ウィーン・フィルとグローバリズム、新しいリーダーシップのかたち。

今、村上春樹氏と小澤征爾氏の対談本『小澤征爾さんと、音楽について話をする 』が出てるんですよ。それが凄い面白くてですね。村上春樹氏の過去のエッセイのファンなら多分絶対面白いと思う(二人分の良さが載ってるんだから当たり前かもしれないけど)し、なんか、久々に「村上春樹ってやっぱ凄いとこは凄いな」って思ったんですよ。



僕は、村上龍作品は、ほんの数作(”五分後の世界””希望の国のエグゾダス”)物凄く「おおおおお!」って思った反面、8割ぐらいの作品は全然読めないってタイプなんですけど、村上春樹作品は、どれもこれも完全に同じように「7割5分」ぐらいは「なるほど、いいな」ぐらいの微温的に好きな感じで、でも常に2割5分ぐらいは「ほんとこの世代のオッサンはしゃーねーな」って思いながら読んでるって感じなんですけど(笑)

「1Q84」も結構好きだったんですけどね。特に、僕も妻もロマンティストなんで(笑)、最後の方で二人がやっと出会えてからとか、いいなあ!みたいな感じで。なんか、ああいうところ、彼が今まで描いてこなかった、照れて(なのかなんなのか)一歩手前でやめちゃってた領域にためらわずに入っていったなあ・・・的な感じがあって、よかったねええって二人で言ってたんですけど。

ただ、僕アバもクィーンも大好きなタイプなんで、主人公の女の子に「コラてめー、フレディさんのことディスってんじゃねえぞ!」とか思ったりして。いや、小さなことのようですけど、アバとかクィーンみたいな「みんなのための感傷的な希望」を否定しちゃったらそりゃあんた個人はタフでクールでカッコイイ人生送れるかもしれんけどな、それやったら最後の大きな希望がないやんか、っていうのがいつも村上春樹作品を読んでて思うことなんでね。

「ウィーアーザチャンピオン、マイフレーン、ウィーキーポンファイティーントゥージエーン」とかね、「アンドウェニューゲッザーチャーアアアーンス、ユーアーザダンシンクィーン、ヤンガンスィーオオオオンリーセエエエブンティーン」とかね。ああいう「みんなのために必要なメッセージ」っていうのは、現状の個人的人生にとって多少(というかかなり)幻想を含んだものであっても、それ単体での存在意義が凄くあることだと思うんですよ!・・・それを信じることで今日一日死なずに生きることができたって人もいるはずだってぐらいにね。

そこんとこがね、毎回村上春樹作品を読んでると、「あんた一人突き抜けられたらそれでいいのかよ」って思ってしまう部分なんですけど。(まあ、それをやりきること自体に彼の存在価値はあって、僕個人もそれを盾というかツールとして利用させてもらってここまで来たんで、批判すること自体がお門違いだというのはわかってて言ってるんですが)

・・・とまあ、それはともあれ、この『対談本』は凄い面白かったんですよ。クラシック音楽なんて興味ない人も、これ、2つ前の「ジョブズ的リーダー幻想」の話に関わってくることだし、僕もそれほど深いクラシックファンでもない人間としての立場から書いていくんで、ご理解いただけるような文章にしたいと思ってるんですが。

こういう、ちょっとスノッブになりがちな話題は、「語り手の資格」みたいなんを結構気にする人がいると思うんで、ちょっと書いておくんですけど、僕自身はそれほどクラシックのこと詳しいわけじゃないんですよ。全く知らないわけじゃないですけど、ベートーベンの名前付いてない交響曲は、聴いても何番かわからないってぐらい。ましてやブラームスやマーラーやドボルザーク・クラスにいたっては、一番有名な一曲の一番有名な部分ぐらいは知ってるかなぐらいの人間で。今の有名な演奏家や指揮者の名前もあまり知らないって感じです。

でもね、僕高校の時に、合唱部の学生指揮者として、かなり「青春を賭けてた」とこあるんですよね。で、一応全国大会まで行ったりしたんですよ(まあ、当然”うぬぼれるなよ、お前の力で勝ったのではない。ガンダムの性能のおかげで勝ったのだ”byランバ・ラルっていう状況ではあるんですが)。で、大学でも合唱団の指揮をやってね、なんか、「指揮っていうもののリアリティ」は凄い体感してるんですよね。なんつーか、メトロノーム的な役割をやってるだけっていう人も学生指揮者には多いんですけど、そのへんかなり「命」賭けてやってた部分があったんで。だから本の中で凄く「そうなんだよ!」って思う部分があって、それが本ブログや新書の中で追求していっている「新しいリーダーシップのあり方」についての発想の原型になってるなって思ったんですよね。だから、この「例」を出しながら話していったら凄くわかりやすい文章になるだろうなって思ったんですよ。

まあでも、経営コンサルタント・経済思想家の分野は「職業」ですけど「指揮」は所詮アマチュアの世界のことなんで、以下の文章の音楽に関する部分は、「華麗なパスサッカーに憧れてそれを追求してインターハイベスト16ぐらいまで行ったけど、ガチガチのディフェンスからのカウンターサッカーの相手高校に敗れたことを今だに根に持ってるオッサン(今はサッカーと関係ない仕事してる)が、酒飲んだら”やっぱバルサのサッカーはいいよなあ”とかウザい語りをしてくる」ぐらいの感じなんだと思って読んでください。



で、この本の中に、小澤征爾氏が個人的に師事した二人の指揮者、バーンスタインとカラヤンのことが、両者の普段のキャラクターの違いや音楽の作り方の違いを浮き彫りにする形で出てくるんですね。で、その両者とは大分違うキャラクターとして、ベームっていう指揮者も出てくるんですよ。その「三者三様」と、小澤征爾氏がやってきたこととの関わりが、2つ前の記事の「ジョブズ的リーダーシップ」の話や、1つ前の記事の「グローバリズムを受け入れた上での新しい共同体」の構想に凄く関わってくることなんですね。

いくつか音源を聞いたらすぐわかることですけど、カラヤンって凄い「ジョブズ的リーダー」なんですよね。凄く明確に強力なリーダーシップがあるタイプっていうか。指揮台から最初の音を出させた時点で、もう一気に「その世界」に引きずり込むパワーがある豪腕なタイプっていうかね。

ウィキペディアとかネットでの評価を見ると、そういうのよりも具体的な「精緻にコントロールされた音の出させ方(録音に耐えうるような方向性の)」の新しさが、「全身でドイツ精神を体現する」的な「19世紀的指揮者」とは隔絶してたみたいなことを書いてあることが多いんですが、でもそういう流れ自体はどんどん20世紀の間に強化されたんで、「もっとそういうタイプ」がたくさんいる今みたいな時代では、むしろその「19世紀寄り(たぶん)」な部分がカラヤンの特徴と言っていいと思うんですよ。現代の耳でストレスなく聞ける録音の中で、最も「19世紀的巨大なエゴ」みたいなのを堪能させてくれる存在みたいな感じが。

どれが名演・名盤かっていうのは、多分もっと詳しい人がいると思うんですけど、ベルリン・フィル&カラヤン&ベートーベンの「運命」とか「英雄」とかね、もう最初からガツーンと来る感じなんですよね。

指揮台から睨み効かせて、

「(ムン!)、ジャン!・・ジャン!」(英雄)
「(ムン!)、ジャジャジャジャーン!」(運命)

ってなった時点で、「見ておれ軟弱民族ども、ドイツ民族の音楽ってのは、コー演るんだッ!!」っていう感じ(いや、僕の勝手な感想であって、彼が人種差別主義者だとかいうわけじゃないです)。

で、『対談本』にあったとおり、カラヤンは凄く長いフレーズをかなり意図的に明確に全員に意識させる感じで、運命だったら、「じゃじゃじゃじゃーん」二回のあと、「たららら、たららら、たらららーん」っていう弦のかけあいが始まったあたりからもう明確に次の「じゃじゃじゃじゃーん」の前の暴発部分、「ちゃちゃらじゃっ!じゃっ!、じゃああああああああああああああん(→じゃじゃじゃじゃじゃーん)」を「指揮者だけじゃなくてみんな」が明確に「意識」してて、そこに向かってだんだんクレッシェンド(だんだん音を大きく)ってだけじゃなくて明らかにアチェルランド(だんだんはやく)していく感じで、「キメポーズ」の部分になだれ込む。

で、一周目はそれほどでなくても、次の二週目はもっと明確にクレッシェンドとアッチェルかけてって、最後袈裟懸けに二発日本刀を振り下ろすようにじゃん!じゃん!みたいなね。

もちろん、こういうのって、指揮者としては誰しもが考えることなんだけど、息の長いフレーズを説得力ある形でまとめ上げるのって、マジで「豪腕」が必要なんだよね。もう「支配してやる」っていう、そういうパワーが必要。「ここから4小節アッチェルしまーす」「はーい」でできるもんじゃない。いや、なんかテンポを変えること自体はできるんだけどカラヤンみたいにはならない。なんつーか、「重いものを無理に動かすように」加速させないと音楽に迫力がないんだよね。「アッチェルしまーす」「はーい」だと、「軽い音楽が滑ってはやくなる」感じになるんで、だからむしろ「重いものを無理矢理引き回す」感じっていうか、「停止状態の車のアクセルをガツーンと床まで踏み込んで、タイヤがギャアアアアアアアって空回りした後ダーン!と加速していく」みたいにしないとカラヤンみたいにならないんですよ。

しかもそれを、「ここぞという時」に使わないと、音楽全体が走ったり戻ったりして聴いてられないことになるんで、だからこそ全体の流れを把握した上で、「ここだ!」っていうような、ギュンと加速するべきあるポイントを寸分逃さずに、そこで「ぅら!らぁ!らぁっ!オラァッ!」って一拍ごとに裂帛の気合みたいなんを叩きこんでいって盛り上げた波(そういう時には指揮に対して多少遅れ気味に加速してきたりする・・・意図的に指揮者が先走って振っていくというか)を、最後のところでズバーンと解放して「じゃ!(タララタラララタラララタラララ)じゃ!(タララタラララタラララタラララ)じゃじゃじゃああああ(タララ・・・・)・・・・じゃん!(も一発ぁーっ)じゃん!」ってやらないと(”運命”の最初のどこか伝わったかなこれ↑)、最後の「キメ」のところで歌舞伎役者がゆっくり周囲をねめまわすような「バァーーーーz______ン」って感じにならならくて、「すべって」しまうんだよね。

「その方、欲に目がくらみ、余の顔を見忘れたか!?」

「カシャーンカシャーンカシャーン(将軍のアイキャッチ三発)」

「う・・・上様・・・・」

(”暴れん坊将軍”ね)みたいにならないんですよ。



で、こういうの、「リーダーシップ」って普段言った時に、一番普通に思い浮かべるタイプなんですよね。日常的にも。でも、こういうのって、なかなか成立しなくなってくるんですよ。時代とともに。で、そうなってった時に、人間の集団はバラバラになってしまうんで、みんな孤独になるし、みんなの力を結集して大きな力を出すようなことができなくなるし、その結果として、無理矢理にでもファシズム的にみんなを糾合してくれるリーダーが現れて欲しい的な欲求が高まってそれはそれで危ないことになるんですよ。

『対談本』の中に、カラヤンとは対照的なタイプとしてバーンスタインが出てくるんですが、彼はアメリカ人なんで、あらゆる人に「対等」であろうとするんですよね。弟子の小澤さんに対しても「セイジ、今のどう思う?」的なことを常に聴いてくるような感じで。練習してる時も、常に面白い話をして注意を引きつけておこうとする感じで、みんな勝手に私語とかしてても決して怒れない感じだったらしいんですよ。

小澤氏いわく「グッドアメリカンでありたかったんでしょうね」的なことを言ってましたけど、まさにそういう感じなんですよね。「相手に無理矢理にでも言うことをきかせる」ことができないタイプの人間だから、「面白い話をして、面白いと思ってもらえている間だけ、俺は話す権利がある」ぐらいに思ってるんじゃないかってところがある。

で、カラヤン的強権を発揮できるポジションっていうのは、「グッドアメリカンであること」や「グローバリズム」から言ってぶつかる部分があるんで、だんだん時代の変化とともに「取り得るリーダーシップの形」は変わってくるんですよね。

でも、そうは言っても、バーンスタインの演奏も、今の時代の指揮者の普通に比べるとカラヤン的な「支配力」を発揮してるとは思いますけどね。でも、やっぱ時代とともに、そういう「個人ベースの豪腕的支配力」を持てる存在っていうのはいなくなっていくんで、今の時代の指揮者っていうのは多分だいたい「カラヤンとバーンスタインのどっちに近いか」っていうと圧倒的にバーンスタインに近い感じになってるんだと思います。

で、バーンスタインの演奏を聞くと、同じ曲をやっててもカラヤンに比べて凄く「細部が明確に個人として」聞こえてくる感じなんですよね。で、まずはそういう「個」がベースにある上で、曲全体の作り上げ方は、なんかこう、アメリカンな「チームスピリット」みたいな感じで、「ヘイガイズ、こっからゴキゲンな16小節の上昇音形、楽しもうじゃないか!HAHAHAHA!!」みたいな感じがする(いや、ちょっと戯画化しすぎかもしれない・・・・さっきのカラヤンとの対比においてはってことなんで、実物はもっと紳士な感じです。)

『対談本』によるとバーンスタインは「You do yourself」っていうのが口癖だったらしく、各パートが各パートの本分を尽くすことで、「結果として」全体が浮かび上がってくるようなモードを理想としていたみたいなんですね。で、特に、当時忘れられかけていたマーラーの作品をかなり必死に紹介していく活動をやって、そこで「マーラー作品の本質的特徴」と「バーンスタインの特徴」が噛みあうことで、「You do yourself」ベースの音楽の立ち上げ方が一つのムーブメントになっていったんじゃないかっていうのが、読んでいて一番凄く「なるほど」と思った部分だったんですけど。

僕はあまり詳しくないんですが、マーラーっていうのは、かなりそういう「一つのまとまり」というよりは、「個別の独立した方向性がゴッチャになって投入されている」部分が魅力らしいんですよ。で、カラヤンがやるときには、その「全体」をガッと捉えて、ベートーベンの交響曲をやるように、一つの「世紀末ウィーンの一枚絵的世界観」を浮かび上がらせるようなやり方をやるんで、それはそれ自体として一つの完成形なんですが、それに対してバーンスタインは、出来る限り「それぞれの個」を「それぞれのまま」本分を尽くさせる方向でやろうとしたんだ・・・・っていう話は、本の中でかなり村上春樹氏主導で出てきた話で、「おお、なんかさすがだな」と思った部分だったんですけど。

で、時代が下るに従って、そういう一種「お互いに矛盾した個」が「遠慮なくお互いの本分を主張していく」ことの「結果としての全体の曲」っていう風潮は高まってきているんじゃないか、特に、サイトウ・キネン・オーケストラみたいな、「期間限定で腕利きの演奏家が集まってきてやるタイプ」のオーケストラは、常設のオケに比べて「俺が俺が」感が強いメンバーが揃うんで、より一層、「個」をフィーチャーしたような演奏になっていくんじゃないか、っていう話になってたんですけど、こういうのはクラシック音楽の世界だけじゃなくて、大きな人類社会の相互作用のあり方の変遷っていう意味でも、どんどんそうなってってはいる話だなと思うじゃないですか。



で。

ですね。



でもね、カラヤンですら「音の響きだけに集中して音楽の精神を忘れている」と当時批判されてたらしいんで、ましてやバーンスタインとかね、さらに続く今の時代の「明晰な音楽」を作っていく人たちに対する「不満」っていうのは、ある種の人々の間にはあるんですよね。なんか、もっと昔の19世紀生まれの、フルトベングラーとかね、そういう存在の、「個別の音とかじゃなくて全体として”ドイツ音楽の精神”を体現するのだ」っていう部分を、懐かしむ思いっていうのは、かなり広範囲にあるはずなんですよ。というか、この100年のクラシック音楽全体のプレゼンス(社会的存在感)の凋落っていうこと自体が、結局そういう「みんなの幻想的一体感」をクラシックが取り込めなくなったから、そういうのをロックとかに奪われちゃったっていうところがあると思うんで。

で、それは「グローバリズムに対するアンチ」っていうのとほぼ同根の問題なんですよね。

やっぱり、みんなの幻想を引き受けてくれる、「みんなの理想」っていうのを集めてくれる、そういう「共有ビジョン」みたいなのを人は欲してるんですよね。で、そういう「共有ビジョン」は確かに個人の「端的な自由」に対してちょっと抑圧的に働くことが多いんですが、だからといってそれを根こそぎに壊してしまったら、やっぱり人間生きていきづらいところがあるんですよ。でも、だからといって無理矢理ファシズム政権を立ち上げたりするのもね、それはそれで問題大きいわけでね。だいたい、フルトベングラー的音楽にフルフルと震えておられる方も、実際に政権がファシスト的になって、日常生活のあらゆる細部までみんなが干渉してくるようになったら絶対嫌がるに決まってますからね。

で、もう本ブログの趣旨から言うと「またその結論かよ」的展開になってきたんですが、現代においては、「個人の明晰性」を求める方向性と、「フルトベングラーを懐かしむ人たち」っていう方向性が、ただお互いを非難しあってるだけになりがちなんですよね。でも、「現実レベル」に、「本当の理想」を実現するには、「どっちも」が大事なんですよ。それが「21世紀の薩長同盟」なんですよね。

具体的な流れとしてはね、「ジョブズ的リーダー幻想を超えて」で書いたように、「カラヤン(もっと言えばフルトベングラー)みたいなリーダーシップ」はいずれ消え去っていくんですよ。時代とともに。そういう「豪傑的個人」を、「社会システム」が受け入れられなくなっていくんですよね。で、だからバーンスタインとか、それに続く「演奏者の明晰な”個”を引き出していくように指揮するリーダーたち」に転換していかざるを得ない。その点では、グローバリズムは一回「受け入れきる」しかないんですよね。

でも、そうすると、「小粒」になりがちなんですよね。バーンスタインはギリギリそのポジションをしっかり守ってくれる文脈がたまたまあってそういうスターになれたんですが、そういうのはスティーブ・ジョブズが、PCの普及という一大歴史的イベントを利用して一つの「スター」にのし上がることができたみたいな、そういう「例外的な事象」なんで、だから後代の指揮者になればなるほど、そういう「特権性」は奪われていくんで、結局リーダーシップが小粒化するんですよ。そうすると、「リードされる側」に立つ人にとっても、「本当に大きな力」を出していくことができなくなるんで、大きな目的に回収されないエゴがあちこちで暴発して社会不安になるし、みんな寂しくなっちゃって心を病んでくるし、大きな成果も出せないから経済も不調になってきて国債市場が崩壊寸前になるし・・・ってなるんですよね。

で、大事なのは、「昔に戻ろう」とするんじゃなくて、ここで「去ってしまった者から受け継いだものはさらに先へ進めなくてはならない」って行くことなんですよ。

つまり、「グローバリズム」を受け入れ切った先に「新しい共同体」を立ち上げていこうとすることなんですね。そういう時には「グローバリズムのルール」は、もう一回全部受け入れ切っちゃうぐらいの覚悟が必要で。それに対して人力でガッと「VS」関係になったら絶対ダメなんです。

いっこ前に書いたように、「ナポレオン軍に対抗するロシア軍のようなタイミング」を捉えて、グローバリズム全体を受け入れ切ってしまえば、グローバリズムは「現状のグローバリズムのシステム自体に内在する大雑把さという無理」によって「自壊」しはじめるんで、そのタイミングを捉えることで、「天空の城ラピュタを木の根が取り囲んでしまう」ように、無機的なシステムを有機的な生態系に転換するムーブメントが必要なんですね。

で、それこそが、「21世紀の薩長同盟」だし、僕の本はその「ハウツー本」として来年2月に出るってわけです。



そういう未来を想像するときに、ちょっと希望のヒントになりそうだなって思うのが、『対談本』に出てきたベームっていう指揮者で。

僕好きなんですよねベーム。なんか・・・いやあんまりたくさん指揮者を知ってるわけではないんですが、ベームっていいよなあ・・・っていうのは昔から結構思っていて。

小澤征爾氏がベームについて触れてるところがあったんですが、彼の視点から見ると

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「僕からすると、なんていうのかな・・・腕の先っぽだけでちょこちょこっと指揮しているように見える。ところがね、オーケストラが、これはほんと魔法みたいなんだけど、こんなに大きな(と手をいっぱいに広げる)音楽を作っていく」
<<<<

って感じらしいんですよ。ウィキペディアのベームのところにも、

>>>>
カラヤンが「ベーム85歳の誕生祝賀会」に出席した際に、

” 禅の高僧が矢を射る時、「私が矢を飛ばす」とは言わず「矢が飛ぶ」と言う。すなわち「無為の為」である。これと同じく、ベームの指揮は「音楽が湧く」と言える。つまりベームによって、音楽が奏ではじめるのである。”

と、ベームの指揮を評している。
<<<<<」

って、なんかちょっと小林秀雄チックなこと(笑)が書いてあったんですけど、でもなんか、結構そういう感じだったんですよね。

うちに、妻が高校の時にフランス語圏に留学してた(カナダのケベック)時に買った、ジャケットがフランス語のCDがあって、それはウィーン・フィル&ベーム、モーツァルトの41番(ジュピター)なんですよ。で、最初は指揮者の名前とか気にせずに曲名だけで聞いてたんですが、だんだん「これいいなあ。特に最後」って思うようになったんですよね。ユーチューブにも同じ組み合わせのが・・・ゲフンゲフン、いや、なんでもないです。(どこかで”たまたま無料で聞けた”としても、気に入ったら権利者にお金が落ちるようにしましょうね!)

映像でベームの指揮をみると、ほんとちょこちょこっと独り言みたいな指揮をするんですよね。「おらてめーら、こっから行くぜ!」「おおお!」みたいなんは全然ない。むしろ、ダンスダンスレボリューションとかビートマニアを凄いレベルでやってるオタクさんみたいな佇まいで(笑)

でも、最後のフィナーレとかグワワアアアアアってくるんですよ。なんか、「湧くが如し」っていうか。で、最後キッチリとテンポが自然に落ちて行って、「じゃったららったじゃっじゃん、じゃったららった、じゃっ!じゃあん!・・・・じゃあああああああああああああんブラボーーーー!」ってなるんですよね。

ほんと「人力」じゃない、「天意」みたいなものとして、「こぉれぇにぃてぇえええ、ぁ一っ件落着ゥ!」って感じで終わる。あれはほんと凄いなと思う。

普通の指揮者は、「おらてめーら、こっから最後のフィナーレ行くぜ!」みたいな、そういう「アクセルを踏む」ように指揮するんですよね。でも、個人的に思うのは、ベームは、その手前、最後1分残したぐらいで、Fメジャーに一瞬転調して(多分・・・間違ってたら恥ずかしいな)、ほんのちょっと静かになる部分があるんですけど、そういうところ「ふっ」とオケの気勢を削いでしまうスカシを入れる感じなんだと思うんですよ。

しかも、そこが「ここはフィナーレ前の静けさだから、嵐の前の一瞬の静寂のようになんちゃらかんちゃら」とか「クッキリした意図」をそこに与えるんじゃなくて、ほんと「ふっ」とぬいちゃうんですよね。で、オケの熱が一瞬冷めちゃうというか。その「間隙」を埋めるように、「(打ち下ろすというよりは)支えが消えたから自然に落ちてきました」的な感じで「次」への「流れ」が生まれるんで、そこで満を持して例の「ドーレーファーミー」って金管が入ってくるときに、指揮者が「やれ」って強く言わなくても、演奏家の方が「よっしゃあお前ら俺の音を聞きさらせええええ」って感じで出てくるんですよね。

ああいうのって、いいなあ!って思うんですよ。でも、小澤氏が本で言っているように、

>>>>
彼とオーケストラの間に、何か特別な、歴史的つながりがあったんでしょうね
<<<<

っていうときにしか、こういうことはできないんですよね。「共通了解」が凄く明確に分厚く存在してないと、もっと「本来的音楽の必然性」からすると完全に無駄な「”アピール”的に派手なこと」をお互いにする必要が出てくるんで。こういう「小林秀雄的理想」みたいなことはできないんですよね。

村上春樹氏の小説に、「子供の頃からずっと一緒に育った男女のカップルの悲哀」みたいな話よく出てくるじゃないですか。いや「ノルウェイの森」だけか?他にも色々あったような。ああいう感じなんですよ。

僕、高校の時の合唱部のメンバーとは、「一緒に成長」したんで、かなりそういう感じがわかるんですよ。

オケじゃなくて合唱だからできるってのはありますけどね。『対談本』にも日本の合唱団のレベルは高いって話ありましたけど、カリスマ的な合唱指揮者に「自然に寄り添うように人が集まってるセミプロ団体」とかは、プロのレベルでも、こういう「ベーム的」な感じでずっとやっていけてるところが結構あるんですよね。

彼らも大抵そうだし、高校時代の僕もそうだったんですが、全然「普通の意味で見やすい指揮」じゃないんですよね。「むしろわかりにくい指揮の方がいい」と思って意識的にやってたところがある。むしろ「どこで入ろうかなあ・・・」って感じでお互い探り合いながら、「ここにしょっか?いやこっちかな?」みたいなコミュニケーションが無数に成立するように持っていくほうがね、メトロノーム的なテンポ感に一切縛られない感じにできるんですね。

むしろ、最初の呼吸を入れてフレーズが立ち上がったら、それから指揮やめてニコニコ見てるだけで良くて、そのフレーズが終わるころに、お互い探り合いながら、「今日はどうしようかね?・・・・このへんにしとく?」「いいねえ」みたいに次を入れれたりしたんですよ。

あと、卒業してかなりたってから、あるメンバーの結婚式で演奏したときに、男が足りなくて僕歌ってたんですが、バラバラになりかけたんで、ふと手をちょこっと動かしたらピタァッって合ったりとかね。そもそも「指揮して合わせよう」とすら僕は思ってなかったような、ちょっと手癖で手が動いた程度だったのにピタァッ!って来たんで、そのへんが凄く印象的だったんですけど。なんか、「身体に残ってる」ものがあるんだなあと思ったりして。大学の合唱団とは、全然そうはならなかったんですよね僕はね。(なんか大学では、それぞれ強固な「全然違う音楽観」を持ってる人たちの間にカラヤン的意志をどうやって通すかっていうチャレンジをさせてもらった感じだったんですけど。)

バスケ選手の田臥勇太氏がね、NBAで活躍して以降のインタビューで、「理想のバスケ」について、「やっぱ能代工業のバスケ」って言ってたことがあって、「へええ」と思ったんですよね。NBAでプレイしてからも、そういう感覚は消えないんだなと思ったりして。

『対談本』でも、小澤征爾さんが、高校や大学時代からアマチュアの団体で指揮をずっとしてたことが、いきなりプロになったときに既に「ベテラン」になってた原体験になったみたいなことを言ってらしたんですけど、だからその、やっぱり「”一緒に育った”からできるパフォーマンス」っていうのは確実にあるんですよね。

指揮者の佐渡裕さんも、一時期高校のブラバン部の指導をやってたことがあって、その時代に学んだことが凄く多かったとか、ベルリン・フィルを指揮するときも、高校のブラバンを指揮するときも、「同じ気持ち」でやってるんだみたいなこと、よくテレビとかでおっしゃってますしね。



で、グローバリズムが世界中でアンチを生むのは、こういう「共有された自明性をベースとしたパフォーマンス」を破壊するからなんですよ。「人間の集団の本当のチームワークの妙」みたいなのをね。

だから、もしあなたが金融関係の重要なポジションにいるとか、あるいは経営者であるとか、そういう資本主義最前線的な位置における何らかの「権力」を持っている立場にいるとしたらね、「会社は株主のものか社員のものか」的な概念論に凝るよりは、

「どういう場づくり」をしたら「一番潜在能力が開花するのか」

みたいな実践的な問題をみんなで考えるように持っていくべきだと思うんですよ。

で、場合によっては、「あるモジュールの中」においては、「田臥勇太と能代工業バスケ部」みたいな、そういう「人間関係」をそのまま一切イジらずに保存して、その「外側」だけ「システム」に噛みあわせる・・・っていう形がベストだっていうことも、まだまだたくさんあるんですよね。

でも、そういうことが全然わかってないコンサルとか投資家が、その「チームワークの妙」の内側まで土足で入り込んで変に杓子定規なシステムを導入しようとするから、「グローバリズム全体」を全部根こそぎに拒否される反対運動が生まれちゃったりするんですよ。そういう「人間の集団のリアルな本質」のことを全然わかってない「システム側の人間」っていうのは、「経済のダイナミズムの最前線を司る存在」というよりは、「新手の固陋なお役所主義者」みたいなもんなんですよね。

そういうことに、「どっちの立場」の人も動員して、「どうしたら一番うまく行くのか」っていうのを、「概念論争」じゃなくて「現地現物」で考えていくべき時なんですよ。

でも、ただ、気を付けないといけないのは、こうやって「現場主義」的なことを言うと、「マクロに見た合理性」なんかはのきなみ全部悪者にされやすいんで、逆向きに凄く「全然合理性もないところで、昔からそうだったからといってずっと同じ事をやり続ける」みたいな風通しの悪い閉塞感を感じる状況になったりもしがちなんですよね。だから、「バランス」には凄く気を使わないといけなくて、基本的には「グローバリズムのシステム側」を先行させるように持っていかないとうまく「適切なレベル」に落ち着くのは難しい問題なんですよ。

集団内部で「濃密に共有された自明性」って、普段かなり息苦しかったりしますからね、良い部分も悪い部分もあるじゃないですか。だから、大事なのは

「グローバリズムそのものも、最終的にはこういう”ベーム&ウィーン・フィルのモーツァルト41番”的パフォーマンスをなんとか実現したいと思って動いている」

ってことなんですよ。そこのところを、ユダヤ陰謀論的なことを信じておられる方は一瞬だけ考えてもらいたいとこなんですよね。

つまり、「経済合理性」っていう旗印とかね。そういうのは、結局最終的に、人類のあらゆる活動が、モーツァルトの41番のラストが、「完璧に理想的な形で演奏されたように」実現する世界になったらいいよね!って感じで動いてるんですよ。

「効率ばっか重視してちゃダメだよね」っていう感じで「効率主義vs反効率主義」みたいになったらどこにもゴールはないじゃないですか。でも、「全体で良いパフォーマンスをするために、今しっかりここで時間をかけて共通了解を作っておくことは、どうしても必要なことなんだ。それこそ”経済合理性”なんだ」っていう感じの思想で言うと、「現場がギスギスしちゃうような”効率”なんて、結局本当の意味での”効率”じゃないよね」っていう発想になってくる。そのレベルで発想するならば、グローバリズムの奥底にある「新しい共同体」へと、みんなで協力して向かっていける時代になるはずなんですよ。

だから、「経済合理性という旗印」は、うまく使えば、「どうでもいいこと」を根こそぎに廃して、「でもここは大事だろ!」ってところにみんなで全力を使えるような、そういう方向に持っていけるはずのものなんですよね。

例えば僕、今回の新書を出すにあたって、星海社に対して、ただでさえ分厚い新書の原稿本体以外に、さらに分厚い新書一冊ぐらいの分量の「準備メール」を送ったんですよね。「氷山の一角としての原稿」の「裏側にある氷山本体」全部を理解してもらおうと思って、ほとんど迷惑メールぐらいの感じである時期毎日送ってた。

こういうのって、普通の出版社で言ったら迷惑でしょうけど、星海社は、募集した小説の新人賞に、無名の新人が戦国時代の超マイナーな武将を主人公にした、単行本10冊サイズの投稿をしてきても、ちゃんと読んでいちいちコメント出したりしてるようなクレイジーなところなんでね。それ見て「うわ、こいつらマジだな。なんか」って思ったんで、いわゆる「仕事上のつき合い」で終わらないように、「こっちの趣旨」をも全部送ってしまって、その上で一緒に仕事しようって思ったんですよね。

もちろん、ただ自分の事情ってだけだとほんとに迷惑メールなんで、今の時代性と、これからの時代の出版のあり方とかね、星海社の存在のユニークさとかを定義していって、ちゃんと同じベクトルに並べていくような、「形而上レベルのコーポレートアイデンティティ策定プロジェクト」を押し売り的にやりながら、こっちの事情も「ワレワレ感」的に理解してもらえるように持っていったってことなんですけど。(やっぱ、気楽な雑談的な形でやるときが、不自然な権力争い的要素がなくなる分、一番コンサルが相手のためになることができるってところあるんで)

でも、こういうのって、「昔の牧歌的な出版社」だったらいちいちやってられないじゃないですか。まあよっぽど親分力のある編集者がいたらそういうこともあっただろうけど、「普通の共同体」っていうのは、結局「お役所体質の事なかれ主義」ですからね。逆に、「経済合理性」とかをガチガチに追求する時代になったからこそ、こういう「クレイジーなこと」もできるようになってきてるところがあるわけで。

だからこそ、「グローバリズム」や「経済合理性」っていう言葉は、本来的には、人々の「本当の思い」をちゃんと逃げずに実現するためにあるんですよ。それが「本当の価値」なんですよね。今はまだ人類全体がそのツールに不慣れだから、その「使い方」がよくわかってないだけなんですよ。

で、何度も言うとおり、そういう薩長同盟的立場よりも、「どちらかを非難する立場」の方が派手で勇ましく見えるんで、だからこそ、その「罵り合いの馬鹿馬鹿しさ」が限界まで来ないと、「手をとりあって(byクィーン)」その方向にみんなを動かしていけるタイミングはやってこない種類の問題だったんですよね。

その「気運」が、やっと整ってきた・・・・から「ただの罵り合い的な経済」のパフォーマンスが維持できなくなってきて、色々あちこちで問題が起きてきている・・・・のが「今」なんですよ。



例えば、オリンパスの不祥事と、コーポレート・ガバナンス(会社の統治方法・・・大枠で言えば”株主”にどれほどのパワーを与えれば人間社会は理想的に運営できるようになるのか的な話題)って、今結構問題になってるじゃないですか。あと大王製紙のバカ殿様の暴走問題とかね(笑)

で、昔だったら、ほんの10年ぐらい前だったら、あんな問題が発生する日本の会社のやり方なんてとにかく完全に「純粋な悪」で、もっとアメリカみたいに完全にシステム志向のガチガチにチェックしあってるような世界にしなくちゃいけないんだ・・・・って、みんな言ってたと思うんですよ。

でも、今は、かなり金融関係の、「資本主義原理主義者」の人でも言ってることのトーンが大分ソフトなんですよね。それは、ガチガチにチェックシステムを整備したアメリカですら不祥事って起きるもんだなってのが知れ渡ってしまってるってのもあるし、あまりにチェックシステムを整備しすぎると、「実際に作業してる人が1人に、3人がチェックをし、そのチェック機能のチェックに3人が働いて・・・・」みたいな社会になっちゃうんで、実際問題として、上場費用が上場による資金調達額よりも断然大きくなっちゃうとかね、本末転倒的なレベルに達してるからなんですよね。

結局、「資本主義原理主義者」の側でも、「チェックシステムをガチガチにやれば不正がなくなるわけじゃない」っていうことは「共通了解」みたいになってきていて、じゃあ「どうすれば一番良いパフォーマンスになるのかな?」っていう話題に、「どちらの立場」からも集中できる時代になってきてるんですよ。

まさに、やっと「21世紀の薩長同盟」の「場」が整ってきた・・・っていう状況なんですよね。



より具体的に言うと、結局「システムを補完する空気」自体が大事なんですよ。しかも、「不正をさせないようにしよう」という性悪説なものじゃなくて、「やっぱ人間、滞り無く物事が進むようにもって行ったら気持ち良いよね」っていう性善説的な方向の、「空気」を整備することと、「性悪説的なチェックシステム」を併用することが大事なんですよね。

で、オリンパスも大王製紙も、凄く特定の技術力がしっかりある優良会社じゃないですか。で、「不正が起きるような体質じゃないとそういう粘り強い開発はできなかった」・・・・ということは、個別会社レベルで言うと暴論に聞こえるけど、日本社会全体で見ると一定の説得力があるんですよね。

ライブドア事件に比べてオリンパスに対する裁定がやたら甘いのは、実際問題としてはやっぱライブドアには、「これしかない圧倒的な優位性を作りこんだ事業」がなかったけど、オリンパスにはそれがあったからでしょう。そういうところで手心を加えられるのは法治国家としてどうやねん!っていうツッコミの是非はとりあえずおいておきつつ、そういうところの「二重性」が存在する運営の仕方になっているからこそ、日本社会には他にない独自の技術蓄積を持ったプレイヤーがまとまって生まれてるんですよということ自体は否定できない事実なんですよ。

だからね、オリンパス的な場所に「不正」があるのは、それは「カラヤン的存在」だからなんですよね。どんどん小粒化していってしまう世界の中で、なんとか「重厚さ」を維持しようと、「時代のアダ花」的に残っている「ジョブズ的リーダー」「カラヤン的存在」なんですよ。

ジョブズがいくら部下をムチャクチャ罵倒して使っていても、アップル製品の革新性ゆえにとりあえず許されてた時代の隙間・・・ってのはあるんですよね。それと同じようなことが、オリンパスや大王製紙に現れるような「日本の会社のコーポレート・ガバナンスの閉鎖性」にはあるんですよ。

もちろん、オリンパス単体で見れば、「許されざること」なんですよ。だってちゃんとルールを守りながら、かつ凄い技術革新をしてる会社だってあるんだからって話ですからね。でも、日本の中にそういう「技術を持った会社を100個」作ろうとなったときに、そのうちの「何個か」は、「ああいう問題」が起きてしまうような、そういう「空気」を維持しておくことが、「技術を持った100社」を作るときには不可欠な算段だった・・・というような「マクロに見た時の歩留まり」的な問題があるんですよね。

で、ここでね、「形としての不正」自体を取り上げて、それを「封じ込めよう」とするだけでは、「先の開いてない注射器を押し込むようなもの」なんですよね。「そりゃあ悪いのはわかってる。しかしそれしないと現場の本当の良さがなくなっちゃうんだとしたら、せざるをえないだろう」みたいな感じの行き場の無さになってしまうんで。その矛盾が放っておかれてるのに無理に規制だけ厳しくしたら、不正は減るどころかただ地下に潜って余計把握できなくなるだけで、むしろ増えるぐらいになっちゃうんですよ。

だからこそそこで、「21世紀の薩長同盟」的なムーブメントが必要になってくるんですよ。

つまり、「仕組み」部分じゃなくて、その「仕組み」を利用して社会に広がっていく「経済合理性の文脈」自体が、本当の意味で「現場的合理性」も実現するように、「両者の間」を繋いでいく「技術」が、それ自体として高まっていけばいいんですよね。というか「日本のビジネスマンや経営学者やコンサルや官僚や金融関係者や・・・・」でよってたかってその「技術」を磨いていくべき時なんですよ。

これを、「頭(IQ的)」でも「現場の我々イズムみたいな”ココロ”の問題(EQ的)」でもない、それら両者の矛盾をなんとか解消していこうとする「フィジカル・フィロソフィシャル・パーソナル」な領域の分厚い「実感と洞察」をベースとする「PQ的な解決」と僕は呼んでるんですが。

アメリカ人は、世界中に「IQ的な世界観」をシステムとしてガッチリ行き渡らせることが使命な国なんで、だからその運用が硬直的になりがちなんですよ。だからこそ、

その「アメリカ人が用意したシステム」の、「どこまでもフレキシブルで現場に適合した運用方法」を、「PQ的領域」に配慮してボトムアップに組み上げていく、21世紀の薩長同盟的な経営文化として成立させるのが、今まさに日本の役割

だし、それさえできたら日本のこれからは凄く希望に溢れる時代になるんですよね。

そしたら、いちいちカラヤン的に無理な「支配」をする「親分的個人」はどこにもいなくなるけれども、無機質なシステムに血が通って「システム自体が親分」になるんですよ。ラピュタを木の根が取り囲むように。そしたら、「不正」は「不正」として思う様告発していっても、誰のためにもOKな時代が来るんですよね。



ベームの演奏はいいなあと思うけど、でもカラヤン以上に、「もう戻らないもの」なんですよ。でも、例えばジェームズ・レヴァインってアメリカ人の指揮者が僕はかなり好き(多分一番好きな指揮者といって言いと思う・・・まあカラヤンやベームには別の意味で凄い憧れる部分があるけど)なんですが、バーンスタイン的に個別の「you do yourself」的な方向性を、さらに先鋭化して極めて行ったような、凄く明確な演奏をするんですよね。

まあ、演奏家の技術や録音の技術があがってるってのもあるかもしれないけど、どんなパート同士の小さな細部の掛け合いも「ちゃんとキッチリ明確に聞こえる」ように持っていくしね。「ここがアクセント」ってなったら、弦も管も打楽器も、律儀なほど「はい、ここですね!」って感じにアクセントつけてくるしね。とにかく真面目すぎるほど明晰なんですよ。目前に楽譜が浮かぶぐらいに明晰。適当に流しちゃうところがない。

特に「ここだ!」って感じの時にバシッと来るティンパニとかの打楽器がね、本能だけでやってるとダラダラーと流れちゃいがちなんだけど、そういうのが、全パートの意識が揃って「バシッ」と来るんですよね。

その風通しの良さが凄い好きなんですよ僕は。あれ、時間をかけて物凄く細かい練習をするのか、物凄く指揮(棒の振り方という純粋に物理的な意味での)がうまいのか、なんでああなるのかはわからないんですけど。

で、そういうのをガンガンに極めて行くと、案外「ベームっぽいもの」みたいになってくる感じが、僕はしてるんですよね。

曖昧模糊とした暗黙知だけでできていた世界は、もう一回解体されざるを得ないんだけど、でもそうすると陥ってしまいがちな「意識の網目の粗い人が無理矢理押し付けた形式知」にならないように、「形式知の運用がプロフェッショナル的に物凄く達人的な人」がやると、だんだん「暗黙知の極意的なもの」に近づいてくるんですよね。で、人類はそれでいくしかないんですよ21世紀にはね。もうベームには戻れない。

僕が昔から持ってたモーツァルトの41番のCDは、レヴァインのやつで、かなり以前にタワーレコードとかで千円以下でワゴン売りされてたのを、凄い安いな!と思って買ったのが縁なんですが、なんか、聞いてるうちに、「明晰」で風通しが良くてほんといいなあって思うようになったんですよね。(ただ明晰すぎて、「モーツァルトとはこういうもの」っていう気分を求めているファンの方には不評みたいなんですけど。)

でも、やっぱ最後のファンファーレ部分を、ベームみたいに「自然そのもの」ぐらいの疑いなさでガツンと決めきることはできてない感じなんですよね。たまたまこのCDはってことかもしれないけど、最後凄い走っちゃってなだれ込んで終わっちゃってるんで。そこのところが、やっぱ「アメリカというシステム」の「外側」にいる人間だからできる「だから・・・俺が裁く」的な蛮人性を、日本人がうまく利用して解決するべき「間」になるんじゃないかと思ってるんですが。

分野は大分違うんですが、僕今ある事情で名古屋(名古屋市じゃなくて妻の実家がある名古屋周辺の市部)に住んでるんですが、今月17日に「YUKI」さんのコンサート行ったんですよね。日本ガイシホールっていう、フィギュアスケートとかもやる凄い大きな会場だったんですけど。僕は「ジュディマリ時代からの大ファン」ぐらいで、妻が「ジュディマリ時代からの大大大大ファン」ぐらいなんでチケット取ったんですが、妻は体調不良で行けなくて、結局僕だけ行ったんですけど。

で、当日なんかYUKIさんちょっと調子悪かったみたいで、中盤ぐらいに途中で泣き出した?(たぶん・・・体調不良とアナウンスされてた)かなんかで、30分弱ぐらい中座したんですね。

その中座から戻ってきてからの、「絶対にこの場を掌握してやる、そうじゃないと自分は自分でいられない」ってぐらいの気合の入り方ってほんと凄くて、なんかかなり「がんばれー」って気持ちになってしまったんですが、戻ってきてからちょっと気合が先行しすぎて、特にバンドだけがバックの曲とかテンポが走っちゃって、なんか危うい感じだったんですよね。

でも、そのあと「ランデヴー」と「勇敢なヴァニラアイスクリーム(だったかな?違う曲かもしれないけど最新アルバムの曲)」っていう、シンセのアルペジエイターががっつり入ってテンポを完全にキープしてくれるダンス系の曲が二曲続いたところで、凄いバチッ!と会場が一体となって安心して見れる感じになったっていうか。特に、YUKIファンはたいてい「ランデヴーの前奏」とか凄い好きなんで、みんな凄く「共通の思い」を取り戻したなあって感じで。

「ダンスミュージックって、やっぱ現代世界の慈悲のココロだなあ」的なことを思ったんですよね。もちろん、生楽器だけで小規模にやる音楽の良さってのはありつつ、やっぱりあれだけの大会場となったらね。むしろメカニックに完全にキープされたテンポが、「文明の奥底の優しさ」みたいな感じでみんなを包んでくれるところがあるなーと思ったりして。頑丈な家があるから台風が来ても大丈夫だよ!みたいな安心感(笑)それをいちいち「タフさが足りない」とか言うのってちょっと違うくない?みたいな。

そうやって機械にテンポキープしてもらうのって、リズム隊(ベースとドラム)にとっちゃ「負け」みたいに思う部分もあるかもしれないですけど、でももう「テンポ」が完全にバチッと決まっていて、ボーカルも客席もそれに載ってるって状態になったら、むしろリズム隊が凄く活きてくるとこあると思うんですよ。

日本のドラムほどボーカルや歌詞の世界観までちゃんと吸収して叩いてる人たちはいないと思うんですが(アメリカやイギリスのドラマーはむしろお前らが俺に合わせるんだろと思ってそう・・・・まあこれはプロだけの話で、僕が昔やってたアマチュアバンドのドラマーなんか、何回やっても”ここボーカル活かすために一小節ミュートや言うたやろ!””あっれーえええへへへごっめーん”みたいな感じでしたけど 笑)、「完全に揺れない機械のテンポ」が確定していると、その上で、「よっしゃ次YUKIちゃんが歌いだす時にノリノリで入れるように、こっからの俺のフィルイン聴いとけよ!」みたいな、なんかそういうニュアンス出しに集中できている感じがしたんですよね。「wagon」みたいなロックな曲も、多分リズムマシンかなんかでテンポキープされてたと思うんですが、そういう方が凄く安心して「その世界」に乗っていける感じがしたんですよ。で、それは「恥ずべきことじゃないだろ」っていうか。

そうやって会場全体の雰囲気がガッツリ作られてるからこそ、「ここぞ」って時に「そーしそーあいのりそーけいをををを」みたいな曲(僕も妻も超超大大大大好きです)で、アンプラグドな演奏を純粋にアーティスティックにやるってことが、凄く「映える」タイミングもやってくるってところがありますし。

ボーカルその他の世界観にちゃんと気を使って理解して参加できるっていうのは、日本のリズム隊の優位性だと思うんですが、しかし、その分「世界の中心で俺様が時を刻んでいる」的なイギリスのドラマーや、「覇権国家のプライドを賭けて切断感のあるスネアドラムをぶっ叩く」アメリカのドラマーに対して、多少は「頼りない」っていう部分もあると思うんですよ。でもそこのところ、リズムマシン的なものをちゃんと補助に使うと、英米のリズム隊に負けない「確定感」と、日本流の「世界観に参加するリズム隊」みたいなのとの両立が可能になるような気がします。



だからね、もう「システム」や「グローバリズム」の普及が「完全に後戻りできないぐらい普遍的に確固としたもの」になった時代だからできる、「その上」に「新しい共同体」を再生させていこうっていう試みが、やっとできる時代になってきてると思うんですよ。

ベームが「一緒に生まれ育った基盤」を利用してやっていたような世界を、「へい、ブラザー&シスター!俺たちみんな、グローバリズムの中で生まれ育ったブレステッドチルドレンじゃん!?」みたいな世界を、「システムの上」に成立させられる時代になってるんですよね。

で、その先鞭をつけられるのは、この10年間「システムからはみ出してるもの」と「システム」との間の矛盾に苦しみ続けてきた、日本に住んでいる我々のはずなんですよ。

「システム原理主義」的に身軽に経済発展を享受してた国に、「なんでお前らそんな鈍重なわけ?」と冷ややかな目で見られ続けてきながらも、「いやそりゃシステムが大事なのもわかる。でもなあ・・・・なんかなあ・・・・」と煮え切らない状態のままここまで来た。

その「悩んできた我々だからこそできること」が、この「システムを否定せずその上に共同体を創り上げること」なんですよ

ベームが来日したときにウィーン・フィルと「君が代」を演奏しているのを聞いたことがあるんですけど(あのYから始まる動画共有サイトで・・・・いやなんでもないです。ゲフンゲフン)、物凄く良かったんですよ。こんな感動した「君が代」は初めてだってぐらい感動した。

なんか、「自然に湧き上がる音」ていうか。君が代って、ちょっと押し付けがましい演奏になっちゃうときあるじゃないですか。「お前ら、国民なんだからこの秩序に従えよ」みたいな、そういう「古い共同体の抑圧力」を感じちゃうところがある。特に日本は1945年の呪いというか、人類の色んなネジレを引き受けちゃって色々と難しい事情にある国ですからね。

でも、ベームの君が代、凄い良かったんですよ。なんか、押し付けがましくてチャチな現世の秩序なんぞ関係ないところで、「ただそこに湧き上がるもの」て感じで。「国破山河在」みたいな感じ(笑)

「”国破れて山河あり”みたいな君が代がいい」とか言ったら右翼な読者さんは怒るかもしれないが、多分右翼なあなたが大事にしたいと思っている「國體」っていうのは、実は「山河」レベルの方なんですよ。だから、「国破れて山河あり」て言った時の意味での「国」なんかは、「ジョブズ型リーダー幻想」とともに、消え行くカラヤン的指揮者の思い出とともに、歴史の彼方へ流れ去らせてしまうべきなんだと思います。

その先に、「ただ湧き上がる」ような、そういう「自然なる連携性」を立ち上げること、それが日本経済がこれから希望に満ちた黄金時代を迎えるか、それともただただ現状の罵り合いを続けて没落するかの分かれ目ってわけです。

そのために準備しておいた本が来年2月に出るんで、ご期待ください。

またまたムチャクチャ長い文章をここまでお読みくださって、ありがとうございました。

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