「内田樹氏的思想」と「グローバル資本主義」との間の「21世紀の薩長同盟」について。

僕の神戸の実家と、思想家・武道家の内田樹氏の道場兼自宅が物凄い近くなんですよ。

子供の頃からしょっちゅう通ってた道沿い・・・みたいなところにある。住所聞いたら「ああ、あそこね」みたいな感じの。

で、今書いてる本の編集者の人が、長年内田先生の本を担当してこられた人で、「最近私が一番買っている若手の論客なんです」みたいな感じで、「21世紀の薩長同盟を結べ」を渡して読んでくれと言ってくれたりとか、色んなタイミングで引き合わせようとしてくれたりしてくれていてですね。

そういうわけで今回僕が神戸にいる間にお会いしてみたいなと思って、編集者の方に間に入ってもらって日程を調節してもらったんだけど、まあ合わずに今回は見送りになりそうなんですがね。

でも、予定調節してた時期に、とりあえず行くことになったら迷わないようにと思って道場の前まで行って写真撮ってきたりとか、行くことになったとしたら持っていこうと思って三宮のデパ地下で菓子折りを買ったりとか、してるうちに、すごく勝手に「心理的に近い」気持ちになってる自分がいて面白いなと思った。

編集者の人が、結構熱心に引き合わせてくれようとしてくれてた最初の頃は、僕は「内田先生ってすごい自分とは遠い人みたいなイメージなんだけど」と思っていたんですが、その編集者氏に送られて読んだ内田氏の本とかブログとか読んでると、「世代が違うから方向が全然違うように見えるけど、多分凄い似た感性を持ってる人かもしれないな」と思うようになったんですよね。

そう、だから彼の文章を読んでいると、「気持ちは凄いわかる」・・・・けど、「結論そっち行っちゃう?」みたいな感じになる。毎回ね。

でも最近は、彼は彼の位置であの言説を続けてもらわないといけない理由があるんだな・・・・という理解はできるようになったんですよ。




彼があのポジションで、「アンチ市場主義」の、「共同体志向」というのかな・・・まあいわゆる「小商い」的な言論を続けてくれていて、その「旗」をちゃんとしっかり掲げてくれていることによって、「単純すぎる市場原理主義」が押しきれないようになっている。

まあ、「彼のおかげで押しきれなくなってる」とか言うと言い過ぎでしょうけど、彼を始めとする「あの方向の論客」さんがいてくれるから、単純な発想でネコソギにはなってしまわない、という「防波堤的存在たち」のうちのひとり・・・ってことなんだろうなと思うし。

もちろん、彼の言っていることは、やはり「ある種の恵まれた存在をコアとした半径何十メートルのつながりの範囲内」だからこそ「成立」していることであって、さらにマクロに見るとそれは「ただの特殊事例にすぎなかった」ということになってしまう、そういう「合成の誤謬」的問題は当然あるんですけどね。

ただ、そこにある「小商い的な連鎖」の中に、「大きな可能性」があるってことは凄い同意するんだよな。

その「可能性」を「局所的な理想」に終わらせずにちゃんと大きく横展開して、内田氏的に「特権的な立場」の人の回り以外にもちゃんと成立するように持っていくには、結局「市場メカニズムとどう噛み合わせるのか」について真剣な模索が必要になるというだけの話で。

要するに、内田氏的な「種火」をどう燃え広がらせるかが大事になってくるんだけど、その時に、その「局所的な理想を保つための論理展開」を「マクロに見た経済の話」に無理に敷衍化してもうまく行かないんですよね・・・・とか言うと異論のある方もいらっしゃるかもですが。

まあ、「うまく行かない」かどうかは読者それぞれにお考えがあるかと思うんですが、少なくとも言えるのは、「うまく行かないと考えている人がたくさんいて一方向に動いている流れを否定することはできない」ぐらいは、誰しも否定できないところだと思うんですよね。

だから、「本当に理論的に不可能かどうか」じゃなくて、「説得不可能な相手に対して俺の方が正しいとか言ってても仕方がない」というレベルの話として、「小商い的理想」は「市場原理主義」みたいなのと「どう噛み合わせるのか」を真剣に考えるようにしていかないと、「現実的な実効性」を持たないんですよ。本当は。どんどん削り取られていくことになる。



そういう「共同体の密度感ベースの発想をする存在=”薩摩藩”的存在」と、「概念思考的個人主義ベースで発想する”長州藩”的存在」とが、考え方の違いを超えて連携するように持っていくようにしないと、日本の苦境は打開できないよ!・・・・っていうのが、「21世紀の薩長同盟を結べ」の趣旨だし、僕がやっている活動は全て最終的には「そこ」を目指して動いてるんですけどね。

で、究極的なことを言わせてもらうと、「片側だけの論理」にしたほうが、

「話としてはわかりやすくなるけど、現実的に”説得不可能な相手”が逆側に大量に生まれてしまう言説になる」

んで、だから

「片側からの論理だけを精緻化しても、最終的には決して”現実的”なものにはならない」

ってことになるんですよ。

どっちの意見の方が「理論的に正しい」「ビジョンとして魅力がある」とか言う話で言うと、それぞれ意見は分かれると思うんですが、でも結局「片側だけの論理」である限り、「現実的に実行しようとする」段階において「逆側に物凄く大きな抵抗勢力」が生まれてしまうんでね。

だから、「市場原理主義者」は、「そこへの参加者が本当に幸せになる、参加したくなるような装い」について真剣に考えないと、「現実的」とは言えないんですよね。「グローバル競争のなかでこれしかないんだから従えよ」的な「自分は正しい、お前らは間違ってる」的な「脅し」をかけ続けるだけでは聞いてもらえなくて、最後の最後に政府財政が持たなくなってハードランディングするとこまで行っちゃうしかなくなる。

逆に、「共同体ベースの小商い主義者」も、その半径数十メートルの現象がマクロに何億人と積み重なった時に起きる種々の問題について何らかの「市場原理主義者的にも受け入れられる方向性」を示せない限りは「現実的」とは言えないんですよね。「幸福な小商い」の素晴らしさを否定するつもりはないですが、それをどうやって広く大きく展開して、「金額ベース」で見て社会保障費やエネルギー費用や政府債務の問題とかと辻褄合わせるのか・・・・っていうところがないと、結局「一部の恵まれた存在の道楽」に過ぎなくなってしまう。

ここに、

「対岸を切り捨てた方が圧倒的に話がわかりやすくなるけど、現実的には実行不可能な袋小路に迷いこんでしまう」

っていう問題があるんですよ。

現代社会においては、対岸にいる人たちを全員抹殺するわけにもいかないんだからね。

だから、多少話がわかりづらくなるのは初期段階としては仕方ないとしても、

「薩長同盟」的な、「ど真ん中」の方向性

を、徐々に育てていかないといけないんですよね。

その「ど真ん中」の方向性に、色んな立場の人を巻き込んでいかなければ、今の「自分たちのお仲間たちとだけ”だよねー”と言い合っている状況」を抜け出せない。

このブログや著書で何回も言っているように、全体として「ど真ん中」の「とりあえずの方針」に集まっておいて、「システム内部から食い破る」ように「面従腹背の大道楽」で「内側から変質させて」いく形で、「漸進的だか完全な理想」に向かう・・・っていう方向を、共有していかなきゃなんだよな。



・・・というのが僕の長年の持論で、そのための布石をいろいろ打って来たので、「なんで反応してくれないわけ?」っていうようなのに恨みがましい気持ちを持ってる部分もあったんですけど。「発言者だけカッコイイ言論してんじゃねーよ」的怒りというか(笑)

でも結局、この「二者」というのは微妙なバランスを保って拮抗しているので、片側だけが簡単に折れてしまうわけにもいかないんだな・・・ってことが最近すごくわかってきた。

特に、「市場原理主義者側」には、「これしかないんだ」と言いやすい大義名分があるので、「共同体主義者側」が、「間違った押し切られ方」をしないためにも、内田先生みたいな言論のあり方が「魅力」をしっかり放っていること自体は凄い重要なことなんだな・・・・っていうことが理解できるようになってきたのが大きいです。

日本は、「市場原理主義者的リバタリアン」=「”長州藩側”の存在」からすると、ほんといろいろ「めんどうくさい」ことが多い国なんですよね。

でも、その「面倒くささ」ゆえの強みによって、日本経済の「強み」は生み出されてるんでね。

もちろん、その「面倒くささ故の鈍重さ」によって、色々な面での問題があるわけですけど。

しかし、アメリカがアメリカの強みを活かすことによって「成功」している時に、日本は「ただの二番手的な真似」をしたって絶対勝てないですからね。(だいたい、最近だって一部の例外的なスター企業以外じゃ、別に”アメリカが凄い””韓国が凄い”ってわけでもなくなりつつあるしね)

必要な部分を取り入れつつ、でも最後には「徹底して自分たちならではの強みが生きるような一貫した逆張り」が必要になってくるんで。

その「逆張りを強固に行えるだけの精神的バックボーン」として、内田先生を含めて色んな「薩摩藩側」の論客さんには、まだまだ頑張っていてもわないといけないんだな・・・・っていうことが凄いわかってきた。

幕末の薩長同盟も、締結寸前までとにかく両者は仲が悪かったですしね。

そもそも、「共同体主義者」と「概念思考的な個人主義者」っていうのは、本能的にわかりあえないものですから。

でも、その両者の対立がこのまま続くこと自体が、やっぱり今は「必要」なことなんだろうなと思うようになってます。

さっきは「共同体がわの事情」について書いたけど、でももっと大きく見れば「グローバリスト側」の事情っていうのも本当はあって、ああいう「生活者の日常感の延長」からすると「物凄い感じ悪い」けど「マクロに見る」と「引き返すわけにもいかない」的なムーブメントは、現状は「行き過ぎなほどの原理主義」によってバックアップされ続けている必要がある・・・・みたいなところもあるわけなんで。(これはつまり、市場主義が憎いからといって”ヒトラー的存在”が巨大な権力持って暴走しはじめるよりはマシっていう意味ですね)

つまり、「どっち側」も「引くに引けない」状況ではあるんですよね。

だから、「なんで反応してくれないわけ?」とかいう系統の「恨み」は、一切手放してしまうぐらいの気持ちにならないといけないな!ってことは、強く思い始めていますね。

全然そういうことは言えた義理じゃなくて、むしろそういう両者の「存在の選び方」に「感謝」するぐらいの感じで、「補完」する場所に動いていかないといけないんだなとか。

その「対立」が、本当に「限界の限界まで行く」プロセスと、「薩長同盟的な機運」が「乗り換え可能なまでの大きさ」にまで膨らんでいくプロセスは、多分同時に起きるだろうと思うし。

というか、「起こさねばならない」というかね。



でも、本当にうまく行けば、「薩摩藩側」の人も、「長州藩側」の人も、「薩長同盟を画策する人」も、「別に意見を変えたわけじゃないよ」って感じでうまくまわりはじめるはずだと思ってますけどね。

市場原理主義者が、あらゆる規制を撤廃して競争に任せてイノベーションを刺激して・・・・っていう「理論」を奉じているのも、「古い箱の枠組み」を取り除いたところから生み出される「新しい連携」こそが未来を切り開くと思っているからなんで。

で、本当にそこに「日本が立ち直るほどの新しい連携」が生まれる未来が可能であるとしたら、それは「小商い主義者」が信奉しているような、深い意味での「価値」が「経済」に還流するようなイノベーションが生まれているはずですからね。

そのレベルの「奥底からかきまぜる」ようなイノベーションが起きなくて、ただセセコマシイ叩き潰し合いだけが横行するような経済にならないためにこそ、「共同体主義者の反対運動」が止まらない状況にある・・・・結局市場原理主義者が望むような改革は実行不可能である・・・・ってことになってるんで。

その「究極の連携」が成立した状況になったら、結局「どっちの理想だって両方実現したよね?」ってなるはずなんですよ。

というか、「どっちの理想だって実現したよね」という未来以外に向かっている時には、「逆側にいる抵抗勢力」の力が決して消えないから、アクセルとブレーキを両方踏んでるみたいな状態が続いて決して前には進めないからね。

そういうプロセスのなかで、日本は「グローバリズムの中に本当の”多様性”をくりこめる存在」として、一段階進化した「新しい理想」を具現化したスターになれるってわけですよ。

日本の「カイシャ」にある、ここ20年「どちらにも進めずにいた面倒くささ」こそが、「どちらか一方だけでない新しい均衡点」への進化を可能にしてくれる「深慮遠謀」だった・・・・ってことにしたいですもんね。

そうじゃないと、毎年その「どこにも進めなさの閉塞感」で苦しみ続けてきた我々の苦労自身が無駄骨だったってことになっちゃうしね。



一個前の記事で、もうこういう「大きな話」じゃなくて、「読み手個人の人生をどう変えるか」にフォーカスした話に戻っていきたいって書いたばっかりだったのに・・・・スマンありゃ嘘だった(笑)。

まあ、仕方がない。一歩ずつ戻っていくしかないね。

今はある程度「大きな話」になっちゃってるものが、最終的に、「個人の人生をどう活かすか」みたいな、「ライフハック本」ぐらいの具体性にまで戻ってこれたらいいなと思っています。

そもそも、なんでこんな活動をしているかっていうと、結局「あらゆる個人」の可能性を、ちゃんと「発揮し尽くせる社会」にしていくための活動していくうちに、前提として「こういう世界観の準備」が必要だってことになっただけなんで。

「小商い本」みたいな、あるいは「個人の可能性をもっと発揮しよう」的スピリチュアル本的な、「素敵さ」を装いとして実現しつつ、そのドアを開けて奥の奥まで進んだら、無理のないマクロ経済的認識にまでシームレスに繋がっていました・・・・っていうような運動を作らなくちゃと思っているわけですけど。

まあ、一歩ずつやっていきます。現状できてないこと自体にも意味があると思うしね。対立が抜き差しならないところまでいかないと、「片側だけじゃダメなんだ」っていう「面倒くさい論理」を「わかりやすく」共有していくことは難しいと思うし。

でも、「片側だけじゃないムーブメントを!」って、そろそろ広い範囲の「潜在的共通認識」になりつつあると思うんだよね。

興味をもたれた方は、ぜひ「21世紀の薩長同盟を結べ」からどうぞ。



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