実写版宇宙戦艦ヤマトが、なぜチャチに感じてしまうのか?から考える「科学と日本」。

昨日、テレビで「SPACE BATTLESHIP ヤマト(木村拓哉氏主演の宇宙戦艦ヤマトの実写版)」をやってて、たまたま途中からチラ見してたんですけどね。

ガミラス星人の侵攻を受けて、放射能に汚染された地球を救うために、イスカンダルまではるばる放射能除去装置を取りに行く・・・っていう設定じゃないですか。原作は。

多少違う部分もあるみたいだけど(最後のほうしか見てないからよくわからない)、映画版もだいたいそういう設定だったっぽいんですけどね。

ついに目的地について、で、放射能除去能力を、実際に見せてくれ、俺達は確証が欲しいんだ・・・て言って、イスカンダルの人に、「じゃあやってみせます」みたいな感じでやってみてもらうシーンを見たんですけど。

みんな宇宙服(防護服?)みたいなのを着ていて、その空間(ガミラス星の地下)には放射能が満ちていたんだけど、それを「はい、今除去しましたよ。あなたがた地球人に最適化しました」って言われて。

で、半信半疑のクルーたちをさしおいて、勇気のあるキムタク氏はおもむろに宇宙服のヘルメットを取って、まわりの匂いをかぐように数回呼吸して・・・・

「大丈夫だ!!放射能は除去されてる!!」

みたいな感じだった(笑)

・・・って毒ガスかよっ!!



もうどこから突っ込んでいいのかわからないぐらいの感じなんで、それがどうおかしいのかについて「科学的に説明」するのは辞めておきますけど、こういうセンシティブな時代に、ああいう描写ってちょっと良くないんじゃないか・・・と思いました。

こういうのを笑って流せないような、例えば「放射能」と「放射性物質」との違いとかにこだわるレベルの厳密な感性の人だったら、もうお金払われても見るのが苦痛な作品だったと思う(笑)

でさ、宇宙戦艦ヤマトって、やっぱ日本人としては凄い「代表的SF」と言っていいぐらいの作品じゃないですか。

それを、満を持して実写化する・・・っていうときに、なんか、なんでああなるの?っていうような・・・・それを考えてみたい。と思った。切実に。予算とかの問題じゃないと思うんですよ。

僕、ガンダムも結構好き(特にファーストは)なんですけど、あれもね、ちょっと科学的に(というか”リアリティ”として)非常にヤバイ描写あるじゃないですか。

ファーストは比較的マシだった気がするんですけど、「逆襲のシャア」とか見てると、宇宙っていうのはただ空気が無いだけで、気温も放射線も人体にとって全然問題ないレベル・・・みたいな世界だなって思う。

息止めてりゃ宇宙を全裸で遊泳しても全然OKみたいな(笑)

いやいや、批判してるけどガンダムも宇宙戦艦ヤマト原作も僕結構好きなんですよ。でも、好きだからこそ、もうちょっとなんとかならんのかな?って思うじゃないですか。

例えば実写映画化するとなったら、お金かけただけは回収したいわけですけど、そういう時に、ああいう描写があったら一気に萎える人ってやっぱ多いですよね。特に、例えば海外展開するとなったりしたら。

で、作劇の都合とかさ、盛り上げるためとかさ、そういうので「どうしようもなくそうなっているんだよ、いちいち言うのは野暮だろ」・・・・っていうレベルの話じゃないんですよ。

映画やドラマの中の「天才ハッカー」がやたらキーボードをカタカタカタカタってやってるのはオカシイ・・・とか言うレベルだったら「演出」でいいんですけど。

でも、そういうのとは違うレベルのヤバさがありますよね。

別に、SFならSFでいいんだけど、攻殻機動隊とかアキラとかエヴァンゲリオンだったら、「そういうこともあるかも」的リアリティが感じられるし、海外にもコアなファンができる、新しい「日本発のかっこ良さ」を提示できてるわけなんでね。

あるいは、もう「少林サッカー」みたいにしちゃうんならまた普遍性があると思うけどね。なんか、そのレベルのテキトーさを、「凄く真面目な顔」でやられると、凄く恥ずかしい気持ちになるというか。

アメリカのドラマとか映画とか見てて、そういうシーンって、ほとんど無いですよね。特に最近のアメリカテレビドラマは、むしろ逆にやたら「マニアックに科学的なトリビアネタ」にこだわりすぎてるんじゃないか?ってのが多いぐらいなんで。

で、やっぱり、そういう「マットウさ」が共有されるってことは、これから世界的に売っていけるコンテンツを作るときに大事だと思うんですよ。

ただ、

「アメリカは凄いけど日本はダメだね」で終わったら永遠にこのままが続く

ので、

なんで日本じゃそうならないのか?彼我の違いは何か?どうすれば良いのか?

について考えてみたいんですけど。



アメリカのドラマや映画で、「科学的な真っ当さ」が基本的にシッカリしてるのはなぜかっていうことを考えると、まず基本的に「世界で一番ガッチリ作られた学歴社会」があるからなんですよね。

それが、「学位」とか「認証された客観知」に対する共有された尊重意識を社会に埋め込んでいる。

じゃあ、日本でもそれをすればいいじゃないか?って話になるし、実際にそういう流れには既になってるとは思うんですけど、ここで大事なのは、「無理押しにアメリカ化」するんじゃなくて、

「アメリカ的な客観知の尊重」のモードと同時に、「それが取りこぼすものを引き上げる特別な配慮システム」を、真剣に考える

ことなんですよ。「ハサミ討ちの形」でいかなくちゃいけない。

「科学的知識」を社会で共有するっていうことは、人々同士の「権力争い」の側面が常にある

んですね。

つまり、「科学的知識を尊重する」っていうことは、「現場的なポジションにいる人の、”そんなんこうに決まってるやんというショートカット回路”」を邪魔するということになりがちだし、逆もそうなりがちなんですよ。

だから、アメリカでは、「16歳で大学を卒業して物理の論文を書く才能」を物凄くエンパワーする引き換えに、いわゆる「底辺」的なところでかなり破滅的なことになってる「代償」を払ってるんですよね。

で、日本は、これから、「アメリカレベルに、客観的なシステムが縦横無尽に通用する社会」になっていくべきだし、そうしないと、経済もうまくいかないし、政治も何も決められない状況が続くし・・・・ってことではあるんですよ。

だけど、なぜそういう動きに「抵抗勢力」が現れるのかというと、そういう「システムをゴリ押す」だけだと、日本の「一番良い部分」も消えてしまう可能性があるからなんですよね。

グローバリスト的なポジションにいる日本人とか、「学歴的に恵まれた立場」だけで生きてきた日本人は、「日本人の几帳面さや勤勉さや秩序感」は、「タダで手に入るもの」だと思ってるフシがあるんですけど、そんなことは無いんですよ。

それは、やはり「そういう空気を維持するための儀式的メカニズム」が何重にも作用することによって、「かなり頑張って維持している長所」なんですよね。

だから、「客観知的なシステム」を、「ゴリ押す」だけでは、「そうは言ってもアメリカみたいにはなれない」という「本能的な拒否反応」が起きてしまうんですね。

そこをもし無理に押し切ってしまうと、「長所においてアメリカほど徹底できず、日本の良さ的なものも崩壊して使えなくなる」という、一番ダメなパターンに陥ってしまうんですよ。

そういう意味では、「抵抗勢力さん」には常に「隠された本質的な意義」があるんですね。

でも、何度も言うように、だからといって今のままズルズルと何もできずに衰退するわけにもいかないから、「客観知的なシステムがもっと通用する社会」にしていくことは絶対必要なんですよ。

だからこそ、「”抵抗勢力さん”が存在を許されていることの本質的意義」をまず考え、それを「別の方法で実現することで根枯らしにしてやろう」という発想が必要なんですね。



この問題がちゃんと解決していって、日本における「知性派(概念先行の個人主義者の”長州藩士”たち)」と「現場派(集団の中で生きる現地現物主義者の”薩摩藩士”)」たちとの「21世紀の薩長同盟」が実現できる文化が生まれた時に、

やっと、「日本発の、世界を席巻できる新しい商品」ってのは生み出せるようになる

んですよ。過去にウォークマンがやったような。

過去の、「自分たちの本能」だけで突っ走れた時代と違って今の日本は色々賢くなってるし、賢くならなくちゃいけない時代でもあるので、だからこそ、特別の配慮がないと、ただ「変人を大事にしましょう」って唱えるぐらいじゃ再度復活したりできないんですよ。

子供の頃なら無心に外国語が出来るようになったけど、大人になってからだとある程度文法の勉強も必要ですよねみたいな世界がそこにはあるんで。

ましてや規制緩和や金融緩和をしさえすれば生まれる・・・ってことは絶対ないです(そのこと自体の是非はともかく、日本人のクリエイティビティの広範囲な発揮を刺激する方策としては)。

この記事の最初の方で書いたけど、AKIRAとか攻殻機動隊とか、エヴァンゲリオンのメカニックって超カッコイイじゃないですか。世界中にファンがいる。

アップル社のデザインの浸透力・・・みたいなのに、”潜在的には”負けないレベルのオリジナリティと先鋭性があるんですよ。

でも、今はそういうのは「個人の名人芸」レベルで成立するものでしか価値に転換できてないですよね。

そういうのを、「広い範囲を巻き込むシステム」を噛み合わせようとすると、その「本当の価値」を「システム的なものがすくい上げるための特別な配慮が全然ない」から、途端に「実写版宇宙戦艦ヤマト」みたいになっちゃうんですよ。

それを超えていくには、「知的な日本人」は、「グローバリズムの威を借る狐」であることを辞めて、「日本好きのガイジンの視点」みたいなのにシフトするようにしなくちゃいけない。

「攻殻機動隊」のままだったら相当マニアックな人にしか受け入れられないコンテンツですけど、それをアメリカ人が再解釈して「システム」と接続させたら、「マトリックス」みたいな映画になって全世界で大ヒットする商品になるわけでね。

でも、アメリカ人にできるのは、「アメリカ的に単純に理解できる範囲まで」なんで。

だからこそ、日本の中の知性派は、そういう「再解釈機能」を、特別に真剣に練磨する必要があるんですよね。

そこに、「アメリカの後追いじゃない自分たちだけに出来る新機軸」の可能性が生まれる。



ただ、そういう「再解釈機能」を仕事にするってことは、「アメリカではこうなってんのに、なんでお前らできねーの?あーあ、ダメだねえ!」っていう形の仕事の作り方よりも難易度が高いんですよね。

だから、社会全体でそういう「再解釈機能」をバックアップしていくように持っていかないと、なかなかそういう方向の仕事を創りだしていけない。

でも、そこを乗り越えない限り、日本はあらゆる部分で「分断」を解消できないままどこにも進めずに閉塞し続けますからね。

その「どこにも進めない閉塞感」が、限界まで高まってきたら、「薩長同盟的価値」に対するニーズがやっと「広い範囲に自覚される」ところがありますから。

だから、限界まで罵り合ってることが必要なんですけど・・・もうすぐ、その「違和感」が臨界点に達して、ネジられまくったゴムがギャーンと戻っていくように、「新しい共通了解」が立ち上がってくるようになりますよ。

みなさんと協力して、日本をそういう方向へ持っていきたいと思っていますんで、ぜひご協力ください。

それが、「21世紀の薩長同盟を結べ(出版社のサイトで試し読みができます)」なんですよね。


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