日・中・韓が心の底から仲良くなる唯一の方法。

この記事は、件名通りの内容で、今年二冊目に出したいと思っている本の概要を書いてみようと思っているものです。(追記ですが、結局次の作品は別のテーマになったので、この記事の本は2015年に持ち越しになりました。)

少し長くなりますがかなり真面目に書こうと思っているので、もし読者の方のご友人等に、日本語の読める中・韓関係の方がいらっしゃったら回覧していただけると幸いです。



先週末の東京は凄い雪でしたけど、僕もたまたま企業コンサルの仕事で東京にいて、で、吹雪の中靖国神社に行って来たんですよ。

(クリックで拡大します)

コンサル仕事と、出版社二社との打ち合わせのアポイントの合間に、前日泊まりだったんでデカいスーツケースを引っ張りながら、メチャクチャ寒いし地面凍ってるし雪は降ってるどころか吹雪いてるし・・・・ってな状況で、わざわざ靖国神社に行く僕は物凄く筋金入りの右翼か?って感じですけど、でも行って良かったです。

雪の靖国神社は凄いキレイだった。

僕はいわゆる狭義の「右翼さん」じゃないんですが、しかし「靖国神社を否定する立場の上にあたらしい世界平和などありえない」と考えているんですよね。

で、そういう「矛盾した立場」のところから解きほぐしていかないと、日中韓の各国のナショナリストさんたちと、一本気で単純な20世紀型の「リベラル」さんが、それぞれ自分たちだけの内部言語でお互いを罵り合っていたってこの問題は解決できないんですよ。

要するに、

ある種リベラルというか、「ナショナリストではない」立場、「国際的な普遍性」みたいなものを重視したい立場の人の「言葉遣い」によって、「靖国神社の存在意義」を「捉え返す」

みたいなことが必要な時期に来てるんですよね。

それができないと決して東アジアの問題は解決しないし、それができたら全て解決する、そういう「時代のイシュー(決定的な課題)」がここにあるんですよ。





とはいえ、なんで靖国にそこまでこだわるのか?ってのがわからない人もいると思うんですがね。

多くの右翼じゃない普通の日本人(普通に戦後の教育を受けて普通にあんまり政治的なことに関心もなく育った人)にとっては、結構「安倍政権の周辺にいるタイプの人たち」が、「なぜそこまで靖国神社にこだわるのか正直わからない」っていう人も多いと思いますしね。

もう、面倒くさいから戦犯分祀しちゃえばいいじゃん、とか、千鳥ヶ淵でいいじゃん、とかね。なんでいちいちそんなところにこだわるわけ?

って思ってる日本人も結構いる時代だと思うんですよ実際にはね。

でも、じゃあここで「日本のナショナリスト」に我慢させればすべてまた解決するか・・・・っていうと、そうはならないんですよね。

例えば日中韓の問題っていうのは、日本側から結構謝罪とか賠償とかそれなりにやってきた中で、でも毎回日本の右翼的な政治家が「ブチ壊しにする発言」をするから、結局元の木阿弥になる・・・・っていうことを繰り返してきているわけですけどね。

でも、「ブチ壊しにする発言」をする人にだって、彼らなりの真実や彼らなりの譲れないものがあるわけですよね。それを無理やりに弾圧したり、虐殺したりできる時代じゃないわけです。

だからこそ、

「日本のナショナリスト」にだって「納得」できる、「これなら承服しても仕方がない」と「彼らが守りたい価値観に照らし合わせて受け入れ可能な」世界観を作っていかないといけない

んですよ。

彼らに無理やり我慢させて一瞬ウヤムヤにできても、絶対また「問題発言」が連発して余計にこじれる状態になるのは明らかすぎるほど明らかですからね。

ここをね、まず20世紀型のリベラルの人にも、中国・韓国のナショナリストの人にもぜひともわかって欲しい。この自由主義世界において、言論弾圧するわけにはいかないんだから、お互い全力で否定しあってても解決するわけないんですよね。

でも、

「お互いのメンツが立つような共通世界観」は、慎重に考えれば実現可能

なんですよね。

それを目指さなくちゃいけないんですよ。

で、それをやるにはどうすればいいか、っていうと、さっき書いた、

ある種リベラルというか、「ナショナリストではない」立場、「国際的な普遍性」みたいなものを重視したい立場の人の「言葉遣い」によって、「靖国神社の存在意義」を「捉え返す」

っていう作業がこれから必要になってくるんですよね。

なぜそれが必要か?っていうと、

日本のナショナリストの人たちが靖国神社にこだわるのは、彼らの暴虐なエゴゆえか・・・・っていうと、(まあ中にはそういう人もいるけど)それだけじゃないから

なんですよね。

要するに、

そこに「根底的な本質レベルのアンフェアさ」が存在するから、彼らも意地を張らざるを得ない

んですよ。

だからそこの「根底的な本質レベルのアンフェアさ」さえ解消できる「あたらしい世界観」さえ作り出せれば、むしろ戦争被害者への贖罪意識だとか言うものは、「彼ら自身の心情」から自然に出てくるものなんですよね。

で、「靖国神社の扱いに対するアンフェアさ」っていうのは、もっと普遍性を持って日中韓のすべての国や、例えばイスラム諸国や・・・・っていう「ありとあらゆる世界中の問題」と根底的な相互理解が可能なものなんですよね。

そういうような「理念的な捉え返し」っていうのは、一本気なナショナリストさんたちにはそういう習慣も文法も用語もあまり無いですから、だからこそある程度リベラルな感性と素養を持っている人が、そういう「捉え返し」をやっていくことが必要になってくるんですね。



で、靖国神社の扱いに対するアンフェアさっていうのは、要するに

「先に欧米諸国の方がよっぽど暴虐な振る舞いを非欧米諸国に対してしてきたんじゃないのか?」

っていう部分なんですよね。

で、例えばアヘン戦争時期のイギリスの中国に対する扱いとか、日本が中国に対して起こしてしまった不幸と勝るとも劣らないものだったと思いますけど、

「一般的なイギリス人の平均」の一億倍ぐらいは、「普通の日本人」は中国に対して反省の念を持ってる

と言っていいと思いますよ。

で、靖国神社の「本義」的な部分は、やっぱりその「このまま欧米人だけが世界の支配者として暴虐を振るい続ける世界であっていいのか?」というところでの、

「最後の最後でどうしても譲れない一線」として立ち上がった人たちの意志

・・・・みたいなものなんですよね。

長州藩系の、維新志士の思想性みたいなのがやはり根底的にあるのが靖国神社なんですが、例えば幕長戦争で滅亡寸前の長州藩が、高杉晋作の大立ち回りで逆転に転じていく時にあった「性根」っていうのは、彼が実際に上海に行ってその地での欧米人の暴虐を知っていたからこそ、「このままではいけないと切実に身を焦がした執念」が深いところに絶対ありましたからね。

だからこう、”一国だけのこと”じゃないんですよ。実際日露戦争ぐらいまでの日本の「意地」は、「非欧米諸国」の独立運動にも、アメリカ黒人の公民権運動にもかなり影響を与えてますしね。

その後の昭和時代の軍人でも、いわゆる「大アジア主義者」みたいな人もかなりいたしね。

で、もちろんその結果としての近隣諸国への色んな被害・・・っていう不幸もあったわけですけど、それを

「どう理解するのか」っていう枠組み

が大事なんですよね。



で、今回靖国神社に行って、で神社本体は、一般的な重苦しいイメージに比べて凄く清明な感じのするところだなあ・・・っていうのが、記憶と違っていて結構新鮮だったんですがね。

一方で、敷地内にある遊就館(靖国神社付属の戦争博物館みたいなもの)の展示は・・・・ちょっと個人的にはあんまり賛同できなかったんですよね。

いやいや、あんたらもうちょっとぐらい反省したほうがええんちゃうか・・・・って感じだった。

靖国神社の本来的な存在感は、中韓のみならず世界的な普遍性があるものであるはずなんですが(少なくとも僕はそう思っているわけですが)、遊就館の展示は、まあ展示自体には興味深い内容がたくさんありつつ、その「トーン」が・・・・例えば中国や韓国の人があれを見て「全然平気でいられる」かっていうと、ちょっと難しいような気がする。

現代の日本人の、あまり政治的でないタイプの人間(いわゆる”サヨク”でなくても)の平均的な感性で見ても、遊就館の展示自体は、ちょっとあまりにもオドロオドロシクて一方的な感じがするんじゃないか・・・・と思ったりする。

でも、「今の状況ではこの形でしか噴出させられない感情エネルギー」っていうのが日本には渦巻いていて、行き場を求めているんだな・・・・っていうことも凄くわかる。

だからこそ、

「彼ら日本のナショナリスト側の本当に大事にしたい思い」

を、

いわゆる「ポリティカリー・コレクトな形」というか、「より普遍性を持った視点」

から、

「代弁」

してやれる

「あたらしいリベラル」が今の日本には必要

な段階なんですよね。そこを突破しない限りあらゆる問題が解決しないんですよ。



で、じゃあどういう風に理解すればいいのか、っていうことで言うと、ちょっとこれはいわゆる現代の一般的なリベラルの人から見ると「ありえないこと」のような気がするかもしれないことを言いますと、

「彼らの信じた大義」自体をもっと真正面から認めてやる

のを基本ラインにすべきなんですよね。

要するに、時代的に今の「いかにも文明人」ヅラしてる欧米人とは全然違うムチャクチャやるムーブメントが先にあったんだと。

で、産業技術的にも国力的にも全く劣後している時代状況の中で、あれだけ尊敬していた中国王朝がムチャクチャに蹂躙されていっている時代があった中で、

「このままではいけない!!という強い思い」

があって、必死になってなんとかしようとした人たちと、その系譜に連なる人たちが眠っている社なんだ・・・っていう風に理解してあげるべきだと思うんですよね。

でね、ここで凄く大事なことなんですが、日本人のというか、東アジアの文化的伝統から言うと、

その「大義」さえ認めてくれるなら、結果として巻き起こしてしまった不始末に対しては文字通り”切腹レベル”で責任を取るという美徳

ってのがあるじゃないですか。

「その回路」を突いていくべきなんですよ。本当の解決のためには。

そこのところで、「大義」レベルのことを全否定している立場から全体を組み上げているから、ほんのちょっとした瑕疵すらも認められないモードになっちゃうんですよね。

ただの一国の自衛戦争だったんだ。それに対してこんなにも美しく戦った人たちがいたんだ。っていうことは物凄く語るんだけど、その結果として巻き起こしてしまった惨禍に対しては一切言わない。

日本国民が被った惨禍についてはたくさん語るけど、中韓その他アジア諸国の「被害」については全然語らない・・・・ただ「勇壮な戦士たちの美談」だけを語る・・・・っていうのは、やはり

「右翼さんの精神の根っこ」からしても本当は居心地の良いものではない

はずなんですよね。でも、現状は「そういう世界観」でしか語れないから

そうなってしまっている

だけなんですよ。

もし「大義」の方を認めてやれて、

「その大義のために真剣に戦ってきたが、複雑な国際社会の力学の中で、流れに翻弄されて道を踏みあやまっていってしまった結果各方面に迷惑をかけてしまった。その点については深く深く反省するものである」

っていう展示にするならば、本質的には中韓の人にも最後にはわかってもらえる形の展示になるはずなんですよね。(今はまだそう思えないかもしれませんが、その”説得戦略”についても後で述べます)

まず、そういう方向であるならば、日本のナショナリストさんたちが「本当の意味で反省」できますからね。要するに

「根底的な本質レベルのアンフェアさ」さえ解消

されていれば、むしろ右翼さんの内部自浄作用みたいなものとして、「実際にやってしまったことについて言い逃れするのは日本人として許されぬ」的な回路も働き出しますからね。

だから、全体として遊就館の展示は、

1彼らが信じた大義
2それに殉じて戦った人たちのリアルな物語
3そのムーブメントが結果的に引き起こしてしまった不幸に対する反省(国内外問わず)

が、1対1対1ぐらいで並ぶようにすれば、もっと「普遍性」を持ったものになるし、多分中韓のナショナリストさんが見てもそれほど問題ない、むしろ共感できるものになるはずなんですよね。

今は「2」ばっかり言ってるし、「1」を言いたいけど言えない・・・っていう鬱屈が物凄く「2」に注ぎ込まれているんで、なんか凄く押し付けがましくて、一方的な感じになってしまう。「3」の、特に国外における被害に対しての展示はほとんどないしね。



じゃあ、これをどうやって「中韓やアメリカ」に対して「理解してもらうのか」っていうことを次は考えたいんですが。

でも、本質的なレベルで「よりフェアな世界観」であるならば、自然な「生きている人間の共感」レベルでの納得感が生まれるんで、今パッと見て「ええ?」って思うほどの困難は実際やってみればないんじゃないかと期待してるんですけどね。

この「説得戦略」で大事なのは、

「対アメリカ」と「対中・韓」では別の回路で考えるべき

ってことなんですよ。

要するに、アメリカに対しては、「理屈」が大事なんですよね。「本質的なフェアネスとは何か」みたいなそういう普遍性に則った議論をしていかなくちゃいけない。

これは、「アメリカ」だけじゃなくてアメリカンな価値観を持って生きている日中韓のありとあらゆる人に対してもそうなんですが。

一方で、中韓のナショナリスト相手には、「理屈」で持っていくべきじゃあなくて、むしろ「お互いのメンツ」がちゃんと立つような「ストーリー」で対話をしていくべきなんですよ。

日中韓のどのナショナリストたちも、基本的に「アメリカンな普遍性」とか「フェアネス」なんて概念自体が世界の混乱の元凶ぐらいに性根では思ってるわけですから、そこに「理屈の言葉」で向かって行ったら余計にコジレさせるだけですからね。

でも、「日中韓のナショナリスト」たちには、「ナショナリストだからこそ守らなければならない仁義の一線」ってのがあるんで、彼ら相手には彼らの言葉で語っていかないといけないんですよ。

で、その2つの「リクツ」と「メンツ」の世界観がバラバラの方向を向いてたらただ混乱するだけなんですが、

「リクツを大事にしたい人にはこういうリクツとして理解できる世界観」

「メンツを大事にしたい人にはこういうストーリーとして理解できる世界観」

この2つが「表裏一体」になるように持っていかないとダメなんですね。



じゃあまず「アメリカンな価値観」との整合性をどうやって取っていくのか。つまり「リクツ」としてどういう着地にさせていくのか。

それはね、要するに

「このレベルのこと」まで包含してこそ本当の「多文化共生」だろ?”ダイバシティ”ってこのことだろ?

っていうようなメッセージなんですよね。

なんか、例えば在日米軍が、

「尖閣問題で何かあった時のための戦術シュミレーションはやっておいたぜ・・・でも知ってるように最近は俺らもそれほど余力があるわけじゃないしな、不要になるようにうまく関係改善してってくれよな」

って言ってくるんはね。素直に聞けるとこあるんですよね。

でも一方で「アメリカのリベラル」「知日派のアメリカ人」とか言う類の人たちから、靖国に参拝する安部総理とかを見て、

「失望した」「もう見捨てた」「日本の本当の良さはそういう国家主義ではなくてヤオヨロズの世界観なのに」

とか言ってるのを聞くと、「お前らに日本の何がわかるねん!」と思っちゃう人も多いと思うんですよ。少なくとも僕は毎回そう思うんですよね。

そういう人たちの、「彼ら共和党系と違って、私達は”良いアメリカ人ですよ”」っていう態度がやっぱり物凄い偽善を含んでるじゃないですか。

あんたらのその「自分たちの世界観だけが唯一の正義」みたいな振る舞いがナチュラルに踏みにじっているものが、逆側に必死に靖国神社に生きる希望を見出さざるを得ない状態になってしまう人たちを生み出してるんですよ!!

っていうところがあるわけですからね。(この辺のネジレがあるからこそ、このギャップを超えられたら凄い可能性がある・・・ということでもあるので、この記事を追加で読んでいただければと思います。

ただ、この問題の難しいところは、じゃあ突然アメリカが世界中の問題から一切手を引いたらすべてが解決するか?っていうとそうじゃない・・・っていう「押すに押せない・引くに引けない」ジレンマなんですよね。

「アラブの春」で独裁政権を打倒したのはいいが、今度はまとまってリーダーシップを取れる団体が物凄く過激な宗教原理主義者たちしかいなくなって、余計に「普通に生きている人」からすると望まない状況になってしまった・・・・みたいな現象が常にある問題なので。

今後、何十年単位で見ると、20世紀末から2000年代みたいなパワーをアメリカが発揮することはだんだんできなくなっていく時代じゃないですか。

で、その時に、「反米してれば自分たちは正義でいられた」っていう人たちにも本当の責任ってのが生まれてくるわけですよね。

だから、「アメリカの存在感がだんだん薄くなってきた」分、「それに代わる我々本来の正義のあり方を模索したい」っていうエネルギーは当然高まってくるんですよ。

でもその「アメリカを代替したい!」っていうエネルギーが、あまりにも「アンチグローバリズム」的な方向に噴出したら誰のためにもならないんですよね。

アンチグローバリズムを叫んでる人も、じゃあ自分たちが独裁的に権力持てるようになっちゃったら結構正直困ると思うんですよ。もちろん、「大多数の普通の人たち」も困るしね。

だからこそ、

「アメリカを代替しようとするエネルギー」が噴出して来るのは止めようがないし、無理に抑圧したら余計に不幸な形で噴出してしまう

ので、それが

「アメリカが一歩引いた分自分たちが一歩代替していく」っていう、ちゃんと「現実的な路線」と結びつくようにマネージしていくこと

が、今凄く大事なことなんですよね。

「北風と太陽」じゃないですけど、

「アメリカ的秩序からはみ出る感情」を「全否定」していくとテロとか宗教原理主義とかになって噴出してしまう

ので、むしろ

それを利用して「アメリカ的なものが取りこぼしてしまうリアリティをアメリカ秩序と共存させるように持っていくことが大事だよね」

っていう時代なんですよ。

その大きな歴史観のもとに、靖国神社を位置づけていくべきなんですよね。

2月26日に出る拙著から図を引用すると、



(クリックで拡大します↑ 本ブログの画像はすべてコピーレフト≒出典を明記する限りにおいてご自由に再利用可能です)

こういう形に持っていくことが、21世紀の今後が、ただアメリカが一歩引いた分世界中が混乱して困ったよね・・・・にならないために重要なことなんですよね。

安倍政権が「親米路線」をちゃんと維持しながら、靖国にも行く・・・・っていうのは、「そういう意味」において、

「アメリカの理想主義」を、さらに一歩先に進めるために必要なこと

なんですよ。

つまり、

「日本のためだけじゃなくてアメリカのためにも重要なこと」

なんですよ。

要するに、

靖国神社にあくまで参拝したい日本のナショナリストの思いと、この件に関する中韓の怒りと、例えばアメリカイズムと真っ向からぶつかっているイスラム原理主義者たちが「踏みにじられたと思っている思い」っていうのは本質的に同値なもの

なんですよね。

だからこそ、

日本はそういう風に動いていきますよ、それが、「押すに押せない、引くに引けない」状況になってしまったアメリカの理想を、決して消さないようにさらに推し進めるための強力な味方になるものなんですよ!

っていうような「理屈的な説得」を、「対アメリカ」ではやっていくべきなんですよね。

それができてこそ、本当の「多文化共生」とか「ダイバシティ」でしょう?っていうリクツで繋いでいくべきなんですよね。(再度ですが、この追記の記事もお読みください)

で、これは、「世界の根底的な不安要因」を「あたらしい状態」に移行させるための「希望」なんですよね。

靖国神社にはそれだけの価値がある

はずなんですよ。

だから、ただの一国だけの自衛戦争でしたみたいな世界観で終わらせるのは、英霊の犠牲に対して申し訳ない。世界では犯罪者扱い・・・・ってのにされてる状態から解放してこそ、後進としての勤めが果たせたと言えるのではなかろうか?のお、そうであろう美しき国日本の同胞のナショナリストのみなさまよ?

アメリカ的存在とイスラム原理主義みたいに、ガチガチに一神教同士がぶつかりあってると、やっぱどこまでも譲れないですからね、正直どうしていいかわからない・・・・ってところがあるはずなんですよね。

アメリカがやってる振る舞いの「問題」を指摘するのは小学生でもできるんですが、じゃあいきなりアメリカが一切その問題から手を引いたら余計に混乱するってことがたくさんありますからね。

その「抜き差しならない状況」自体を理解した上でサポートしてやれる存在を世界は今切実に必要としてるんですよ。

で、アメリカとイスラム原理主義みたいに一神教の世界観同士がバキバキにぶつかりあってると難しいですけど、我々東アジア人にとってみたらね、絶対的な善悪だとか真実だとか、そんなことは肌感覚的には結構どうでもいいことですからね。

お互いのメンツが立つようなストーリーができればいいんですよ。東アジア人同士ならね。

それが、「対アメリカのリクツ」的な問題とは別の、「メンツを立て会えるストーリー」を考えるべき・・・っていう「対中・韓」の解決策なんですよね。



じゃあ、その「対アメリカ」で確立させた「あたらしい普遍性のリクツ」を、「対中・韓」で巻き込んでいく時のストーリーを今度は考えてみたいんですが。

そのへんは、やっぱり「東アジアの文化的伝統」みたいなのがあるはずなんですよ。そこで「わかる、わかるぞおおお前の気持ちぃいい!」ってなるように持っていくべきで。

それが、東アジア的な「大義と意地の美学」みたいなものだと思うんですよね。

2000年代初頭に、インファナル・アフェアって映画があったじゃないですか。中国映画ね。

マフィアに潜入捜査した警察官と、警察に潜入したマフィアの話。僕は凄い好きなんですよね。

なんかそういう、

「もともとあったイノセントな思いが、時代に翻弄される中で汚れてしまって行くなかで、あくまで自分本来の意地を通そうとそれぞれが苦労する。確かに浮世の論理で言えばそこに罪はあるが、しかしそれぞれがただ必死に生きた人間たちだったじゃないか。死んでまでそれをアレコレ言うような御無体なことはなさるまいよ。のう、そうであろう?」

っていう世界観?あの偉い発明家も凶悪な犯罪者もみんな昔子供だったよな・・・・っていうような。

あと、「JSA」っていう韓国映画が僕は凄い好きなんですよ。これも2000年ぐらいの映画で。

以下ネタバレ注意でお願いしますけど、JSAっていうのは、南北朝鮮の境界線上の板門店にある、韓国でも北朝鮮でもない中立国が管理している「ジョイント・セキュリティ・エリア」のことなんですが。

今やハリウッドスターのイ・ビョンホン氏の出世作なんですがね。

これは、国境線を挟んで向かい合ってる南北の兵士二人ずつが、ひょんなことから仲良くなっちゃうって話なんですけど。

それに出てくる北朝鮮のオ・ギョンピル中士(っていう階級があるらしい)ってのがムチャクチャかっこいいんですよ。ソン・ガンホっていう俳優さんがやってる。

オ・ギョンピルは韓国のチョコパイ(ロッテの?)が好きで、韓国軍の兵士であるスヒョク(イ・ビョンホン)が毎回お土産に持ってきてたんですよね。で、「これを北朝鮮でも作れないものかなあ」とか言いながら食ってて。

で、こんだけ仲良くなってもいつかは戦争で殺し合っちゃうのかな?ってなんとも言えない気持ちになってたスヒョクは、冗談めかして、でも凄い緊張しながら、亡命しないかって誘うんですよ。亡命したらチョコパイたらふく食えるよ?ってね。

そしたらオ・ギョンピルは食べかけのチョコパイを手に吐き出して、

「おい、スヒョク、一度しか言わないからよく聞け、俺の夢は、いつか北朝鮮が、南より美味い菓子を作ることだ!」 

って凄いドスの効いた感じで言って震え上がらせたあと、

「・・・・分かるか? 

その日まで涙を飲んで・・・このチョコパイで我慢しよう・・・」 

って言ってもう一回手に吐き出したチョコパイ食うの(笑)。

なんかね、ほんと良い映画なんですよ。シリアスなのに随所で笑えるし、でもなんか真実に触れるものがある。

2000年代初頭の韓流ブームって、やっぱなんか凄いリアルなものがあったと思うんですよね。・・・っていうぐらい物凄い映画なんですよJSAは。(最近の日本での韓流ブームの落ち込みは、まあ嫌韓ムーブメント云々もありつつ、そもそもなんか韓流自体が商業主義的になりすぎて、本国の韓国人からしてもちょっと乗り切れない思いを持ちはじめちゃってるような感じがします)

映画はその後、4人で仲良くやってるところを北朝鮮の上官に見られちゃって、で撃ち合いになっちゃって北朝鮮の上官と若い方の兵士が死んじゃうんだよね。

で、そこでオ・ギョンピルがすぐに冷静に対処して、まだ息があった北朝鮮の上官に止めを刺したあと銃を拭って韓国の二人に渡して、で両国が戦争にならず、かつ誰も罪に問われない口裏合わせを指示するシーンも物凄いかっこいいんですけど、一番かっこいいのは、事件を中立国の調査委員会が調べあげて、で両国立会いのもと尋問が行われることになるシーンなんですよ。

発射された銃弾が一発行方不明だとか、そういうところからだんだん真実が明らかになってしまって、で南北の軍隊と中立国監査官が立会いのもと、韓国軍のスヒョクと北朝鮮のオ・ギョンピルが再度引き合わされるんですよ。

で、もちろん知り合いなはずはないことになってるからお互い知らん顔して供述調書を読んで、間違いありません。とか、二人ともずっとシラを切り倒そうとするんだけど。

でも、どんどん圧迫されていくうちに、南のスヒョク(イ・ビョンホン)がだんだん心が折れて来ちゃって、全部自白しちゃいそうになるんだよね。

で、自白しちゃうかも?自白しちゃうのか?ああ、自白してしまいそうだぞ?ああ、これは自白するな・・・・

ってところでオ・ギョンピルがバコーン!って机を蹴り倒して、

「この野郎!反動分子め!俺は傀儡軍を倒す日を待っていた!この日を待っていたんだ!朝鮮人民軍の強さを見せてやる!この反動野郎!くそったれ、裏切り者め!アメリカ帝国の手先め!朝鮮労働党、万歳!敬愛する最高司令官、金正日将軍、万歳!」 

ってある意味文脈不明な大騒ぎをして、全部ウヤムヤにして帰っちゃうんだよね。

もうそのシーンが物凄いかっこ良くて、成熟した東アジア人の男ってのはコーあるべきだろ!?みたいな感じなんですよ。

「こういうレベルの話」の共鳴感を、靖国神社問題においては日中韓で巻き起こしていくべきなんですよね。

歌舞伎の勧進帳にも通じる何かがあるじゃないですか。

勧進帳っていうのは、源義経が追われて逃げてる時に、関所の門番に「おい、こいつ義経ちゃうん?」ってバレそうになるんだけど、そこで従者の弁慶が、「お前が義経に似てたりするから余計な面倒を被ってるじゃねーかこの野郎!」とか言って大事に大事に思ってる主君を泣く泣く足蹴にして大騒ぎをしてみせるんですよ。

で、その関所の門番も、その様子を見て「あ、こいつ義経と弁慶やな」ってことはわかってしまうんですけど、でもその主君を思う気持ちの純粋さに打たれて、気づかないフリして関所を通してしまうんですよね。

JSAも、そのオギョンピルの行動に感動した中立国の監査官が、スヒョクに対して「真実を私にだけ話してくれるなら、上には別の報告書をあげてあげるわ」って言って解決するんですよ。

なんか、「こういう回路の話」だと思って、さっきの「リクツ」を「ストーリー」に展開できれば、お互いのメンツもちゃんと立つしね、最終的にはわかりあえる可能性があるんですよね。

そこでは、旧日本軍が「やってしまったこと」を一つ一つ批判することは確かに必要なんですよ。罪は罪ですと。でも「それだけで埋め尽くされた世界」に希望はあるのか?って話なんですよ。

最近、緒方貞子さんがアメリカの大学の博士論文で書かれた満州事変の研究書を読んだんですけどね。そこにはやっぱり「大義を信じてなんとかしようとあがいた人たちが、現実の複雑さに足を囚われて違った方向に行ってしまう苦悩」みたいなのがあるんですよね。

そういう「リアリティ」抜きに、根っこのところから極悪非道なエゴの塊が野心にかられて侵略したなんてことはないんですよ。

そういうレベルのことを理解しあえるようにならないと、絶対この問題は解決しないんですよね。

で、そもそもなことを言えば、東アジアが欧米諸国に不当に奪われているプライドの源泉を適量だけ取り返してきて日中韓で分配する構造になってるんで、だから最終的にオールウィンの組み合わせになるんですよ。

そもそも平和的に共存していた東アジアにおいて、欧米諸国が入ってきてムチャクチャをやったことで、色々な混乱がもたらされましたよと。

で、その時に「なんとかしなくてはいけない!」と思って立ち上がった存在は、圧倒的な劣勢の状態をなんとかしようと奮起したわけですから、やはり各方面に「無理」は生じるわけですよね。

日本軍は最初の理想を忘れて「侵略」と言われても仕方がない行動をしてしまった。そのプロセスで大きな被害を被った人たちもいる。

でもこういう時には、その存在の「機会費用(その存在がもしいなかったらどうなったのか・・・・というレベルの話)」みたいなものも考えなくちゃフェアじゃないですよね。そのへんが、欧米的な「ゼロイチに二分法な罪の文化」が見逃してしまいがちな部分なんですよ。

じゃあ日本がそのまま欧米諸国の植民地になって、ありとあらゆる非白人がメチャクチャな被抑圧者の立場のまま時代が過ぎたことが果たして良かったのか?っていうことですよね。

そこでなんとかしようと立ち上がった存在がいた。しかしその「立ち上がるための無理」ゆえに、不幸も巻き起こした。

その「両方をフェアに評価」してもらえないと、とうてい納得はできないよね。

っていう当たり前なことを共感できるようにしていくことなんですよ。

例えば中国では今、毛沢東が見直されているそうで。

で、毛沢東って、その政策の失敗から数千万人(最低の試算でも)以上の人間を死に追いやった人ですよね。世界の独裁者虐殺ランキング・・・みたいなコレ↓

(クリックで拡大します)

ネットでよく見かけますけど。

でね、彼についても、やっぱり「機会費用」みたいな観点が大事なんですよ。

「そこまで無理をするような人格」によって統御しないと、中国がまとまらないままずっと軍閥同士で争い続けていたら、もっとヒドいことになってた可能性だってあるんですよね。

で、中国人はさすがに老獪というか奥行きのある世界観がありますから、毛沢東について

功績7割、過ち3割

っていう総括を公式にしてるんですよね。

個別の罪を反省することはいくらでもやるべきだし、今後は同じような失敗をしないためにどうしたらいいだろうか?とか、被害者への補償ができることなら出来る限りでやっていくべきだよな・・・っていう風にもなるんですよ。

でもその「功績7割」の方をすべて否定してしまうと、じゃあ誰もそういう「みんなのために必要だった大義」には手を出さずに、ただただ俺は悪くない、被害者なんだ、どこかの世界の自分のことしか考えてない”巨悪”さんたちが踏み込んできて、何の悪いこともしてない無垢なる俺たちを蹂躙していったんだ!ってことをみんなが言っているだけの社会になってしまうじゃないですか。

それじゃあ、どこに人類の希望やら普遍性はあるんだ?そうだろう?

過ちはいくらでも反省しよう。未来に向かって何ができるかを考えていこう。しかし、その「もともとにあった大義」まで否定することは、やはり許されぬことではないだろうか?のう、そうであろう?のう、そうであろう?

「それ」を否定することは、欧米人はそうするかもしれないが、しかし東アジアの文化的伝統を共有する我々だけは、やはりやってはいけないことではなかろうか?

アメリカがそうしようとも、ヨーロッパがそうしようとも、お天道さまがそうしようとも、しかしなおこの背中の桜吹雪の紋所が、それだけは決して許さねえ、許されねえことだと泣いているんだぜぇ!!!

・・・ってな具合の、それこそ歌舞伎でバシーンと見えを切る時のような「意地の共有」を、さっきの「アメリカンな論理の骨格」に表裏一体に貼り合わせるように持っていくべきなんですよね。

で、やはり中国人が、毛沢東を否定されたくないように、日本人だって、本能的には「戦犯だった人を含めて」靖国神社を否定されたくはないんですよ。

そこに、欧米的な世界観の行き止まりを超える東アジア的な「慈愛」の世界があるんですよ。

だいたい、自分らで拍手喝采して選んでおいて、後になってヒトラーやナチスだけを断罪して「自分たちはそれとは違う存在だから」とかいう総括をするのって、やっぱ本質的にはそっちの方がむしろ偽善極まりないですよね。

もっと言えば当時のドイツをそこまでの状態に追い込んでしまった1次大戦の戦勝国の「無垢なる庶民さん」たちに罪はないのか?とかね。

彼らの経典である聖書的に言えば、

「自分には全く罪がないと思う者だけが石を投げて非難してみせよ」

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

っていう世界になってくるわけですよね。

そこにおいて、誰か一人だけを断罪してしまう・・・

特に「みんなのための大義を生きた結果多少ならざる災厄もふりまいてしまった存在」に対して、「減点評価」だけで向かってしまうとこの世界の真実に対してアンフェアな世界観になってしまう

・・・っていう

「東アジアの文化的伝統」

がここには生きているんですよ。

戦犯が合祀されるってことは、要するに「戦犯だけが悪かったんですよ」では済まないぞ、って思っている日本人の「深い責任感」のゆえなんですよね。

すべて自分の責任として、こういうことが繰り返されないようにしよう・・・っていう意志の現れとしての「戦犯の合祀」なんですよ。

僕の感じから言うと、ドイツの総括よりももっと真摯なものがそこにはあるはずなんですよ。そしてそれを、「東アジアの文化的伝統」を共有する人たちとは、「直接的な共感」を持って理解しあえるはずなんですよね。



でもまあ、こんなこと言うとアレですけど、この話を韓国(個人ではいくらでもわかりあえると思いますが国全体の態度という意味では)にいきなりわかってもらえるとはあんまり思ってないです。

でも中国とはわかりあえるんじゃないかと思う。第一歩的にはね。

これは別に韓国を蔑視する発言じゃなくて、平均的な国民のキャラクターの問題としてね。やっぱり朱子学的な純粋志向っていうか、そういうのが強いところが良くも悪くもあるのが彼らですからね。

それはまだ分断国家のままなので、ある範囲以上に「物分かりが良い」状態になりすぎると国境線が維持できなくなっちゃう・・・・みたいな彼らの事情もありますし。

でも、ここまでの話は、中国人(特にインテリの中国人)ならわかってもらえると思うんですよ。

だからまずは、日本国内で、リベラルな感性を持ってる人が、こういう「靖国神社の捉え返しのストーリー」を準備していかなくちゃういけないんですよね。

それを、「対アメリカ」にも「対中韓」にも両方通用する世界観に練り上げていくプロセスを、まずは日本国内でやると。

そしたら、ある範囲を超えると、中国人もそれに乗っかってきてくれると思うんですよ。特にインテリだったり権力者だったりする中国人なら、心理的問題なく乗っかれる入れ物になってくるんですよ。

時が満ちるまでは、各国のナショナリストは一歩も引かないぞ!って感じで押し合いへし合いしてることも必要なんですよね。特に日本のナショナリストが一歩引いてしまうと、またどこにも希望がない「アメリカンなシステムの一方的な押し付け」で世界が一色に塗りつぶされてしまう世界になってしまいますからね。

日本のナショナリストがあくまで靖国神社にこだわり続けてこそ、「あたらしい世界観」じゃないとこれは解決できないんだな・・・・って、中韓の人たちも思い始めますからね。

ただ、そういうのは「異議申し立て」として必要なんだけど、ただ「異議申し立て」だけをやっていてもそれが「あたらしい世界秩序の形成」に向かわないとそれを広い範囲で取り上げることもできないですよね。

そこで、だんだん練れてきたこういう「あたらしい世界観」が共有できれば、日&中は多分かなりスムーズに理解しあえるはずなんですよ。

で、「日中」が共有できたら、韓国は後追いでくっついて来ざるを得なくなるんですよ。人口・経済における規模感的に言ってもね。

日「やはり21世紀の東アジアはこういう方向じゃないといけないと思うんですよね」
中「そうだな、確かにそうだ。」

ってなっていく間、韓国さんは最後まで「反動言説だ!日中は世界秩序の正義を蹂躙している!」って感じになり続ける感じがするんですけど、でも実際そういう方向に動き始めたら、今度は国内で一方向にまとめるのに時間がかかる日中をさしおいて、

韓国「これが21世紀の東アジア流ですよ!一神教でぶつかり合うだけの欧米人はこれだから困るよねえー」

的に積極的に「東アジアの外の国際社会」に布教する役割を率先するようになって、

日「お、おまえ、昨日までと言ってること全然違わないか?」
中「なあ、日本はよく知らんかもしれんが、あいつらは4000年前からこんな感じだ。長い付き合いの俺はよく知ってる。」
韓「なにブツブツ言ってるんですか、置いていきますよ?ほんと頭が固くて変化する勇気のない国たちは困りますねえ、少しは我々を見習って欲しいものです」

みたいな感じで、「東アジアの友好」は実現するだろうと思います。



ちなみに、「JSA」についてこのブログ記事を書くためにDVD買って久しぶりに見たんですが、やっぱオギョンピルが机蹴り倒すシーンとか何度見ても泣けるし、いいなあ・・・・って思いながら、ふと思ったのは

JSAの登場人物は、あんまりいわゆる「韓流整形顔」じゃない

んですよね。オギョンピル役のソン・ガンホ氏は、まあ言うたら悪いですけどいわゆる純然たる「イケメン風」ではない。

けどね、オ・ギョンピルは、僕が今までに見たあらゆる映画の中で一番かっこいい人物じゃないかと思うぐらいかっこいいんですよね。

概念的一神教の世界観で表情が作られている欧米人たちとは違って東アジア人の顔は、清濁併せ呑む人間社会の真実の中で揉まれて苦労することで、はじめて特有の輝きを持ってくる・・・ってとこありますしね。

そういうところで、日中韓がお互いに相手が全部悪い・・・みたいな形で押し付けあっている時代ではない時の、「我々のリアルな美学」ってのが、2000年代初頭にはあったような気がします。

そういう「正直な感覚」に戻っていこうぜ・・・・っていうムーブメントを、「オッパはJSAスタイル」的な何かで(笑)、起こせたらいいなと思ってるんですよね。

まあ、とりあえずは日本のリベラル論客さんたちや、ナショナリストでもこういう「広がりのある認識」のある人で、一緒にやっていこうじゃないですか。

僕よりももっとアカデミックな意味での思想の学識があったり、歴史的な事情への知識があったり、特にさっき書いたような「キリスト教神学との関連性」において根底的な捉え返しを行って、一体的なメッセージとして欧米に向かって語れる力がある人が必要なんですよね。それをやりきるには徹底的な語学力的なものも必要になってくるし。

でもそういう「能力」がある人はたいてい生理的に安倍晋三氏が嫌いですからね(笑)。だからあんまりうまく連携が取れてないんですけど。

まあ、そこはそれ、「安倍さんのことは嫌いでも、日本国のことは嫌いにならないでください!」っていうか、とりあえず積年の敵対関係は横において、「薩長同盟」的に結びついて一つの「解決」へ向かえるように持っていきたいじゃないですか。

でもこのブログ記事で書いたように、それは日本国内だけの問題じゃなくて、「アメリカの一方的支配による国際秩序」の「次」を模索する時に絶対必要な喫緊の課題ですからね。

そこにある「希望」を紡いでいけるのが、今の日本のリベラルなんだと思います。20世紀後半には既に賞味期限が切れてたような紋切り型の発言を、壊れたレコードみたいに繰り返し続けるのはそろそろ辞めましょう。

ある範囲まで盛り上がったら、国境を超えて共有できるようになりはじめますよ。

そうやって普通の人の共感的な連帯が生まれるようになれば、現実的な種々の問題もやっと解決可能になるんですよね。

南京事件とか、従軍慰安婦問題とかね、そこに「全く不幸な事件がなかった」とか思ってる人は日本のナショナリストさんにもほとんどいないと思うんですよ。

でも、さっきの「感情的問題」が解決されずに、全力でプロパガンダ合戦をやってるような状況だと、今は明らかに「実際あったこと」からかなりかけ離れたレベルで日本が非難されてる状況にあるわけですから。

そんなことしておいて、お互い態度が硬化しないはずがないですからね。

まずは「感情レベル」において一致できる世界観を、このブログ記事みたいな方針で作っていけばね。

ちゃんと冷静に冷静になったところで、あとは緒方貞子さんの研究のような、「中立的なマットウな検証」の上で事実把握をしていって、さらにそれに対して戦後日本が繰り返してきた補償や謝罪の積み重ねについてもちゃんと理解してもらった上で、それでもまだ日本が何か補償すべきことがあると”お互い”思えるんだったらそうすればいい。

この2つの問題については、今は「多少なりとも疑う」だけで物凄く大問題になっちゃうわけですけど、「お互い全否定」してたら絶対解決しないですからね。

「冷静で中立的な反論」すら一緒くたに抑圧するような状況にあるから永遠に解決しないわけで、「3割だけ日本が押し返させてもらえる」ような感情的基盤を作りあげられれば、いずれ落とし所が見つかってくるでしょう。

尖閣と竹島については、まあ、相当お互いの信頼感が出来上がるまでは、押し合いへし合いを続けておくのがいいと思います。

どうせ、そこを日本側の譲歩で解決したら、絶対沖縄と対馬の領有権でモメはじめますからね。いや本気で。

だから、あの位置で押し合いへし合いしておくことは必要なことなんですよ。というか最後まで、常に競争心を持って、「JSA」の兵士同士みたいになるのが一番良いと思うんですよね。

「東アジア共同体」みたいに欧州風に歯が浮くようなことを言い出すと余計に不自然になる。

「このチャンコロが!」「なんだ小日本!」とかネット右翼さん同士では言い合ってるぐらいでちょうどいいと思います。



ってな本を書きたいんですよね・・・・って靖国神社に行った後にディスカバー21っていう出版社に行って打ち合わせをしてきたんですけど。

編集者にして社長の干場弓子さんは、「うーん、まあ倉本さんが書く”内容”は信頼してるんですけど、”靖国”ってタイトルに入ってるような本って全然売れる気がしないんですよねー」とか言われました(笑)

そんなこと気にしてる人はよっぽどの右翼さんだけじゃないか、そういう人は余裕がないからこんな話は聞く耳持たないんじゃないか・・・・と言われて、「なるほど」と思ってしまった。

で、あれこれ話したあげくに、

「日・中・韓が心の底から仲良くなれる方法」

っていうタイトルで行こう・・・・って話になったんですよね。

僕は最初「靖国神社は悪くない!」ってタイトルを提案してたんですけど。

なんか、「心の底から」とか、ってあんま男ばっかでやってると出てこない言葉遣いだなと思ったんですけど。

でもなんか、そういう女の人が間に入ってくれると、色んなことがちゃんと収まるべきところに収まっていきそうだなあ・・・と思ったりしました。

干場さんはあの勝間和代さんを世に出した・・・っていうようなタイプの編集者さんなんで、テーマ的に凄く「謎の組み合わせ」になるんですよね。出版業界のことをよく知ってる人からすれば、「え?靖国の本をディスカバーで出すんですか?何その組み合わせ!」って色んな人に笑われたぐらいなんで。

でも、その「謎の組み合わせ」を乗り越えて、ガーリーなキャピキャピしたところと、凄く優等生的な真っ直ぐさを持っていながら、かつ社長としての「侠気」みたいなのが両立している干場さんの編集で世に出る着地ができれば、「こっちの事情はこうなんだ!」って言うだけに終わらない本にできるんじゃないかと思っています。

「心の底から仲良く」

できるような本にね。

まあいつできるのかは僕のいつものパターンでよくわからないんですが。

それまでは、2月26日に出る「日本がアメリカに勝つ方法」をよろしくお願いします。

結局、「東アジアの感情的共有遺産」を刺激するってことは、その「共有した感情」を具現化できる「受け皿」としての「政治・経済の運営方法」も同時に必要なんですよね。

そうじゃないと、アラブの春の後に宗教原理主義者の暴走が起きた・・・・みたいな不幸なことになっちゃうんで。

「感情を刺激した」だけのエネルギーをちゃんと昇華できる、「経済実務レベルの話」をグローバリズムと噛みあった形で用意しておくことが必要なので。

そういう面からの「前準備」が、しっかりしてありますから。2月26日に出る拙著をよろしくお願いします。

編集者さんから、「2・26事件ですね!」って言われたんですけど・・・・いや、なんつーか、そんなに過激な本じゃないです。むしろちゃんと経営の実際レベルでの転換を起こしていくための本になっています。

よろしくお願いいたします。

みなさん、良い時代にしましょう。



(関連記事)

最初の著書「21世紀の薩長同盟を結べ」が発売された時に、各方面への「謝辞」として書いた文章↓。今の倉本圭造を成立させている「日本に生きる色んな人たち」との繋がりについて書いています。「対立するそれぞれの真剣な思い」を両方ともルーツとしてちゃんと引き受けて「あたらしいど真ん中」を定義する男=倉本圭造と呼んでくれっス!
http://keizokuramoto.blogspot.jp/2012/02/blog-post_24.html#more

CHAGE and ASKAの「東アジアツアー」にあったような「うおおおおお」という「野蛮性の共有」=「祭り」の作法から、東アジアの平和は実現するべきだという話はこちら↓
http://www.huffingtonpost.jp/keizo-kuramoto/exuberant_b_5130397.html

日本の中の「ヤンキー」さんたちは「アメリカ文明が踏みにじったもの」とギリギリ共存できている「分断の世界の最前線的」問題であり、「彼らとの共有関係」を維持したまま「文明社会側」の一員であり続けることで、日本はどこにも基準点がない世界の最先端の希望になれる・・・という話がこちら↓
http://www.huffingtonpost.jp/keizo-kuramoto/mildyankee_b_5061712.html

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