村上春樹は『男の敵』か?『女の敵』か?



村上春樹氏の新刊「騎士団長殺し」を読もうか迷ってる人のためのガイド・・・にかけつけて

・「村上春樹作品の本質とはいったい何か?」
・「騎士団長殺し」は過去の彼の作品とどこが違うか?

について深掘りしてみる記事の二回めがこちらです。

一回目は「村上春樹作品の本質とはいったい何か」について書きました。そちらを先に読みたいかたは→ここからどうぞ。

前回の結論を簡単にまとめると、

村上春樹作品とは、過去からの文化的惰性が通用しなくなった社会において、新しい自明性を獲得しようとあがく試み

であり、村上春樹作品を通して、「村上春樹作品の良さが理解できるタイプの読者」が獲得しようとしているのは、

小さく言うと他人との人間関係の1つ1つであり、そして大きく言うと自分の人生全体を、「自分で考えたテーマに沿って自らハンドメイドに形成していく力が私達にはあるはずだ」という勇気

であり、具体的な「しぐさ」のレベルで、崩壊してしまった社会の自明性をゼロから立ち上げなおそうとする

「新しい現代的に通用するセルフイメージの再構築」

が行われているのだという話でした。

では今回は、「騎士団長殺し」が彼の過去作品とはどう違うのか?について考えてみます。

「騎士団長殺し」は、かなり「彼の過去の作品群に出てきたモチーフ」が何度も出てくる作品になっていますが、その「扱いの細かな違い」ゆえに、「今まで彼が踏み込まなかった領域」に大きく一歩を踏み出した作品になっていると私は考えています。

今回の記事に目次はこんな感じです。

1・過去作品たちと似ているモチーフたち
2・しかし過去作品とはここが違っている
3・その違いがもたらしているものは何なのか?


キーワードは、よく彼本人の言葉として語られている「デタッチメントからコミットメントへ」という話につなげて、今回は「コミットメントからインテグレーションへ」というキーワードを私は考えています。



1・過去作品たちと似ているモチーフたち

今回の作品は、かなり「村上春樹作品あるある」なネタがたくさん出てきましたね。

・裏庭にある異世界へ繋がる穴
・理由が明示されずに突然終わりを告げる夫婦生活
・登場した瞬間ディズニーの版権の厳しさをネタにするトボけた「イデア」氏
・疑問文のトーンじゃなくて質問するローティーンの少女
・性欲を満たし合うだけの関係になる年上のマダム
・よくわからない地下をエンエン歩かされる象徴的な試練

などなど。

そうやって「過去の援用」をかなり意図的なぐらいに行っていながら、むしろ新鮮さが非常に感じられる作品になっているところに、今回の作品の「完成度の高さ」はあると私は考えています。

と、言うのも、「1Q84」や「多崎つくる」には、あまりに彼の「文体」が完成されすぎてしまっていてちょっと自家撞着気味になっていた部分が正直あったと思われるからです。「自家撞着」というのは、あまりに文体のテイストが完成されすぎてしまって、「誰かが村上春樹ならこう書くよねというネタとして書いたような」テイストにまでなってしまっている部分ということです。

「井戸の底で自分に向き合う」のもいいけど、あまりにそればっかりやっていると自然にある種のワンパターンにハマってしまいつつある部分もあったのではないかと感じた。(勿論、そうやって突き詰めたからこそできた独自の先鋭性というものは、特に1Q84にはあったと思いますが)

しかし、今回は「話のモチーフ」は意図的なまでに過去の作品が変奏されているにも関わらず、そういう自家撞着感があまり感じられず、非常に「フレッシュな」文体であるように私は感じました。

具体的には後段にもっと深く考えていきますが、これは彼自身の何か大きな変化を象徴的にあらわしているかもしれません。

過去二作を書いてからの彼はおそらくかなりの時間日本に住んでいて、かつ震災という大きな日本社会に衝撃を与えたテーマの中で暮らしており、かつ例のホームページで久しぶりにワイワイと読者と交流し、「国際的に活躍する最も進歩的知識人」的なイメージを超える、「ヤクルトスワローズ好きのオッサン」キャラを遺憾なく発揮してみせてそこを愛されたりする時期を過ごしていたはずです。

そのあたりが、外国に住んでほぼ誰とも話さずにモクモクと「自分の文体」と向き合い続けて作り上げたような過去の作品群とは違うテイストを生み出しているんではないかという感じは非常にあります。

というのも、これは色んな人が指摘しているのを聞きましたが、村上春樹作品は過去のどんな作品もたいてい日本が舞台であるにも関わらず、「日本という風土」については全然染み出してこないことがその特徴でした。

彼は私の同じ公立高校の先輩なので、同じ最寄駅から高校に通い続けた体験を持っているはずですが、初期作品に出てくる「帰省した時の世界(登下校を一緒にしてたまにセックスもしたけど東京に行く時に別れた彼女が出て来る高校がある)」が「”あの”自分の通っていた高校」だというイメージはほぼ全然ありません。

その他、四国だったり世田谷区だったり名古屋だったり色々出てきましたが、「ウチの近所だなあ」という感じを受ける要素はむしろ徹底的に排除されていて、それが世界の読者にとって「匿名的な土地風景として非常に入りやすい」世界だったという指摘はよくされているところです。

しかし、今回の作品は、多少なりとも、小田原近辺の「風土」が、日差しや海の香りというレベルで香って来ている部分があるように感じられるのは私だけでしょうか?彼が成人してから日本では最も長く住んだと思われる湘南地方の風土が自然に写り込んでいるのかもしれない。

その「雰囲気の変化」は、「私はこう感じる」というレベルの微妙なものですが、「同じモチーフ」が変奏されているぶんその「扱い」が明確に違っている部分を指摘することもできるのが今作の面白いところです。

では、「過去の作品群とはここが違う」を見ていきながら、「過去の作品群」と今作との違いについて考えてみましょう。



2・しかし過去作品とはここが違っている

同じようなモチーフがたくさん出てきているにも関わらず、そこに「明確な違い」もまたいくつかあります。少しネタバレになるのでネタバレ嫌いの人は注意して読んでください。

まず大きく違うのは、

・過去作品で「失われたものを取り戻すためにカギとなって協力してくれる人たち」はだいたい”色んな女性”だったけれども、今回はメンシキさんや老画家や昔の友人といった”男”である。

ここに非常に大きな違いを私は感じました。

よく出てきた、謎の大金持ちの老婆がなぜかメチャクチャ便宜を図ってくれて・・・ということもない。ローティーンの美しい女の子は出てくるけれども、その子は何故かなんでも完全に知っている「神の子」のような存在ではなくて、むしろ最後には主人公に守られる立場におかれる要素すらある普通の女の子である。

活動の場としての小屋を提供してくれたのも、学生時代からの古い男の友人である。そしてその「古い男の友人」が異形の姿になって消え去ってしまったりせず、関係が最後まで途絶しない。

そして、ワタヤノボルや1Q84の教祖や、カフカの父親や、羊をめぐる冒険の「先生」や・・・・といった「個人として独立した人生を送ろうとする主人公に立ちはだかる古い父性的存在」を「殺さずに済む」、だけでなく、今すぐではなくても自分なりの「白いスバルフォレスターの男」の絵を描いてやろうという、「長期的な折り合いをつけた深い意志」を宿している

細かいところでは、村上春樹作品ではじめて、登場人物が飲酒運転のことを気にしてるのも小さなことですがなかなか興味深かったです。初期作品なんかビールを水のように飲みまくった上で普通に運転しまくってましたからね。ほぼ無人と思われる山中の道を隣の家まで運転するのに、ウィスキーを飲んだからといってタクシーを使うキャラクターとか、ちょっと村上春樹作品とは思えない感じがします。小さいことですが「社会との新しい折り合い」という意味では地味に画期的なことかもしれない。

そして、何より一番大きな変化は、

・最終的に(紆余曲折はあれど)子供を育てる気持ちになる主人公

これですよ!!!村上春樹作品の主人公が!!!そしてもう一つそれと表裏一体なのが

さすがに13歳の女の子とセックスはしなかった

いや・・・これはちょっとさすがのハルキ先生もそれはせーへんやろなと思いつつちょっとね・・・よもやそっちに走っていったら・・・いやまあ私はどんな作品だって書かれる必然があるなら書けばいいという信条ではあるけれども、でもホームドラマやと思ってたらホラーやったりするとギョッとするみたいな感じで、さすがにそっちには行ってほしくないなと思いながら、最後のページめくるまで油断はできへんでさすがにハルキ先生やからな・・・と思ってたらちゃんと終わってほっとしました。

要するに、過去作品の主人公たちは、

・「主人公の男が、”特異な力を持つ女性たち”に助けられて、何か隔絶した明確な影響を世界全体に対して与えるストーリー」

だったのに対して、今作は、

・「主人公の男が、”色んな男の友人や協力者や社会との折り合いをつけ”ながら、新しい自分だけの生き方を確立するストーリー」

なんですね。

勿論、地下の長いトンネルをくぐり抜けて自分だけの救済体験のようなものをする「村上春樹的”個”の完成の試練」は同じように訪れるんですよ。

しかしその「個の完成」によって生まれた「変化」が、「現行の世界」の何かを「明確にブチ殺して入れ替わる」ようなものではなく、あくまで自然に「生まれ変わった自分」が、「満足できる生き方」が自然と「社会の中に見つかる」話になっている。

そして、最後には子供を育てようと思える「安定した自我」まで完成している。

これは過去作品の傾向からすると「チョー凄いこと」であって、まるで別の惑星に生まれ変わったほどの変化ではないかとすら私には感じられます。

これはひょっとすると、(アカデミックな文芸評論の世界を私はそれほど詳しくありませんが)いわゆる「ゼロ年代」の色んなサブカルチャーが抱えていた「セカイ系」と呼ばれていた作品群(あるいはそこに潜む”病理”のようなもの)を、村上春樹は「騎士団長殺し」においてついに「克服」する一歩を踏み出した・・・というように総括できるのかもしれません。



3・その違いがもたらしているものは何なのか?

では、その「大きな変化」についてもう少し深く考えてみましょう。

この変化を例の「デタッチメント(分離)」「コミットメント」の話で言うと、村上春樹の初期作品は「古い土着性の社会」から分離してとにかく自分だけのミクロワールドを「アメリカ的現代文化の延長」として作り出したいという「デタッチメント」がテーマだったが、そのうちそれだけじゃダメだと思うようになり、何らかの「デタッチメントを経た上でのコミットメント」を「ねじまき鳥」以降は目指している・・・というのは本人の口から折に触れて使われている言葉です。

しかし、「デタッチされた個の世界」で完成されたルールを「この世界」に対してガツーンと無調整的にぶつけるのはなかなか無茶な革命が必要になってきます。結果としてある時期以降、「村上春樹的メタファーを共有できる」タイプではない読者にとっては荒唐無稽の連続みたいなストーリーを押し切るような展開になっていき、あと「ねじまき鳥」の最終巻を出したあたりから長年の古い編集者とケンカになって、その恨みなのかなんなのか「自筆原稿の流出問題」かなんかで悶着が明らかになったりしたことがありましたね。

つまり「デタッチされた個の世界」で完成した自分を持って「コミット」していくのはいいが、そこが過去作品ではかなり無理矢理だったわけです。勿論無理やりでもなんでも、とりあえず何らかの「コミット」をし始めたということや、その「コミットして生きていっていいはず」というメッセージ自体に意味があったので批判しているわけでは全然ないのですが、しかし事実としてその「無理な革命」を行う結果として主人公の周りを「特異な力を持つ女性たち」がサポートする結果となった。

その結果として、そうやって「色んな女性の超常的な力を借りて、”父親”的な存在を殺してハイ終わり」的な安直さがあったのも否めません。

別にそういうストーリーが語られること自体が倫理的に間違ってるとかそういう話ではありませんが、「この展開パターン」には以下の2つの問題があるんですよね。

A・女性を「生身の女性」でなく過剰に理想化した役割に押し込めてしまう。
B・「革命の後の日常」を生きることができない。

1つ1つ見ていきたいのですが、まずAについて。

フェミニズムの公式見解がどうなってるか知りませんが(いわゆる”母性信仰批判”・・とか言うのはたまに聞きますが)、女性を過剰に理想化して「聖なる何か」「超常的な存在」扱いにしてしまうのは、「女は黙って男について来い」というのと同じぐらい生身の女性に対して抑圧的なんじゃないかという感覚が私にはあります。いわゆる「普通の人間としての仲間扱い」ではないという意味において、「女は二級市民だから黙って男について来い」という態度よりもさらに生身の女性に対してヒドイ扱いなんじゃないかと。

ウチの奥さんは名前が”直子”なのもあって(笑)・・・(ちなみに名古屋の公立高校出身でよく見ると顔に小さな黒いアザがあり自分の身体のパーツとしては耳の形に一番自信がある、若い頃医学的に原因不明の身体の痛みに悩まされた経験のある人なんですが)・・・・、村上春樹作品でのそういう「女の扱い」に対して結構怒っていて、1Q84はまあ最後まで読めたけど、他のはほんと腹が立ってきて読めないとよく言っています。家の共用の本棚にあった村上春樹作品たちを「売っちゃってもいい?」と何度も聞いてくるのでついに数年前に全部売ってしまったぐらいで。

要するに今回の記事のタイトルになっている「村上春樹は男の敵か?女の敵か?問題」がここにはあるわけですね。

村上春樹作品が好きな女性って多いですし、よく茶化される「村上春樹風のオシャレ口説きテクニック」みたいなイメージがあるから非常に女性に対して優しい「男の敵」であるようなイメージが一般にはある。

村上春樹ファンの女性の中には、「ハルキさんてなんでこんなに女の人の気持ちがわかるんだろう?と不思議になっちゃいます」みたいなことを言う女性も結構います。

が、一方でかなりの頻度で「村上春樹作品に出てくる女なんて本当にいると思ってんの?アホじゃないの?」という女性にも私は出会います(笑)

どっちやねん!

ってこれ結構難しい問題ですよね。

ある意味で村上春樹作品はある種の女性が「扱われたいように扱うテクニック」が非常にあるので、「まるでワタシのことを描いてくれたみたいだわ!」的な感覚を持たせることに成功している場合もあるといえるし、逆にその「魔術が通用しない女性」にとってみると、「バカにしてるのか!自分に都合のいい女ばっかり登場させやがって!」となる(笑)

端的に言うと、「社会からデタッチされたボクの世界」を成立させるには「そのボクの世界を共有してくれる”女の人”」が必要になるという構造がここにはあるわけですね。ってなんか意地悪い言い方をしてるような気もしますが、しかし多くの場合において「良い男女関係」にはこういう要素が全くゼロになってしまうのも寂しいという類の問題なので、一概に否定しているわけではありません。

しかし、「単純にデタッチしてその生き方を貫く」というだけでも「デファクトな社会」との間の軋轢は相当なものであるのに、さらに「コミット」していって「デファクトな社会」ごと変えてやろう・・・・となると、「社会からデタッチされたボクの世界」と「デファクトな世界」とのギャップの大きさとそれが生み出す軋轢は相当に大きくなっていくことになります。

過去の村上春樹作品ではそこを女性に埋めてもらっていたんですよね。なんでもわかる霊感のある豊かな胸の美しい少女が自分の身体を差し出してくれたり、主人公だけを自分を一生を捧げる存在だと心に決めた殺し屋美女が敵をバッタバッタと排除していってくれたり、高雅な趣味と高い志を持った大富豪の女性が陰に陽にサポートしてくれたりして。

あるいは、よくわからない理由で自殺してしまうこと自体も、それによって「社会からデタッチされたボクの世界」をそのまままるごとその女性が埋めてくれた命がけの補償作用だったという風にも言えるかもしれない。

勿論、「女性が心地よくその役割に酔えるような演出」を男がやって、それに知ってか知らずか乗っかって生きることを楽しめる女性がそこにいて・・・という共犯関係がある時、それを「恋の定義」といってもいいぐらいかもしれないので、繰り返すようですが、単純に否定されるべきものではないとは思うんですよ。

しかし、こういう構造だけで全体を組み上げようとすると、やはり女性に対する「負担」も実は大きいことになるんですよね。

その結果として、Bの方の問題、「その新しい個が日常を普通に生きることが難しく」なってしまうんですよ。

B・「革命の後の日常」を生きることができない。

1Q84のラストは本当に「おお、なんかハッピーエンドやん!」的な幸せなエンディングで、そのこと自体村上春樹作品としては非常に大きな変化だったと思いますが(先程述べたように多少自家撞着気味になっても閉じた世界の先鋭性を追求しきった結果がアレなんだと私は考えています)、しかし一方でじゃあ「この二人って本当にこのまま日常生活送れるのかな?」っていうのは結構疑問ですよね。

過去作品には、いずれギリシャの島に移住して古典作品を読みながら暮らしたいだとか、なんかそういうふうに語られる「革命後の日常」って結構ありましたけど、でもどれも実現せずに終わっちゃいましたよね。

なんでこの「日常」が難しいかというと、「革命」を実現するまでのプロセスにおいて無理をしすぎてるからなんですよね。

つまり、「社会からデタッチされて閉じたボクの世界」の内的一貫性を一切毀損しないまま「デファクトな社会」の中に無理やり影響力を埋め込もうとすることで、「物凄く超常的な女性の力」を利用して、かつ「無理やり主人公を絶対的な存在に祭り上げる」ようなプロセスを経てしまっているので、その後毎日普通に暮らしながら生きていける安定感が消えてしまっているんですよ。

しかし、さっき書いたように、騎士団長殺しでは

ワタヤノボルや1Q84の教祖や、カフカの父親や、羊をめぐる冒険の「先生」や・・・・といった「個人として独立した人生を送ろうとする主人公に立ちはだかる古い父性的存在」を「殺さずに済む」、だけでなく、今すぐではなくても自分なりの「白いスバルフォレスターの男」の絵を描いてやろうという、「長期的な折り合いをつけた深い意志」を宿している。
ところが大きく違うんですね。ぶち殺したのは象徴的な「イデア」だけであり、しかしそれでも今すぐに・・・というわけではないがちゃんと「白いスバルフォレスターの男」と向き合って自分なりの決着とつけてやろうという意志も消えていない。

結果として、「社会からデタッチされて閉じたボクの世界」が「無理やりでない、新しい社会との関係を取り結ぶ」ところまで行っている。

そのプロセスにおいて女性の役割が「過去作品に比べて減った」ことが、女性からすると「女は入ってくるな」的な扱いを受けたように感じる人もいるかもしれません。フェミニズムの公式見解ではどうなってるか知らないけれども、ひょっとするとこれが「ホモソーシャルの閉じた輪に逃げ込んだ」的な話に見えるかもしれない。

しかし、私の考えでは、むしろここで「過剰に理想化された女性の力」を利用せずに、ちゃんと「古い男友達との納得」「メンシキさんという特異な存在との関係」「白いスバルフォレスターの男との折り合いの付け方」・・・・その他、「対”男”の問題は対”男”の範囲でキッチリ決着をつけた」ことは、むしろ女性が自然な形で自由に生きる余地を生み出す効果があるんだと思っています。

そうやってこそ「ありのままの人間同士」としての男女関係が成立するようにもなる。

・・・ちょっとここのイイグサが原理主義的なフェミニストの人には承服できないかもしれませんが、個人的にはフェミニズムの理想にとっても悪い話ではないはずだと思っています。

(↑これ、”原理主義的”な方々にも理解してもらえるような説明を考えてエンエン書いてみたんですがあまりに迂遠で、かつそんな”正しさ”には興味ない人にはどうでもいい話になっちゃったので消しました。あまり原理主義的に考えない人にとっては、”そういう回路”を利用した方が男どもを社会の中でうまく機能させやすいし、男どもから女性への”ケア”を安定的にうまく引き出しやすいメカニズムを生み出せるはず・・・とかいう功利主義的な言い方でとりあえずは理解しておいていただければと思います)

なかでも「村上春樹作品ここまで来たか!」と思ったのが、後編の最後で13歳の少女と一緒に「騎士団長殺し」と「白いスバルフォレスターの男」の絵を屋根裏部屋に戻しそうとするところで・・・

その少女は涙を流すことを必要としていたのだ。でもうまく泣くことができなかった。おそらくはずいぶん前から、私とみみずくは、そんな彼女の姿を何も言わずに見守っていた。(中略)秋川まりえは長い間まったく声を出さずに泣いていた。でも彼女が泣き続けていることは、身体の細かい震えでわかった。私はその髪を優しく撫で続けた。時間の川を上の方まで遡っていくみたいに。

大人になったなあ・・・・(笑)

過去作に出てきた、基本的に主人公から放ったらかしにされてたティーンガールたち(特に笠原メイ)が、「ちょっと扱いが違いすぎるんじゃない?」と嫉妬してしまいそうです。

なんか、村上春樹を批判する同世代の作家の人とかが、「ノルウェイの森」の一番最初で、どっかの空港に飛行機が降りようとする瞬間に、ノルウェイの森の曲を聞いて主人公が泣き崩れるんだったか気分が悪くなって倒れこむんだったか忘れましたが、そこにフライトアテンダントの女性が「大丈夫ですか?」って聞いてくるシーンなのが大人の男が書く話としてありえない!!!と怒っていた記憶があるんですが。自分にとっての極私的な問題で泣き崩れたら女の人が甲斐甲斐しく気にかけてくれると思ってる甘えた文章だ!みたいな感じで。

よく考えてみると過去の村上春樹作品の主人公たちは自分にしか興味がないというか、他人や目の前の女性についても「閉じたボクの世界におけるその子の意味」にしか興味がないというか・・・なところがあって、寄って来てくれる女性を「自分の都合」だけで扱ってはそのうち関係が途切れると「やれやれ、みなが僕の世界を通り過ぎていってしまう」的な感じになってしまっていた・・・・ところがありますよね。

それに対して最後のところで秋川まりえに対しての態度は、そして最後の娘に対する態度は・・・・「その子自身の問題」に対してちゃんと興味を持って、見守ってやれる余裕を獲得した、大きな変化だと言えるでしょう。



要するに全体として、「デタッチメント」→「コミットメント」と進んできた村上春樹作品は、1Q84で「コミットメント型」の革命の完成形みたいなのを描いた後で色々と「成熟」していく道を歩み、ついに「インテグレーション(閉じたボクの世界とデファクトな世界との間の統合・すり合わせ・協業といったもの)」とも呼ぶべきテーマに踏み込んだんじゃないかというのが私が今回考えたことです。

結果として、普段村上春樹作品を最後までほとんど読めないと怒ってる私の妻も「最後まで読めた・・・というか結構好きな作品かも?」とすら言ってました。そういう意味では過去の村上春樹作品が苦手な方も読めるものになっているかもしれません。

最後のほうで、決してスキを見せない完璧さを常に意図して持っているメンシキさんに対して、自分はそうじゃないんだ、でも自分は「何かを選んで決めてそれで生きていることの価値」をそれ自体として認めて生きていくんだ・・・という、まるでバンプオブチキンのようなことを主人公が言うシーンがありましたね。

でも、ある意味今までの村上春樹作品や今までのハルキ氏本人が、その「完全な防御壁の内側から決して出ない態度」によってイケルところまで行こうとしていたんだ・・・ということも言えるかと思います。

日本の右翼さん界隈では、結構唐突に「南京大虐殺40万人説」が登場することで「非国民文学」扱いされてしまっている本作ですが、しかしその話を持ち出したのは「完全な防御壁の中で生きるメンシキさん」であることにも注意が必要だと私は考えています。

主人公はその「徹底的に正しい存在」によって助けられたけれども、しかし自分はそうではないという自覚もまた明確に持って生きている。そして、そういう「過剰に政治的な言説」からは離れたところで自分は自分だけの価値を打ち立てることが可能だと信じて生きている。その「自分」が「子供を育てる」ということもできるはずだという自信も生み出せている。

慰安婦問題にしても戦争被害者の問題にしてもそうなんですが、これが「政治争点化」され続けて「誰かの絶対的ポジショニングに援用」され続ける限り、解決する目処は決してたたないと私は考えています。しかし、現状そういう争点化が行われていることで、「ポリティカルに完全に正しいメンシキさん」の活動が可能となり、それが社会が良くない抑圧的な方向に一気に流れてしまうことを抑止している効果は一応ある。

しかしあらゆる生身の人間が「完全な正しさの防御壁」の中で生きていくわけはいかない。その「暫定的な盾」の影に隠れながら、前時代的な抑圧に急激に回帰してしまわないように注意しながら、しかし私たちはその「完全な正しさの防御壁」自体が抑圧してしまっている「生身のあなた」「生身のわたし」をすくい上げるプロセスを歩まなくてはならない。

そういう意味で、騎士団長殺しは、過去の村上春樹作品群とは大きく違う、「次なる大きな一歩」を彼が踏み出した作品であると私は考えています。

源氏物語を読もうとしてみたものの「須磨」の章でつまんなくなって以後読むの辞めちゃうのを「須磨返し」と言うそうですが、「ノルウェイ返し」なのか「1Q84返し」なのかなんなのかでもう読まない!と決めたアナタももう一回ぐらいチャレンジしてみると、今までになかった魅力に気づけるかもしれません↓。

騎士団長殺し前編後編



この「殺したのは抽象的なイデアだけであり、その先のメタファーの海を超えることで”どちらかを殺しきってしまうことのないインテグレーションの道が開ける」という話は、最近見たマーティン・スコセッシ監督・遠藤周作原作の映画「サイレンス(沈黙)」のことを非常に思い起こさせました。

それについて、「映画サイレンスが描く”踏み絵を踏んでも残る救済”の世界と、テスラ・モーターズとトヨタのマネジメントの違い、そして東西文化のぶつかりあいの中での日本の可能性」といった長めに記事(かなり好評でした)を以前書いたので、もしよろしければおお読みください↓。

「直接的でなくても伝わる力こそが真実」という話

また、「完全な正しさ」をバージョンアップしてそこに「生身のリアリティ」を繰り込んでいき、新しい世界秩序を生み出そうとする意志について、今回の記事をより大きな視点で捉え返した話として、ここ最近の私の最高傑作ブログと色んな人に言っていただいている以下の記事のよかったらどうぞ↓。

我々が起こすべき「静かなる革命」について・・・または「文脈や空気を読む力こそが知性」という時代の終焉

それでは、また次回お会いしましょう。もう一回ぐらいこのテーマで書くかも・・・しれません。(今回の記事をより広い視点から捉え返す記事を書こうかと思っていますが、上記2つのリンクで充分だという感じもするので、次はまた別の話になるかも・・・・よろしければ上記2つのリンクは2つとも超力作なので長いですがお時間ある時にどうぞ)

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倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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