「これが完全に理解不能な人」が多すぎるっていうのもそれ自体凄く問題じゃないかと思ったんですよ。

繰り返すように「賛同するべき」「共感するべき」とは全然思わないんですよ。でも「これを理解できない」っていうのは物凄く重大な断絶だと思うんですよね。

もっと言うならば、たとえ「理解できなく」てもいいけど、「理解しようとしてみる」気持ちすら全然湧いてこない感じでボロクソにけなしまくってる人がこんなに多いというのはこれはハッキリと社会の危機的状況と言えます。

なので、普段は「どうせいつものキモい男尊女卑文化の動画なんだろう」という先入観を払い除けて、虚心坦懐に一応この動画を見てみて欲しいんですよね。

動画リンクはコチラです。

まあ、失敗して落ち込んでいる部下がいたからってよりにもよって息子の誕生日でしかも奥さんにケーキ買ってきてって言われたその日に飲みに連れていくことないんじゃないかとか、部下をフォローするやり方が飲みに連れていくってそれ逆に負担になってたりしてないか?とか、ゴミ出しした程度の家事分担で偉そうに被害者ヅラかよ!とか、そもそも同じ行動をするにしても電話に出てちゃんと説明して理解を求めればまだマシだったんじゃないかとか、その他色々とツッコミどころ満載なので、繰り返すように「賛同するべき」「共感するべき」とまでは全然言えないです。

それに、凄く炎上すること自体が、日本社会においてある種の現代女性が非常に生きづらさを感じていて、家事分担等の非常に現実的な事情において不公平感が募っているので、乾いた火薬庫がもともと用意されていたってところがあるんだろうという理解もできます。

ただしかし、「親父が俺に与えてくれたもの、俺は与えられてるのかなあ」っていう台詞とか、主人公が「父親が仕事にでかけたから壁打ちで練習していた記憶と、キャッチボールの用具をいそいそと買っている自分との対比」で何を感じているのかとかが、多くの人にとって完全に理解不能というのもさすがに断絶がひどすぎるように思います。

特に、

「何も語らない父親の背中を流した記憶を反芻しながら、”その記憶が今の自分を支えてくれていると感じている”感覚」

は、ある種の「勇気」とか「侠気」とか、そういう気持ちに値する大事な生の実感だと思いますが、それを自分は自分の息子に与えられてるんだろうか?という真摯な問いかけとか・・・これはなかなか否定しがたいものがあるように私には思われます。



●2共感も賛同も不要だが、「理解」のない全否定だけでは改善もできない

これ、「理解できれば代替案も出せる」けど、「理解できない」「理解する気もない」だと単純に罵るしかできないじゃないですか。

なのでこの不肖この私めが代弁いたしまするとですね、

世の中にいるすべての人間が「自分の私的な家族のことだけ」を考えるようになって、職場で失敗して酷く叱責されてショックを受けてる部下がいても誰もフォローしない、そういう社会になると「こぼれ落ちた」人間は果てしなく誰にもフォローされずにこぼれ落ちていってしまうんじゃないか?自分の子供だけでなく、より大きな「公」といったものを優先する姿勢を見せてくれた父親の背中によって生きる指針を得られたような、そういう「父親として息子に示してやれること」みたいなのって、自分の父親がしてくれたような、そしてそれが今確かに自分自身の生きる勇気になっているような同じようなレベルで、自分は自分の息子にしてやれているんだろうか?「こういうもの」が伝わらなくなり、誰も見向きもしなくなっていく今の社会では、結局どこか社会の目立たないところに果てしなくシワヨセが送られていく悲劇が起きていくんじゃないだろうか?

みたいなことなんですよ。いや私は動画の製作者じゃないんで想像ですけど、おそらくこのCM動画でオジサンが風呂に入りながら思ってることはね。

でね、もうこういう「オトコの自己美化の語りのモード」の時点でゲロ吐きそうになってるフェミニストの人もいるかと思いますし、実際にはこういうロマンチシズムに糊塗された単なる男のエゴってのが世の中にはいっぱいあるので、男がこういうモードに浸ってる時に女は口出しすんじゃねえ!とか思ってるわけでもないんですよ。

でもこういう風に「明文化」すると、この動画に吐き気しか感じなかったアナタも、社会に対する自分自身の問題意識とどこか共通するものを持っているような感じが出て来るんじゃないですかね。

たとえ「公」とか「父親として示せる価値」とかいうワードには吐き気を催すタイプの人でも、たとえば

「社会があまりに個人主義的になりすぎて、弱肉強食の競争社会の中で”敗者”が生きていける余地すらなくなってきつつある。それを旧時代的抑圧に戻すことなく何らか包摂する手段が必要ですよね」

みたいな言い方をすれば、まあ、そうだな、自分もそういう風な願いを持つことってあるわ!って思ったりするんじゃないかと思います。

で、この両者を並べてみると「課題の認識は同じ。解決策の方向性についての意見が真逆」ということなんだということが見えてきます。

だから具体策について考え始めると、前者は

「古い時代の仕組みの延長をやはり残しながらサポートを広げていく部分も必要じゃないか」

という「草の根の目配りの力」を信頼する方向に行くし、後者は

「そんなことされたら時代が逆戻りしちゃうじゃないの。そういうのじゃない新しい包摂の社会的仕組みの構築が必要なのよ」

というある種の「社会システムとしての解決」を目指すことになるので、凄い対立しているような感じはするんですが、しかし「課題は同じ。方法論が違うだけ」という認識が見えてくれば、それなりの希望も見えてきます。

こういう問題が起きた時に私がいつも考えることは、社会は一個の部屋みたいに狭いところじゃないってことです。そしてデジタルに「はいこの部屋は旧時代モードです」「はい今からこの部屋は新時代モードです」的にオンオフのスイッチで切り替わるようなものでもない。だから、ジョジョの奇妙な冒険の台詞で言うと

「ポルナレフは追いながらヤツと闘う」………「 おれたちは逃げながらヤツと闘う」つまり ハサミ討ちの形になるな…

という方法論が可能なはずだということです。

今はちょっと関係が遠くなってしまったんですが、以前「貧困児童への無料食堂ボランティア」にコミットされている女性と深く色々と話したことがあるんですが、

「育児は家庭によるべきかシステムによるべきか」的神学論争とは別に、「目の前にお腹をすかせた子供がいる」っていうことが厳然たる事実なので、実際にその事業へのサポートをしてくれる存在の中には「どちらの派閥」の人もいるし、私たちとしても「サポートしてくれるお金に色はついてない」と思ってどっちでもありがたくいただいている
・・・という話にはなかなか「現場的リアリティの迫力」を感じて感動したのを覚えています。

これ、面白いのは「派閥論争」に熱中している人は、「自分の敵」側にいる人間は決して「自分の課題」に対して心を痛めている人は絶対に絶対に絶対に一人もいないと潜在的には信じている人が少なくないように見受けられることです。

「イエでなくシステム」派の人は、「イエにこだわる奴らは自分のイエの沽券みたいな時代遅れのプライドだけが大事でその影で死んでいってる子供たちがいたって決して心を傷めない冷血漢ばっかりだ」と思っているし、「システムでなくイエ」派の人間は「システム派の人間は自分が掲げる最先端の正義に叶う理想的な”かわいそうな人”をでっちあげて古い仕組みを壊すことにしか興味がなく、実際にこういう問題に心を痛めてちゃんとカネを出すのは大家族主義の俺たち側の人間だ」と思っているところがあります。

しかし実際には、論争にしか興味がない人も、ちゃんと「論争でなく”実弾”としてのサポート」に参加する人も、右にも左にもどっちもいるってだけの話なんですよね。



●3「理解」があれば「改善」ができ、その結果本当に「相手の嫌な振る舞い」を完全に消しされる道も開ける

では、冒頭の動画に戻ってきましょう。色々と批判者には言いたいこともあろうかと思います。だから共感も賛同もしろとは決して言いません。が、「全く理解できない」あるいはもっと言えば「理解しようと思う気持ちすら全然ない」というのはヤバイです。

もしこの「課題」がちゃんと明晰に対象化されて、このブログ記事のように「言葉で語れる」文脈が社会の中で自然に共有されるようになったら、このオジサンはちゃんと電話に出て事情を話したかもしれないし、わざわざよりによって子供の誕生日の「その日」に飲みに行くこともなかったかもしれない。何を言われても一人で抱え込んで、「悪かった」って一言だけ言うみたいな「男は黙って型ディスコミュニケーションの極み」にも陥らずに済む。

もっと言えば、ちゃんと「理解」が先にあれば、

「古い時代の飲みニケーション的な形ではない、ちゃんとうまくフィットしていない働き手にもシステム的にサポートが行われるような経営のありかたがそもそも必要なんで、泥縄式に就業後に誰かが家族との時間を削って飲みに誘ってなんとかし続けなくちゃ崩壊する会社になってる時点でダメなのよ」

という今の時代超超超超重要な視点も見えてくる。黙って風呂で「俺はちゃんとやれてるんだろうか?」って黙念としていたオジサンも「そういう指摘」だったら「そうだな!」と思うんじゃないかと思います。

そこまで行ったらあとは「知恵を出し合って解決策を考える」だけです。

でもそのためには「共感や賛同はいらないが理解は必要」ですよね。単に「ゴミ出しとか家族サービスとかしたくないのにさせられてるからスネてるだけなんだろうこのオッサンは」的な認識でいたら全然改善していかない。

今の時代、この「相互理解があれば共通の基盤の上に全部捨てて新しい仕組みに移行できる」のに、「壊し手」は「旧時代の仕組みにあった隠れた合理性」みたいなのをちょっとでも理解するつもりすらないからただ罵倒し続けるだけだし、「守り手」の方は全部壊されて社会が崩壊するに任せるわけにもいかないけどちゃんと相手に伝わる言葉を持ってないから前時代的な嫌がらせかあるいは「男は黙って型ディスコミュニケーション」でゴリ押しするしかない・・・みたいな不幸が日本中・世界中にあります

勿論改革の初期段階においては「有無を言わせず攻撃」して問題を周知することが必要だった段階もあったわけですが、既にそれが必要な時期はすぎて、多くの「古い価値観でまだ生きている人」も「今はどうしてもその古い価値で守られているものもあるから一気に移行はできないけど、”一緒になってその古い価値の新しい方法でも代理実現方法を考えてくれるのなら、一緒になって身軽に新しい価値観に移行していけるのになあ!」という時期になっているということです。

その「一緒になって解決策を考える段階」においては、「古い価値観側が感じている違和感」から、「意味あるもの」と「単なるエゴ」をより分けて取り出していき、新しい価値観的にOKな手法でそれを代理実現しようと知恵を出し合うことが必要です。

そのためには、「古い価値観側が感じている違和感」を「ちょっとでも表明しただけでボッコボコに否定される」ような状況は「ちょっとゆるめて」行くことも必要です。

そういう態度で無理やりに押し切っても、それで「あなたの敵」は「納得」したわけでは決してないことに注意しましょう。むしろ「俺たちの事情なんか全然聞かずにネジ込むだけネジ込んでくる奴らだ」的なこじらせ方をして、いずれ社会の中に溜まりに溜まった怨念のエネルギーが、「これ以上の改革なんか絶対受け入れてやるか!」という意固地さになって、あるいは世界的には強烈なテロリズムとか白人至上主義運動とかとなって「しっぺ返し」が帰ってくるでしょう。



●4ちょっとでもスキを見せたら一気に暗黒時代に巻き戻っちゃうんじゃないか?という不安に対しての「ショートケーキ的解決」とは?

こういう方向の議論・・・ある種の「”過剰なポリコレ”叩き」というような論調はここ10年ほど徐々に世界的に高まってきている(特に日本では)と思いますが、シャーロッツビルの悲劇などの「一線を超えすぎてる」ような事例が頻発してきていることによって、以前なら「ちょっとでも古い価値観に理解を示す」だけで強烈アレルギーだった層にも徐々に、「ある程度一歩引いた状態から見直さないと、ただ単に果てしなく過激化するだけではどうしようもないんじゃないか」というセンスは共有されてきつつあるように思われます。

しかし、ツイッターなんかを見ていると、この「ちょっとでも」の話でも猛烈に反対だ!絶対に許せん!という層もまだまだかなりのボリュームでいるように思いますし、世の常としてそういう人の方が「まあまあ派」より声が大きいのでむしろさらなる「過激化」は進んでいく情勢となっています。

ただ、もしあなたが、この記事を読んでも「原理主義的反対」を貫きたいと思うタイプなのなら、それはそれで必要なことかもしれないとも私は考えています。

さっきも書いたけど、「牛乳石鹸のオジサン」の中には「古い価値観が持っていた社会運営上の智慧」と「オッサンの自分勝手なエゴ」が混在していて、一緒くたに全部「当然認めろよ」ということになるとそりゃ色々と問題が起きるだろうからです。

だから「自分は最後まで徹底した監視を続けるんだ」という人は、あなたの中にそういう情熱が嘘でなく燃えているうちは、それにある種の必然性があると考えていい。

でも実際には今後あまりに「非妥協的すぎるぶつかりあい」は誰のためにもなってないよね・・・という空気は世界的にも明確に形成されてくると私は思います。既にそうなりつつある。

その時に、「あまりに無反省的に昔に戻る」ことなく、「旧時代にあった配慮の豊かさを取り出しつつ不必要な抑圧に戻らない」ために必要なことは、特有の「全否定的でない思想の交通整理」のようなものであると私は考えています。

それは、よくある例え話で言うと、

ショートケーキを二人で分ける時に、単に真っ二つに分けるのが「最善」かというとそうでないこともある。
もし片方がイチゴ大好き人間でケーキはそこそこ、もう片方がイチゴは嫌いだがクリーム大好き人間だとしたら?
ならイチゴ好きな方にイチゴの大半を渡し、もう一人がクリームケーキの大部分を取るのがいいかもしれない。
”適切な配分量”であるなら、見た目の配分がかなり偏った結論が”最善”であることは良くある。

みたいな話です。

基本的に「男は黙って」型のタイプの人間の感情パターンというのは、「めったなことではキレない俺」美学みたいなところがあって、牛乳石鹸のオジサンが色々な思いをすべて飲みこんで粛々と「良きパパになろう」と頑張っているように(結局最後には子供がまだ起きてる時間帯には帰ってプレゼント渡してる様子も映ってるわけですし)、実際には「人種差別しないようにしよう」という社会的運動に末端で参加するぐらいのことに巻き込んでいくこと自体はそれほど反対しないタイプであることも多いわけですね。

しかしそういう人の怒りのパターンは「ここだけは踏んじゃあならねえだろう?人間としてよぉ!?なぁ?」というような一線があることも特徴で、要はそこさえ踏まずに配慮できさえすればいいという構造なんですね。

だから実際にはこういう「右と左の論争」については、

・「左と右で折半して妥協しましょう」

では決してまとまることはありませんが案外、

「左が99%取ってもいい。時代の流れもあるしそこは認めよう。しかしな、この残りの1%だけは、決して譲るわけにゃあいかねんだぁ!」

という形を認めることができるかどうかにかかっていると、個人的には感じています。しかし左の人はその「右の1%」に過剰に幻想含みの憎悪を抱いていることが多く、現実にはなかなかそうなりませんけれども。

例えば今回のシャーロッツビルの悲劇は「南軍のリー将軍の像を撤去する決定に対する抗議」がスタートだったこととかが妙に私は気になります。

南北戦争の南軍の象徴というのは、「奴隷制に対する課題」とは別に「地域vs地域」の愛郷心同士の争いでもあるわけですよね。そしてそれは「そういうことを大事にしたいタイプ」の人にとってはまさに「譲りたくない1%のこと」なんですよ。

想像してみて欲しいんですが、山口県出身の日本の首相が「会津など賊軍なのであるから会津の観光地化などまかりならん。白虎隊の記念碑など破却せよ」とか言ってる状況を想像するとそこに生まれる「怒り」はちょっと相当なものであることが予想されます。

この長州vs会津の争いの場合は、その”正義”が既にちゃんと相対化されてるから実際にはこういう問題は起きませんが(まだ多少はあるけど笑い話で済む程度になる)、アメリカ南北戦争の場合はこれに”人種差別問題という錦の御旗”が乗っかってくるので、のしかかられる側の鬱屈感は実は超重いと想像されます。

これ、「この問題に対して”命がけで”怒るタイプ」の人と、「”全然”そういう怒りが理解できないタイプ」の人がいるから難しいんですよね。でも「自分は理解できない」としても「そこが凄く重要だと思う人がいる」ということの理解は超大事なことです。

「人種差別は撤廃していくべき」という運動って、「リー将軍の像」を否定しないと完遂できないものなんでしょうか?

私が今、本を出す予定で準備している出版社の女性社長(”女傑”といっていいタイプの人なんですが)が、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラが理想の人物だって言ってるのを聞いて、「この人がそんなに入れ込むほどのキャラクターなのか?」と思ってわざわざ長い長い映画を見たってことがあったんですけどね。

ご存知「風と共に去りぬ」は南北戦争時代を南軍側の視点から描いた作品で、黒人奴隷が「白人のご主人さま」と結構楽しそうに暮らしてたりして、色々とポリコレ的に今は問題視されてる作品ではあるんですよ。

で、その主人公スカーレット・オハラは結構ムチャクチャやる人物なので、あらすじを読んだだけでは「こ、このムチャな人物のどこにそんな入れ込める要素があるんだ?」って思っちゃうんですけど。

でも、実際に長い長い映画を我慢して見てると、まあ全編の半分ぐらいを占める「平和な時代」のシーンではかなり「困った人」なんですが、南軍が戦争に破れて南部諸州がメチャクチャな状況になってる時期に必死に生き抜くスカーレット・オハラは超絶カッコイイです。なんか善とか悪とかいった判断を超える生命の輝きみたいなものがあって、腹の底からの勇気が湧いてきます。自分も強く生きようと思う。「これが理想の人物」と思う女性もいて全然おかしくない。

でね、人種差別を撤廃していく時に、「そういう勇気の源泉」を人々から奪いまくる結果になるのは誰のためにもなってないんですよね。なぜなら現代の「ポリコレ」的な運動に反対する人たちが一番大事にしたいと思っているのは、「システム云々」ではなく「自分自身」がここに留保なく生きていて、自分の力で道を切り開いていけるんだという自信の源泉のようなものが奪われる危機感であったりするからです。

「南軍のリー将軍」の像を撤廃することは、南部の人たちが歴史的に大事にしたい「風と共に去りぬ的ダンディズム」といったようなものまでまるごと全部否定することになってしまっているんですよ。そして撤廃しようとしている側にいる人間は、相手側にとってそれが”どれほど大事に思われているか”に対して鈍感すぎる状況があるわけです。

別に人種差別を辞めようとすることにそこまで反対なわけじゃない。けれども、自分が大切にしたいと思っている価値観をボッコボコに破壊しようとしてくる奴ら”が”大事にしている価値観なんて、なんで俺たちが協力してやらなくちゃならないわけ?別にもともと反対ってわけじゃないけどムカつくから絶対反対してやるぜ!

・・・となってむしろ当然です。それでも無理やり押し切り続けたら溜まりに溜まった怨念が噴出してヒドイめにあいますよ。

ちょっと状況が日本とかなり違うので理想主義的すぎるイイグサに聞こえるかもしれませんが、「現代のスカーレット・オハラとして生きるわ」って言う黒人の女の子がいていいし、そういう女の子が出て来ることが本当の意味で人種差別を乗り越えたことなんじゃないかと私は考えています。

例えば幕末の日本史で活躍した人物群は下級武士中心とはいえまあ武士のはしくれですよね。坂本龍馬も勝海舟も高杉晋作も武士階級の生まれで、あれだけ「万人のための偶像」的な扱いの西郷隆盛が生まれた薩摩藩は武士だけが偉そうでそれ以外を凄い抑圧する社会だったとかよく言われてます。

で、そういう「社会的不平等を分析して現代社会では違う方向でやらなくちゃね」っていうのは当然のことですけど、多分多くは農民の子孫で、自分の先祖は決してそこに参加できなかっただろう多くの日本国民が「維新志士」に自分を投影して自分が生きる指針にしてたりするじゃないですか。

在日韓国系で子供の頃は差別とかあった孫正義氏も坂本龍馬が大好きで、しょっちゅう自分を龍馬になぞらえるような発言をしてたりする。

そういう「勇気の回路」に水を刺さないことと、「社会的に新しい価値観を導入していくこと」って両立できないはずがないですよね。

むしろ、多くの生身の生きている大衆の「勇気の回路に水を刺されたくないという切実な気持ち」ゆえに「歴史修正主義」も生まれてるので、「そこはそれ」として保全されるなら、むしろ「今の時代ならこうだよね」という議論を全否定する理由が根っこからなくなることになる。

例えばキリスト教の聖書に関する”実証主義的歴史研究”って沢山あるけど、だからって大手を振ってキリストを信じてる人のことクサすような振る舞いは普通しないじゃないですか。勿論腐敗した聖職者が批判されることはあるけど、それはその「個人」の腐敗の問題であってキリストを侮辱してるわけじゃない。

そこの「切り分け」ができれば、「”クリエイティブなショートケーキの切り分け方”的な99%と1%の問題」が解決できる。日本の「歴史認識問題」だって解決の道が開けますよ。

というかそれができない限り永遠に、人間社会は「最新の”正義”の流行がはじき出して蹂躙したものたちの恨み」をテロや過激主義の形でしっぺ返しされる恐怖に怯えながら生き続けることになってしまう。

ただ、この「残り1%」の話はある種のロマンチシズムに関するものでもあって、親父の背中を流してる子供時代の記憶を思い出しながら自分の生きていく原点を思い出そうとする男の動画に吐き気がするような女性がいたとして、その人はそういうロマンチシズム自体を徹底的に足蹴にしたいと思ってしまうかもしれませんがそこでふと、逆に例えば女性のロマンチシズム・・・個人差があるのであくまで一例ですけど結婚式にまつわる色んな儀式的要素とか?に関して男側があまりに無理解な態度をとったりしたらどう思うかを考えてみるといいかもしれません。

「1%の儀式的価値」が「99%の実質」における協業を可能とするのならば、「1%」を認めてやれる度量を”お互いに”示し合うことが相互理解であり、愛というものではないかと私は考えます。

ただ、さっきの貧困児童の無料食堂の話のように、「決してどちら側も押し切りきれない神学論争」に熱中する人が熱中すればするほどハタから見るとその論争自体のバカバカしさが明らかになってくるので、これがさらにエスカレートし続けると今後は逆に「それはそれとして、困ってる子供を助けることが大事だよね」という方向に「普通の人」を誘導しやすくなるという「神の采配」はあるように私は感じていますけどね(笑)。

そのためにはまず「理解」です。

一番良くない態度は、白人至上主義者たちは「時代に取り残されて過去の支配層としてのプライドと地位を守りたくてダダをこねてる人たち」だと思ったり、「この牛乳石鹸のオジサンはゴミ出しとかはオンナのやることだし俺はやりたくないのに、やれやれ時代だから仕方ないね、我慢しよう・・・の気持ちを洗い流してるだけなんだろう」と思ったりして否定する、「自分側にいる人間だけがまわりを思いやれる度量の広い人間だけど敵側にいるコイツは自分だけのことを考えている小さいヤツに違いない」と決めてかかる傲慢さだと私は思います。(実はこういう相手を見くびった態度自体が既に自然的に相手に伝わって、具体的にどういうコミュニケーションを取ろうと決して不可能な断絶を”既に”産んでいると私は感じています)

実際にそういう自分のことしか考えてないタイプの「敵側の人」もいるだろうということを否定しないものの、集団でそういうムーブメントがある時に、「そこに何らかの潜在的合理性」があると思う態度から相互理解は始まります。

繰り返すけど、「理解」しないと「なくせない」んですよ。

理解せずに罵倒だけしてると「決してコイツは俺が大事にしてることを理解しようとしないやつだ」っていう恨みがどんどん敵側に貯まって行きます。そしたら短期的には罵倒し続けて押し切ることができるかもしれませんが、「そこにあった問題」は放置されたままなので決して押し切り切ることはできない。いつまでもグズグズと押すに押しきれない無間地獄が待っていますよ。

今回の話を図にまとめると以下のようになります。

(ちょっと台詞多いですがクリックで拡大するので細部までどうぞ。)



最後に大真面目な話をします。

アメリカの貧困白人問題(例として出していますが現代のあらゆるこの系統の問題も同じです)は、結局経済格差の問題なんだろう?という見立ては、半分正しく半分間違っていると私は思います。

おそらく、この記事で書いたような問題にしっかり対処した上で、その上で問題解決に必要な「経済格差面での対策」を「10」ぐらいだとすると、この問題を直視せずにむしろさらに過激化して彼らの心理的安定の源泉をブチ壊しまくりながらの上での、「問題解決に必要な経済格差面の対策」は、「300」や「1000」を注ぎ込んでも全然足りない、むしろ世界中のすべての金持ちが俺たちと同じぐらいの困窮を味わうまで決して満足はしねえぞ!・・・ぐらいにエスカレートする可能性すらあります。

トランプ当選まではいわゆる「貧困白人問題」に目を向ける人すらほとんどいなかったわけですが、その後の彼の国および世界中の「良心派」の反応は、彼らに目を向けたってこと自体は随分と進歩したようで、それは結局経済面の格差のみに注がれており、例えるならなんかイケスカナイ金持ち連中が財布を取り出しながら、「で、コイツらはナンボほどめぐんでやれば満足しておとなしくなるんだい?」と相談しあってる雰囲気がプンプンとしていて、個人的には「そんなので解決するはずねーじゃん(というかその”態度”がさらに火に油を注いでるってわからんのか?)」という感じがします。

この混乱を収められるのは「新しい価値観」であり、今までの価値観で疑いようもなく正義だったものの傲慢さや欺瞞が白日の下にさらされていくと同時に、今までの価値観ではちょっとでも匂いがした程度で徹底的に排除されてしまっていたようなものの中に潜んでいた未来への希望を、過去の暗黒時代に戻ったりはしないように注意しながらも丁寧により分けて善用していくことが、必要になってきます。

その時代に、今まで日本の「後進性」としか受け取られてこなかった価値の善用も可能となる。そして「善用」されることによってのみ、その「良くない性質」の部分ははじめて思い残しなく捨て去って身軽な社会になっていくことも可能となるのです。

まあ、これを読んでいるあなたと協力しながら、焦らず、自分たちが受け継いだ自然性に悲観せず、かといって昔からやってるからといってもう自分にも時代にも合わないものはどんどん脱ぎ捨てていきながら、「われわれの価値」を提示していければと願っています。



それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

ちょっと最近本を書いてる分ブログやツイッターでの露出が減っていますが、「いつになるんだよ」とか「出す出す詐欺」とか言われ続けて幾数年の次の本はちょっとずつ進んでいます。もう少しお待ちいただければと思います。

その間、今回の「99%と1%のショートケーキ的解決」については、遠藤周作原作のハリウッド映画「沈黙」についての話から、テスラのイーロン・マスクに敗けないための日本のあるべき勝ちパターンについての話などの繋がる以下の記事なんかをどうぞ↓。
「直接的でなくても伝わる力こそが真実」という話について。

あと、「日本の歴史問題」については、昔靖国神社について真面目に考えて書いた以下の記事をどうぞ。最近書けた今回の記事ほど「論理的で冷静」には書けていませんが、昔の私の暑苦しい口調でよければ同じ趣旨をより広い視点から語っていて、元帝国軍人だった方からも(そして元全共闘運動の参加者のような非常に”左翼的”なタイプの方からも同時に)感謝と賛同のお手紙をもらったりしました↓。
日・中・韓が心の底から仲良くなる唯一の方法。


倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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